開幕
暦が風紀委員の待機位置へ戻った時、主会場の前では、開幕前のざわめきが静かに整えられていた。
来賓と保護者の列は、入口でいったん細くなり、式典局員の案内を受けて会場内へ流れていく。受付の前で名を告げる声、案内を受けて礼を返す声、靴音、布地の擦れる音。どれも低く抑えられていた。人は多いのに、騒がしさにはならない。
東都院の行事では、声の大きさまで自然に揃っていく。
暦は壁際に立ち、風紀委員の腕章の位置を直した。目立つためではない。そこにいる理由を、周囲へ先に示すためだった。
廊下の奥には、控室方面へ続く通路がある。関係者用の出入り口も、来賓が通る正面の入口も、暦の位置からはどちらも見えた。見回りの持ち場としては広すぎる。けれど、今の暦には意識しておく相手がいた。
濃紺のスーツの男。
湊が言った特徴は、言葉のまま頭の中に残っている。服装、立っていた場所、人の流れから外れていたこと。暦はそれを、危険人物としてではなく、確かめる相手として扱った。
危険と呼ぶほどではない。けれど、記憶から外す相手でもなかった。
「暦」
声をかけられて、暦は視線だけを横へ動かした。
湊が主会場側の通路から戻ってきていた。式典局の腕章はつけていないが、兵頭の手伝いで動いていたためか、普段より少しだけ姿勢が硬い。
「兵頭くんは」
「向こう。次の入れ替えまで、まだ戻れないと思う」
「そう」
暦は短く答え、主会場の入口へ意識を戻した。
湊は、暦の邪魔にならないよう、半歩離れて並んだ。長くそうしてきた人の距離だった。
「ここから見える?」
「中央と控室入口なら」
「なら、十分だ」
湊はそれだけ言って、会場の方を向いた。
主会場の扉が開いたまま固定される。中では、席に着いた来賓と保護者が、静かに正面へ向き直っていた。上座に近い場所ほど、動きが小さい。礼を返す角度も、椅子へ腰を下ろす速さも、隣へ言葉を渡す間も、場に合わせて低く整えられている。
榊原叡志は、会場前方の端に立っていた。
中心に立ちすぎてはいない。けれど、そこから一歩動けば、誰が次に話し、誰が続いて礼をするのかが分かる位置だった。式典局員が一度だけ近づき、確認を入れる。榊原は軽く頷き、会場全体へ視線を配った。
鷹司澄礼は、来賓席に近い列の脇にいた。
彼女は誰かを急がせない。強く促すこともしない。ただ、そこに立っているだけで、周囲の所作が少し丁寧になる。来賓が会釈をすれば、澄礼は浅すぎず、深すぎない礼を返した。その形に、近くの下級生が目で学ぶ。
暦は、その二人を同じ種類の人間としては処理しなかった。
榊原は場を動かす人間だった。澄礼は場の高さを保つ人間だった。どちらも東都院の中では目立つが、目立ち方が違う。
開幕の挨拶が始まった。
会場のざわめきが、ゆっくりと収まっていく。式典局員が壁際に下がり、外部業者らしき者たちも音を立てない場所へ移った。兵頭の姿は主会場の端にあった。手元の紙を折り返し、近くの式典局員へ短く何かを伝えている。拍手の時にどこが動くか、もう次を考えている顔だった。
湊の注意は、会場全体へ向いているようで、途中から別の一点に留まっていた。
華やかな席でも、榊原の立ち位置でも、澄礼の礼でもない。弦楽部員が前へ出てきた時、その横顔だけが少し変わった。
九条院エリカがいた。
弦楽部の中で、エリカは前に出すぎていなかった。けれど、隠れる位置にもいない。淡い髪は照明を受けても派手にならず、肩に置いたヴィオラと、まっすぐ伸びた背筋の間に、ちょうどよい静けさがあった。
彼女は演奏者として立っている。九条院家の令嬢としても立っている。
その二つが一人の立ち姿の中に重なっていることを、会場の人間は自然に受け取っていた。
暦はエリカの指先を見た。弓を持つ手が乱れているわけではない。礼も、立ち位置も、隣の部員との間隔も整っている。けれど、演奏前に息を入れる一瞬だけ、肩の力が抜けきらなかった。
湊はそこに気づいているようだった。
顔や髪、姿勢とは別のところに、湊は目を留めている。
暦は、湊の横顔を見た。
湊が九条院エリカを見ている。
その事実を、暦は感情の名前にしなかった。分類する必要は、まだなかった。湊が何を見たのか。九条院エリカがどの瞬間に力を入れたのか。それだけを残せばいい。
弦楽部の演奏が始まった。
最初の音が主会場の天井へ薄く広がる。話し声が消え、食器の触れる音も遠くなった。春季晩餐会は、食事と社交の場である前に、東都院の秩序を見せる場でもある。音楽は、その始まりに置かれていた。
暦は音楽の良し悪しを細かく判断しない。
けれど、会場が一つの方向を向いたことは分かった。来賓の顔が和らぎ、保護者の背筋が伸び、生徒たちは動きを止める。式典局員でさえ、確認の手を遅らせた。
美しいものを見る時、人は自分の周囲を忘れやすいということを、暦は覚えていた。
暦は控室方面の入口へ目を向けた。
濃紺のスーツの男は、すぐには見つからなかった。
代わりに、関係者らしき大人の中に、見覚えのない女がいた。濃い色の落ち着いたスーツを着て、会場の壁際に控えている。外部業者と言えばそう見える。けれど、手元に仕事道具はなく、誰かの案内を受けている様子もない。
行事のある日は大人の数が多い。知らない顔がいても、それだけで異常にはならない。
演奏が進む。
エリカの弓は、途中でわずかに深く入った。隣の部員が息を合わせる。会場から見れば、ひとつの音の揺れにすぎない。湊の注意は動かなかった。
暦は、その横顔も覚えた。
曲が終わる前に、会場脇で兵頭が一度だけ顔を上げた。拍手のあとの移動を見越しているのだろう。入口横の式典局員に手で合図を送る。合図は小さかったが、受け取った生徒の立ち位置がすぐに変わった。
表に立つ者と、裏で働く者。
暦は、兵頭を後者として記憶している。本人は目立たないが、少なくともこの場の流れの一部は、兵頭の手で保たれている。
最後の音が止まった。
一拍の静けさがあり、それから拍手が起きた。
拍手は、最初に前方から広がり、すぐに会場全体を包んだ。来賓も保護者も生徒も、同じ方向へ手を向ける。視線が舞台側へ寄る。誰もが弦楽部を見ていた。
エリカは楽器を下ろし、部員たちとともに礼をした。
礼の角度はきれいだった。けれど、顔を上げた後、彼女の唇がほんのわずかに緩んだ。役割を終えた人間の顔だった。すぐに表情は戻る。周囲の部員に合わせ、エリカは会場脇へ下がっていった。
湊の目が、その背中を追った。
暦は、湊を見た。
湊は追いかけず、呼び止めもしなかった。ただ、エリカが会場脇へ下がるまで、目を外さなかった。
暦は、次に控室方面の入口を見た。
湊の視線も、エリカの背中からその入口へわずかにずれた。
拍手の中で、さっきの女が動いていた。
彼女は大きく移動したわけではない。会場の端を、拍手をしながら歩いただけだった。だが、立つ場所が変わっている。先ほどまで壁際にいたはずの女は、今はその入口の手前にいる。
拍手に紛れるには、自然な速さだった。
誰かに急かされた様子も、誰かと目配せをした様子もない。女は会場の中心へ顔を向け、手を叩き、周囲と同じ動きをしていた。
湊から聞いた男ではない。けれど、周囲と同じ動きの中で、立つ場所だけが変わっていく。
暦は女を追わなかった。
持ち場を離れる理由には足りない。今ここで風紀委員が動けば、かえって人の流れを乱す。女は歩く速さを崩さず、来賓からも距離を保っていた。控室方面には、外部業者や学園職員も出入りしている。
暦は、女の顔を長く見なかった。
歩く速さ。人の間へ入る位置。拍手が大きくなった時だけ動いたこと。
それだけで、今は十分だった。
「暦」
湊の声は低かった。
暦は湊を見ずに答えた。
「気づいてる」
湊はそれ以上言わなかった。
言葉にすれば、確かなもののようになる。確かなものにするには、まだ足りない。湊もそれを分かっている。だから、二人の間には短い返事だけが置かれた。
エリカは会場脇の通路へ下がりきった。
弦楽部員が順に控室側へ移動していく。式典局員が拍手の弱まる頃合いを見て、次の進行へ移る準備を始める。榊原が前方で軽く身を引き、澄礼が来賓の視線を受けて静かに礼を返した。
主会場は、美しいままだった。
拍手はまだ続いている。誰も声を上げていない。警備員も走っていない。兵頭は会場端で紙を持ち直し、次の人の流れを見ている。湊はエリカの下がった通路を見ている。
暦は、その横顔を見て、それから控室方面へ歩いていく大人の背中を見た。
湊の視線。
エリカの退場。
湊から聞いた濃紺のスーツの男。
控室方面へ寄る女。
四つは同じ出来事ではない。けれど、同じ夜の違和感として、暦の中で隣に置かれた。
まだ何も起きていない。
それでも、忘れないものが一つ増えた。




