共有されない判断
開幕の挨拶が終わり、兵頭から頼まれていた役目もそこで一度区切りがついていた。
主会場へ戻ることもできた。会場脇に残ることもできた。開幕後の短いゆるみの中では、生徒も大人もそれぞれの持ち場へ散っている。
湊は、主会場脇の通路で足を止めていた。
開幕前に見かけた濃紺のスーツの男。
主会場で見かけた、見覚えのない女。
どちらも、それだけなら説明がつく。行事の日には外部の大人が多い。名札を付けて身だしなみが整っていれば、行事の一部に見える。
だからこそ、気にかかった。
暦とは、主会場を出たあとで自然に分かれていた。どちらがどこを見ると決めたわけではない。ただ、暦は控室側へ行き、湊はその反対側の通路を見に回った。
二人とも、同じものを気にしていることは分かっていた。
湊は柱のそばに立ち、会場へ入る人と、外へ出てくる人を見ていた。
顔ではなく、動きだった。
急いでいる人。
慣れた場所として歩く人。
周囲を見ず、決められた場所だけへ向かう人。
そんな区別を、無意識にしていた。
「湊」
声は短かった。
湊は振り向いた。
暦が立っていた。走ってきたようには見えない。歩幅だけが普段より大きく、腕章の位置が少しずれている。息は乱れていない。けれど、目だけがいつもの平らさから外れていた。
「何があった?」
湊が言うと、暦はすぐに答えた。
「九条院さんが、予定と違う場所へ行った」
その一言で、湊の中の音が少し遠のいた。
「誰と」
「女のスタッフ。見覚えはない。名札はあった。控室側の装花確認と言っていた」
暦は言葉を選ばなかった。必要なものだけを置いていく話し方だった。
「男もいた。濃紺のスーツ。少し離れて後ろについた」
湊は、主会場側から控室へ続く通路を見た。
人の影が重なっている。式典局員が名簿を持って立ち、来賓対応の生徒が扉の前で会釈をしている。
そこにエリカの姿はなかった。
それだけで、予定から外れたことがはっきりした。
春季晩餐会の前に見た車。
正門付近で見た外部の男。
濃紺のスーツ。
会場で拍手に紛れていた女。
ばらばらだったものが、ここでつながった。
もう、偶然として横に置ける数ではなかった。
湊は、息を一つ吸った。
「どっち」
「講堂裏へ続く方」
暦は即答した。
「まだ騒ぎにはしてない。理由が弱い。警備員に言えば止まるかもしれないけど、相手は何もしていない顔で引く」
「分かった」
「分かってない」
暦の声が、わずかに低くなった。
湊は暦を見た。
暦は湊の顔を見ていた。情報を渡すためではなく、止まるかどうかを確かめる目だった。
湊は答えなかった。
返事をすれば、次の言葉を求められる。
今は、その時間が惜しかった。
「兵頭に伝えて」
それだけ言って、湊は歩き出した。
暦が半歩だけ前へ出た。
「湊」
「兵頭に。九条院さんが予定と違う場所に行った。濃紺のスーツの男がいる。それで通じる」
「一人で行くの」
「兵頭に伝われば、追ってくる」
「兵頭くんが?」
「あいつはそういうやつだ」
湊はそれ以上言わなかった。
兵頭なら、暦の言葉だけで異常だと分かる。
危ないと分かっていても、友人を見捨てる人間ではない。
その確信だけはあった。
暦は一秒だけ黙った。
その沈黙の間に、湊は彼女が他の選択肢を並べていることを知った。湊を止める。自分が追う。警備員へ走る。式典局員に声を上げる。どれもできる。
けれど、暦は足を引いた。
「分かった」
短い返事だった。
「兵頭くんに伝える」
「頼む」
湊は主会場脇の通路を横切った。
走らない。
走れば、周囲が見る。風紀委員が慌てているだけでも目立つが、湊は風紀委員ですらない。正式な持ち場を持たない生徒が突然走れば、式典局員も来賓対応の生徒も反応する。
反応が起これば、奥にいる相手にも届く。
湊は歩幅だけを変えた。
来賓の背後を通る時は速度を落とす。配膳の盆を避ける時は半歩外側へずれる。扉を支えている生徒の前を横切らず、柱の陰を抜ける。周囲を騒がせないまま、主会場の明かりから少しずつ外れていく。
危ないと思ったら近づくな。
逃げろ。
人を呼べ。
湊は、そう教えられて育ってきた。
どれも正しい。
けれど、エリカは今、会場から離されている。あの人は、声を荒げることを避けようとする。場を壊さないように言葉を選ぶ。どんなに疲れていても、自分がどう見えるかを考えてしまう。
それを、湊は知っていた。知ってしまっていた。だから、先に行く。
説明はあとでいい。そう思った瞬間、自分でも無茶をしていると分かった。
暦に情報を渡し、兵頭への伝達を頼み、自分は先に動く。本当なら、兵頭と足並みを揃えるべきだった。それでも足は止まらなかった。
講堂脇の通路へ入ると、会場の音が一段落ちた。
壁には控えめな照明が並び、床の絨毯が靴音を吸う。来賓が迷わないように整えられた場所ではある。だが、華やかさはない。主会場の外側で、見せる必要のある部分だけがきれいに保たれている。
奥へ進むほど、人の数が減った。
湊は角の手前で速度を落とした。
左側に控室の扉。右側に、講堂裏へ続く細い通路。壁際には予備の椅子が二脚、重ねて置かれている。式典局なら、ここに物を長く置きっぱなしにはしない。誰かが一時的に避けたのだろう。
湊は迷わず右へ向かった。
同じ頃、主会場脇では、兵頭匡平が湊の背中を見ていた。
いつもの湊なら、周囲を邪魔しないように歩く。今も、見た目だけならそうだった。来賓の前を横切らず、式典局員の仕事を止めず、盆を持つスタッフの邪魔にもならない。
だが、顔が違った。
普段の湊には、人に余計な圧をかけない柔らかさがある。困っている生徒にも、慣れていない大人にも、まず相手の呼吸に合わせる。その顔が、今は消えていた。
歩き方も違う。
急いでいるのに、急いでいるように見せていない。
兵頭が声をかける前に、暦が来た。
「兵頭くん」
暦は立ち止まらず、兵頭の横に並んだ。
「九条院さんが予定と違う場所へ行きました。女のスタッフに案内されています。見覚えはありません。濃紺のスーツの男が後ろにつきました」
兵頭の眉が動いた。
「悠木は」
「追いました」
「……あいつ」
兵頭は細部を聞き返さなかった。
式典局の腕章をつけた生徒が、近くで名簿を持っていた。兵頭はそちらへ顔を向ける。
「ここを空けるな。控室前は二人で見ろ。奥へ人を流すな。警備の人が来たら、講堂裏側を確認してもらえ。理由は俺が後で説明する」
「兵頭さん?」
「今は聞くな。式典局の仕事として、会場側を止めるな」
言い方は荒くない。
けれど、返事を待つ声でもなかった。
式典局員は一瞬だけ迷い、それでも頷いた。
「分かりました」
兵頭は暦へ視線を戻した。
「影山、お前はここに残れ。先生か警備に伝える時、見た内容をそのまま言え。余計な推測はいらん」
「分かっています」
「悠木の真似はするな」
「しません」
暦は短く答えた。
兵頭はもう歩き出していた。
湊が消えた方へ向かう。その足取りは速く、静かだった。低い重心のまま、人の間を抜けていく。華やかな場に似合う歩き方ではない。
けれど暦には、今はそれが頼もしく見えた。
暦はその背中を見た。
湊は追う。
兵頭も追う。
自分は残って、伝える。
その分担は、誰かが決めたものではない。今はそうするしかなかった。
湊は講堂裏へ続く角を曲がった。
空気が変わった。
主会場の匂いが薄れ、外気の冷たさが混じる。壁際の照明はあるが、人のための明るさではない。物を運ぶ時に足元が見えれば足りる、その程度の光だった。
奥に扉がある。
その扉の向こうは、屋外側の細い通路につながっているはずだった。搬入や施設管理の者が使う場所で、来賓が通る場所ではない。式典局の会場班なら把握している。だが、九条院エリカが装花の確認で向かう場所ではない。
湊は扉へ近づいた。
取っ手に手をかける前に、外から低い声がわずかに漏れた。
言葉までは聞き取れない。
ただ、女の声ではなかった。
湊は息を止めた。
扉の向こうで、誰かの靴音が遠ざかる。
一人ではない。
外の冷えた空気が、扉の隙間から細く流れ込んでいた。
湊は取っ手を押した。
講堂裏の屋外通路が、細く開いた。
その先は、裏門へ続く側だった。




