表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
東都院物語  作者: 橘鉄真
PR
51/61

開幕

暦が風紀委員の待機位置へ戻った時、主会場の前では、開幕前のざわめきが静かに整えられていた。

来賓と保護者の列は、入口でいったん細くなり、式典局員の案内を受けて会場内へ流れていく。受付の前で名を告げる声、案内を受けて礼を返す声、靴音、布地の擦れる音。どれも低く抑えられていた。人は多いのに、騒がしさにはならない。

東都院の行事では、声の大きさまで自然に揃っていく。

暦は壁際に立ち、風紀委員の腕章の位置を直した。目立つためではない。そこにいる理由を、周囲へ先に示すためだった。

廊下の奥には、控室方面へ続く通路がある。関係者用の出入り口も、来賓が通る正面の入口も、暦の位置からはどちらも見えた。見回りの持ち場としては広すぎる。けれど、今の暦には意識しておく相手がいた。

濃紺のスーツの男。

湊が言った特徴は、言葉のまま頭の中に残っている。服装、立っていた場所、人の流れから外れていたこと。暦はそれを、危険人物としてではなく、確かめる相手として扱った。

危険と呼ぶほどではない。けれど、記憶から外す相手でもなかった。


「暦」


声をかけられて、暦は視線だけを横へ動かした。

湊が主会場側の通路から戻ってきていた。式典局の腕章はつけていないが、兵頭の手伝いで動いていたためか、普段より少しだけ姿勢が硬い。


「兵頭くんは」

「向こう。次の入れ替えまで、まだ戻れないと思う」

「そう」


暦は短く答え、主会場の入口へ意識を戻した。

湊は、暦の邪魔にならないよう、半歩離れて並んだ。長くそうしてきた人の距離だった。


「ここから見える?」

「中央と控室入口なら」

「なら、十分だ」


湊はそれだけ言って、会場の方を向いた。

主会場の扉が開いたまま固定される。中では、席に着いた来賓と保護者が、静かに正面へ向き直っていた。上座に近い場所ほど、動きが小さい。礼を返す角度も、椅子へ腰を下ろす速さも、隣へ言葉を渡す間も、場に合わせて低く整えられている。

榊原叡志は、会場前方の端に立っていた。

中心に立ちすぎてはいない。けれど、そこから一歩動けば、誰が次に話し、誰が続いて礼をするのかが分かる位置だった。式典局員が一度だけ近づき、確認を入れる。榊原は軽く頷き、会場全体へ視線を配った。

鷹司澄礼は、来賓席に近い列の脇にいた。


彼女は誰かを急がせない。強く促すこともしない。ただ、そこに立っているだけで、周囲の所作が少し丁寧になる。来賓が会釈をすれば、澄礼は浅すぎず、深すぎない礼を返した。その形に、近くの下級生が目で学ぶ。

暦は、その二人を同じ種類の人間としては処理しなかった。

榊原は場を動かす人間だった。澄礼は場の高さを保つ人間だった。どちらも東都院の中では目立つが、目立ち方が違う。

開幕の挨拶が始まった。

会場のざわめきが、ゆっくりと収まっていく。式典局員が壁際に下がり、外部業者らしき者たちも音を立てない場所へ移った。兵頭の姿は主会場の端にあった。手元の紙を折り返し、近くの式典局員へ短く何かを伝えている。拍手の時にどこが動くか、もう次を考えている顔だった。


湊の注意は、会場全体へ向いているようで、途中から別の一点に留まっていた。

華やかな席でも、榊原の立ち位置でも、澄礼の礼でもない。弦楽部員が前へ出てきた時、その横顔だけが少し変わった。

九条院エリカがいた。

弦楽部の中で、エリカは前に出すぎていなかった。けれど、隠れる位置にもいない。淡い髪は照明を受けても派手にならず、肩に置いたヴィオラと、まっすぐ伸びた背筋の間に、ちょうどよい静けさがあった。

彼女は演奏者として立っている。九条院家の令嬢としても立っている。


その二つが一人の立ち姿の中に重なっていることを、会場の人間は自然に受け取っていた。

暦はエリカの指先を見た。弓を持つ手が乱れているわけではない。礼も、立ち位置も、隣の部員との間隔も整っている。けれど、演奏前に息を入れる一瞬だけ、肩の力が抜けきらなかった。

湊はそこに気づいているようだった。

顔や髪、姿勢とは別のところに、湊は目を留めている。

暦は、湊の横顔を見た。


湊が九条院エリカを見ている。

その事実を、暦は感情の名前にしなかった。分類する必要は、まだなかった。湊が何を見たのか。九条院エリカがどの瞬間に力を入れたのか。それだけを残せばいい。

弦楽部の演奏が始まった。

最初の音が主会場の天井へ薄く広がる。話し声が消え、食器の触れる音も遠くなった。春季晩餐会は、食事と社交の場である前に、東都院の秩序を見せる場でもある。音楽は、その始まりに置かれていた。

暦は音楽の良し悪しを細かく判断しない。


けれど、会場が一つの方向を向いたことは分かった。来賓の顔が和らぎ、保護者の背筋が伸び、生徒たちは動きを止める。式典局員でさえ、確認の手を遅らせた。

美しいものを見る時、人は自分の周囲を忘れやすいということを、暦は覚えていた。

暦は控室方面の入口へ目を向けた。

濃紺のスーツの男は、すぐには見つからなかった。

代わりに、関係者らしき大人の中に、見覚えのない女がいた。濃い色の落ち着いたスーツを着て、会場の壁際に控えている。外部業者と言えばそう見える。けれど、手元に仕事道具はなく、誰かの案内を受けている様子もない。


行事のある日は大人の数が多い。知らない顔がいても、それだけで異常にはならない。

演奏が進む。

エリカの弓は、途中でわずかに深く入った。隣の部員が息を合わせる。会場から見れば、ひとつの音の揺れにすぎない。湊の注意は動かなかった。

暦は、その横顔も覚えた。

曲が終わる前に、会場脇で兵頭が一度だけ顔を上げた。拍手のあとの移動を見越しているのだろう。入口横の式典局員に手で合図を送る。合図は小さかったが、受け取った生徒の立ち位置がすぐに変わった。


表に立つ者と、裏で働く者。

暦は、兵頭を後者として記憶している。本人は目立たないが、少なくともこの場の流れの一部は、兵頭の手で保たれている。

最後の音が止まった。

一拍の静けさがあり、それから拍手が起きた。

拍手は、最初に前方から広がり、すぐに会場全体を包んだ。来賓も保護者も生徒も、同じ方向へ手を向ける。視線が舞台側へ寄る。誰もが弦楽部を見ていた。


エリカは楽器を下ろし、部員たちとともに礼をした。

礼の角度はきれいだった。けれど、顔を上げた後、彼女の唇がほんのわずかに緩んだ。役割を終えた人間の顔だった。すぐに表情は戻る。周囲の部員に合わせ、エリカは会場脇へ下がっていった。

湊の目が、その背中を追った。

暦は、湊を見た。

湊は追いかけず、呼び止めもしなかった。ただ、エリカが会場脇へ下がるまで、目を外さなかった。


暦は、次に控室方面の入口を見た。

湊の視線も、エリカの背中からその入口へわずかにずれた。

拍手の中で、さっきの女が動いていた。

彼女は大きく移動したわけではない。会場の端を、拍手をしながら歩いただけだった。だが、立つ場所が変わっている。先ほどまで壁際にいたはずの女は、今はその入口の手前にいる。

拍手に紛れるには、自然な速さだった。


誰かに急かされた様子も、誰かと目配せをした様子もない。女は会場の中心へ顔を向け、手を叩き、周囲と同じ動きをしていた。

湊から聞いた男ではない。けれど、周囲と同じ動きの中で、立つ場所だけが変わっていく。

暦は女を追わなかった。

持ち場を離れる理由には足りない。今ここで風紀委員が動けば、かえって人の流れを乱す。女は歩く速さを崩さず、来賓からも距離を保っていた。控室方面には、外部業者や学園職員も出入りしている。

暦は、女の顔を長く見なかった。

歩く速さ。人の間へ入る位置。拍手が大きくなった時だけ動いたこと。

それだけで、今は十分だった。


「暦」


湊の声は低かった。

暦は湊を見ずに答えた。


「気づいてる」


湊はそれ以上言わなかった。

言葉にすれば、確かなもののようになる。確かなものにするには、まだ足りない。湊もそれを分かっている。だから、二人の間には短い返事だけが置かれた。

エリカは会場脇の通路へ下がりきった。

弦楽部員が順に控室側へ移動していく。式典局員が拍手の弱まる頃合いを見て、次の進行へ移る準備を始める。榊原が前方で軽く身を引き、澄礼が来賓の視線を受けて静かに礼を返した。

主会場は、美しいままだった。


拍手はまだ続いている。誰も声を上げていない。警備員も走っていない。兵頭は会場端で紙を持ち直し、次の人の流れを見ている。湊はエリカの下がった通路を見ている。

暦は、その横顔を見て、それから控室方面へ歩いていく大人の背中を見た。

湊の視線。

エリカの退場。

湊から聞いた濃紺のスーツの男。


控室方面へ寄る女。

四つは同じ出来事ではない。けれど、同じ夜の違和感として、暦の中で隣に置かれた。

まだ何も起きていない。

それでも、忘れないものが一つ増えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ