予定外の人
春季晩餐会は、開幕の挨拶を終えると張りつめた空気が一度ゆるんだ。
直前まで響いていた挨拶や、席へ案内される足音は引いている。主会場の扉越しに聞こえる弦の音も、会場内の話し声に溶けて遠くで水が流れるように続いていた。
影山暦は主会場脇の廊下で足を止めた。湊とは会場を出るときに分かれている。暦が見る予定のない側は、湊が見ることになっていた。
風紀委員の腕章は、制服の袖にきちんと留めてある。目立つためのものではない。廊下にいる生徒や来賓対応の補助員が、ここにも見回りがいると分かる程度でよかった。
今日の仕事は生徒が羽目を外していないか確認することと、立ち入りを控える場所へ迷い込む者がいないか見ることだった。
普段の校内と違い、春季晩餐会の日は人の種類が多い。
来賓。保護者。後援会関係者。式典局員。執行部の生徒。風紀委員。警備員。装花や音響の外部スタッフ。配膳を担当する人員。
一つ一つは登録されている。入口も、控室も、搬入の時間も、学校側と式典局が確認している。
それでも、全員の顔を暦が知っているわけではない。
だから暦は、顔そのものよりも配置を見ていた。
持ち場と人の動き、そして振る舞いから、不自然さを見つける。
控室前の廊下では、式典局の生徒が二人、来賓用の名札を確認していた。壁際には装花の箱が一つ残されている。淡い白と薄紫の花が、布をかけられた台の上で静かに整えられていた。
その横を、配膳補助のスタッフが盆を持って通る。
暦は視線だけを動かして数えた。
二人。続いて一人。間を空けて、会場側へ戻る生徒が一人。
予定の範囲だった。
主会場の扉が開き、笑い声が廊下へ流れた。来賓対応の生徒が一礼して扉を支え、着物姿の女性を中へ案内する。その動きに乱れはない。
暦は歩き出した。
廊下の角を曲がると、控室へ続く通路がある。そこは主会場ほど明るくない。照明は落ち着いていて、壁の装飾も控えめだった。来賓が通るには十分に整っているが、会場内の華やかさからは一歩外れている。
その通路の手前で、九条院エリカが立っていた。
暦はすぐに足を止めなかった。
止まると、見ていることが分かる。
エリカは学園側の生徒としての装いで立っていた。髪はいつもより丁寧にまとめられ、肩から背中へ流れる線に乱れがない。主会場にいると、それだけで人の目を集める。
彼女がこの周辺にいること自体はおかしくない。
エリカは式典や接遇に関わる側の生徒で、今日も来賓対応や会場周辺の確認に回っている。暦の見回り表にも、九条院エリカの名前は何度か出ていた。
問題は、向いている方向だった。
エリカは主会場側へ戻るはずだった。
少なくとも、暦が最後に確認した配置ではそうなっている。次に呼ばれる可能性があるのは会場内か、式典局員が待機している会場脇の一角だった。今いる通路の奥は、外部スタッフの出入りが多く、箱や予備の備品が一時的に置かれる場所になっていた。エリカが一人で向かうとは考えにくい。
エリカの前には、女性スタッフがいた。
年齢は二十代後半から三十代前半ほどに見えた。濃い色の落ち着いたスーツに、白い名札を下げている。髪は低くまとめられ、化粧も控えめだった。声を荒げる様子も、周囲を気にしすぎる様子もない。
むしろ、こういう行事に慣れている臨時スタッフの一人に見えた。
「控室側の装花の配置に、先ほど一部変更がありまして」
女の声は丁寧だった。
エリカはわずかに目を伏せ、相手の名札へ視線を置いた。
「私でよろしいのですか。接遇班の方へは、もう」
「はい。接遇班の方から、九条院さまにも一度ご確認いただければと伺っております。お時間は取らせません」
言葉の運びは自然だった。
暦は、その自然さを覚えた。
エリカは相手を疑っている顔ではない。けれど、納得している顔でもない。言われた内容を、頭の中で配置に当てはめている。その途中で、断るほどの理由を見つけられずにいるように見えた。
エリカは、場を乱さない。
相手が丁寧で、用件が式典に関わるものなら、乱暴に拒まない。九条院エリカとして、相手の面子を潰さずに確認する。その癖を、暦は何度か見ている。
だからこそ、動かしやすい。
そこまで考えて、暦はまばたきを一つした。
まだ、騒ぐ段階ではない。
女は名札を下げている。エリカは自分の足で歩こうとしている。周囲には式典局員も来賓対応の生徒もいる。廊下に声もある。
今の状況は、予定と違うという、それだけだった。
暦は女から離れた位置にいる男へと視線を向けた。
男は壁際に立っていた。濃紺のスーツを着て、手には薄いファイルを持っている。名札もある。会場側から見れば、控室の確認をしている関係者に見えるだろう。
だが、その男だけは別だった。
案内役なら、相手か通る先を見る。配膳補助なら、盆と通路幅を見る。装花や音響の人間なら、自分の作業先を見る。
その男だけは、相手も作業先も見ていなかった。
主会場側から人が来る角と、反対側の角を交互に測っている。邪魔にならない位置に立っているのではない。邪魔をしない人間に見える位置を選んでいた。
暦は壁際の装花台へ近づき、札の位置を確認するように視線を落とす。風紀委員が控室前で立ち止まっていても、不自然ではない動きにした。
近くの式典局員が、暦に軽く会釈する。
「お疲れ様です、影山さん。こちらは問題ありません」
「お疲れ様です。人の流れは落ち着いています」
暦は短く答えた。
声はいつも通りにした。大きくも、小さくもない。会話をしたという事実だけが残ればいい。
式典局員は頷き、手元の名簿へ戻る。
その間に、女が一歩下がった。
「こちらです。すぐ近くですので」
エリカは主会場側を一度見た。
その視線の先には、戻るべき場所がある。会場内の明かり。人の声。式典局の生徒。九条院エリカがいても自然な場所。
それから、エリカは女の示す方へ向き直った。
「分かりました。確認だけでしたら」
暦の中で、順番が組み替わった。
エリカが動く。女が前に立つ。男は距離を保つ。通路の奥は人目が減る。今ここで声を上げれば、止められるかもしれない。だが、理由を説明できない。
見覚えがない女。
予定外のエリカへの依頼。
不自然な視線を向ける男。
濃紺のスーツの男。
湊が気にしていた相手だ。暦は、湊のそういう判断を軽く扱わない。
声を上げれば、その場は止まる。
警備員も式典局員も来る。女と男は、何もしていない顔で引くだろう。
残るのは、理由の弱いまま場を乱した風紀委員と、案内を受けかけただけの九条院エリカだった。
それでは止めたことにならない。
風紀委員として、見なかったことにしてよい状況ではなかった。
けれど、理由の弱いまま騒ぎを起こし、自分の立場を崩すほどではない。
その線を越える相手は、暦には一人しかいない。
暦は騒がないことを選んだ。
騒がないことと、見送ることは違う。
女が歩き出す。エリカがその後に続く。男はすぐには動かなかった。二人が角へ近づくのを待ち、廊下の反対側を一度見てから、自然な歩幅で後を追う。
暦は視線を外した。
見たものを一つずつ頭の中に置く。
女の髪の結び目。名札の白さ。声の高さ。右手で名札を触る癖。男の靴音。ファイルを持つ手。壁から半歩離れた立ち位置。エリカが主会場側を見た時間。
兵頭へ伝える選択肢もあった。警備員へ声をかけることもできる。
ただ、そのどちらにも、暦はまず説明をしなければならない。
湊なら、詳しい説明を待たずに見る。
暦が「変」と言えば、何が変かを聞く前に、見るべき場所へ目を向ける。
その相手だけは、暦の中で最初から別だった。
湊へ知らせる。
湊は暦が見ない側を見ている。会場を出るとき、そう分けた。今の違和感を渡すなら、湊の受け持った側へ向かうのが一番早い。
廊下の角を曲がる前、暦は一度だけ振り返った。
エリカの背中が、会場の明かりから外れていく。
まだ、歩いているだけに見える。
案内されているだけに見える。
だから、誰も止めない。
暦は足を速めた。
走らない。走れば、周囲がこちらを見る。風紀委員が慌てていると分かれば、女も男も気づく。
歩幅だけを広げる。
主会場脇の廊下へ戻ると、人の声が戻ってきた。グラスの触れる音。笑い声。来賓対応の生徒の低い案内。式典局員が確認事項を伝える声。
湊がいるはずの側は、主会場の外だった。
暦は人の流れを避けながら、会場入口の横を抜けた。
暦は通路の奥を思い出した。
エリカは女に案内されていた。
男はその後ろについた。
会場の明かりと声から、少しずつ外れていく。
それを暦は見た。
だから今は、湊へ知らせる。




