消えた令嬢
講堂の脇へ出ると、会場の音は一枚布を挟んだように遠くなった。
弦の響きも、来賓の笑い声も、扉の向こうでは華やかに混ざっている。廊下に出れば、それは途端に背景になる。足音、布の擦れる音、控室へ向かう人の短い声。それぞれが役割を持って動いていた。
九条院エリカは、壁際で一度だけ立ち止まった。
袖口を軽く整える。髪に触れたい気持ちはあったが、そこには手を上げなかった。今日は、少しの乱れも目立つ。九条院の娘として見られている以上、身支度の確認も人目のある場所では所作の一部になる。
次は主会場側へ戻る予定だった。
来賓対応の合間に、受付の様子を見ただけである。弦楽部の出番もまだ完全には終わっていない。式典局の生徒としても、長く持ち場を離れる理由はなかった。
その時、女性スタッフが近づいてきた。
「九条院さま、恐れ入ります。念のため、ご確認をお願いできますでしょうか」
エリカは相手へ向き直り、柔らかく微笑んだ。
「はい。どちらの件でしょう」
濃い色の落ち着いたスーツを着て、白い名札を胸に下げている。髪は低い位置でまとめられ、化粧も控えめだった。東都院の行事に入る臨時スタッフとして、不自然なところは一見するとない。
「控室側の装花の配置に、先ほど一部変更がありまして」
女の言葉は、あくまで控えめだった。
エリカはわずかに目を伏せ、相手の名札へ視線を置いた。
「私でよろしいのですか。接遇班の方へは、もう」
「はい。接遇班の方から、九条院さまにも一度ご確認いただければと伺っております。お時間は取らせません」
言葉の運びは自然だった。
控室側の装花なら、来賓の目にも入る。接遇班の名前が添えられれば、無下にもできない。装花の高さや色の置き方は、挨拶の場や写真の見え方にも関わる。担当が迷って、式典や接遇に関わる生徒へ声をかけること自体はあり得た。
それでも、胸の奥に小さな引っかかりが残った。
「失礼ですが、どちらのご担当からでしょうか。こちらからも、あとで接遇班へ連絡しておきますので」
「控室側の者です。申し訳ございません、今は少々立て込んでおりまして」
女は困ったように眉を下げた。
謝り方は上手だった。相手の言い分を遮らず、けれど必要な情報は渡さない。慣れているというより、そう見えるように意図した話し方だった。
エリカは名札を読む。会社名らしい文字と姓が一つある。見覚えはない。今日入っている外部スタッフ全員の顔を覚えているわけではないので、それだけで判断はできなかった。
廊下の向こうで、配膳補助のスタッフが銀色の盆を持って通った。式典局員が一礼し、控室の扉を閉める。そこまではいつも通りだった。
エリカは、ほんのわずかに呼吸を浅くした。
「拝見するだけでしたら、接遇班の方を一人お呼びします」
エリカは穏やかに言った。
断る言葉にはしない。人を増やす言葉にする。相手の面子を潰さず、自分も一人では動かずに済む言い方だった。
女の微笑が、わずかに固くなった。
「お手数をおかけするほどのことではございません。すぐそちらですので」
「ですが、会場側を空ける時間が長くなりますと」
「本当に、すぐです。こちらです。すぐ近くですので」
女は一歩下がり、通路の奥を示した。
エリカは主会場側を一度見た。
その視線の先には、戻るべき場所がある。会場内の明かり。人の声。式典局の生徒。九条院エリカがいても自然な場所。
ここで強く退けることはできる。
けれど、相手は名札を下げている。用件は式典に関わり、接遇班の名前も出ている。本当に連絡の行き違いであれば、エリカがここで臨時スタッフをお座なりに扱った事実だけが残る。
祖母から、何度も教わってきたことだった。礼法は、自分をよく見せるためだけのものではない。相手を無用に恥じさせないためにもある。
その教えが、今は足元に絡んだ.
「分かりました。確認だけでしたら」
言った瞬間、自分の声が丁寧すぎることに気づいた。
女は頭を下げた。
「ありがとうございます」
先に歩き出した背中を、エリカは一歩遅れて追った。
主会場側の明かりが、背後へ下がっていく。講堂脇の通路は、来賓が迷わない程度には整えられているが、奥へ進むほど人の気配が薄くなる。壁の装飾も控えめになり、床の絨毯が足音を吸った。
エリカは歩く速度を落とした。
「どちらの控室でしょうか」
「すぐ先です」
「部屋名を伺っても?」
「裏の確認場所です」
裏、という言葉は、東都院の公式行事では便利すぎた。
控室裏。講堂裏。搬入の裏手。スタッフ控え。来賓の目に入らない一角。裏と言えば、いくらでも場所がある。正確に言わない理由にはならない。
エリカは足を緩めた。
前の背中が止まる。女が振り返った。
「九条院さま?」
「一度、会場側に伝えます」
エリカはそう言って、身体の向きを変えた。
戻ろうとした先に、男がいた。
いつからいたのか、気づかなかった。廊下の中央ではない。人が通れば避けられる位置だ。けれど、エリカが主会場へ戻ろうとすれば、必ず視界に入る場所だった。
男は声を荒げなかった。
「ここでお戻りになると、かえって目立ちます」
その声は低く、落ち着いていた。
脅しではなかった。行事に慣れた大人が、若い生徒へ無用な混乱を避けるよう諭している。そう見えるように、調子が整えられていた。力で押さえつける必要はない、と判断している。その落ち着きが、かえって危険だった。
エリカは男の目を見た。
冷たい、というほどではない。怒ってもいない。焦ってもいない。ただ、こちらがどう動くかを見ている目だった。
女が近づいた。
「本当に、少しだけですから」
その声から、さっきまでの柔らかさが削れていた。
エリカは、危険だと理解した。
大声を出せば、主会場側には届く。式典局員も、配膳のスタッフもいる。叫べば、誰かが来る。少なくとも、この二人は足を止める。
その直前に、講堂側から明るい笑い声が流れてきた。
来賓の声だった。
九条院家の娘が、講堂脇で声を荒げる。たとえ正しい行動でも、その瞬間だけを切り取られれば、春季晩餐会という行事に傷を残すことになる。
違う。
それは今考えることではない。
頭ではそう分かっていた。けれど、体は動かなかった。場を壊さないために学んできたすべてが、声を出すという決断を遅らせた。
その隙を、男は逃さなかった。
一歩分、近づいた。
大きな動きではない。戻る道を塞ぐには、それで足りた。
女の顔から、笑みが消えかけていた。
「早くしてください」
その言葉だけが、丁寧さから外れた。
エリカは唇を引き結んだ。
自分が遅れた。
助けを呼ぶべき場面で、家の名と外聞を先に思い浮かべた。
その事実が、恐怖より鋭く胸に入った。
「私は、戻ります」
声は出た。
けれど、十分な大きさではなかった。
男が、変わらない調子で言った。
「お戻りいただけます。用件が済みましたら」
女は先へ手を示した。
「こちらへ」
通路の奥は、会場の明かりから外れている。
エリカは踏みとどまろうとした。だが、男が一歩分だけ横へ動いた。触れられてはいない。腕を掴まれたわけでもない。それでも、戻る道には男がいる。
今なら、まだ声は届く。
そう思った時には、前の女が扉へ手をかけていた。
「すぐに済みます」
言葉は急いでいた。
その焦りが、女の未熟さを見せた。けれど、男は崩れない。エリカの視線が女へ向いた分だけ、静かに距離を詰めてくる。
扉の向こうから、外の冷えた空気が流れ込んだ。
講堂裏へ続く裏口だった。
「中での確認ではないのですか」
「外からの見え方も含めてです」
女の答えは、もう雑だった。
エリカはそこで足を止めた。
もう、確認ではない。
裏口の扉が開いたままになっている。外には細い通路が続いていた。壁沿いに低い外灯が並び、植え込みの影が地面に落ちている。主会場の明かりは届かない。講堂の音も、扉を一枚挟んだだけで遠くなった。
ここは来賓が通る場所ではない。
外部スタッフや施設管理の者が使う場所だ。行事の日には人が増える。だから、誰かが通っても不思議ではない。だが、九条院エリカが一人で連れてこられる場所ではなかった。
男が背後から言った。
「進んでください」
声は低く、礼を崩していなかった。けれど、有無を言わせぬ圧があった。
エリカは振り返らなかった。振り返れば、表情を読まれる。前を見たまま、外の暗さと、壁沿いに続く細い道を見た。
その先に、裏門へ向かう曲がり角がある。
そこまで行けば、本当に会場の目から外れる。
エリカは息を吸った。
今度こそ、声を出さなければならない。
そう思った瞬間、背後で扉が静かに閉まった。




