人の流れを読む側
主会場の脇は、表の華やかさからは外れていた。
扉の向こうから、弦の音と控えめな笑い声が薄く漏れていた。主会場の華やかさは、脇の通路に出てもまだ薄く残っていた。
その一方で、廊下には別の音があった。
外部業者の台車が床を小さく鳴らす音。式典局員が控室名を確認する声。来賓の随伴者が一度足を止め、警備員へ短く尋ねる声。誰かが進み、誰かが避け、誰かが止まる。そのたびに、廊下の流れは細くなったり、広がったりした。
兵頭は、その変化を一つずつ処理していた。
「その箱は奥へ入れない。壁際で一度止めてくれ」
外部業者が頷き、台車の向きを変える。
「来賓控室は右です。ただ、今は入れ替え中ですので、あちらの椅子で少々お待ちください」
式典局員の案内を聞いて、兵頭は一度だけ視線を上げた。
「椅子を二脚追加する。予定より随伴が多い」
「はい」
生徒が走り出しかけたところで、兵頭は声を低くした。
「走るな。目立つ」
「すみません」
短い返事が返り、生徒の足音が落ち着く。
湊は、通路の端に立っていた。兵頭から任された仕事は、控室前で人を止めすぎないことだった。案内先を迷っている人がいれば式典局員へつなぐ。大きな荷物を持つ業者が来たら、兵頭へ知らせる。
それでも、東都院の行事ではただ立っているだけの位置にも意味があった。湊が一歩前に出れば、来賓の通り道を狭める。半歩下がれば、控室の扉が開いた時に人とぶつかる。壁際に寄りすぎると、今度は荷物置き場と混ざった。
兵頭が細かく場所を選んでいる理由は、立ってみると分かる。
「悠木、そっちはどうだ」
「今のところ大丈夫。主会場側は詰まってない」
「裏は?」
「業者の人が二組通った。どちらも警備員が確認してた」
「ならいい」
兵頭はそこで会話を切った。次の瞬間には、別の式典局員が差し出した控室割の紙へ目を落としている。
兵頭の視線は忙しかった。荷物の順番、椅子の位置、案内が足りていない場所。必要な物を必要なところへ届け、終わったものは片付ける。誰がどの家の関係者かよりも、計画と手順を追っている。兵頭の目は、今すぐ止まりそうな場所に向いていた。
控室前の人の流れが、一度だけ薄くなった。ちょうど、随伴者の一組が主会場へ戻り、外部業者の台車が関係者用通路へ抜けた後だった。
そこに、濃紺のスーツを着た男が立っていた。
服装は控えめだった。来賓の随伴者にも、学園側の関係者にも見える。靴は磨かれ、ネクタイの色も沈んでいる。胸元の名札らしきものも、距離を置いて見れば場に収まっていた。
だが、湊の目はそこで止まった。
男の目は、案内板にも室名札にも寄らなかった。
控室前には、室名札と簡易の案内板が出ている。初めて来た大人は、ほとんど一度そこを見る。場所を覚えている者でも、今日の割り振りが変わっていないかを確かめる。式典局員に声をかける前に、文字へ目が行く。
男が拾っているのは、文字ではない。
来賓が控室へ入る前に足を緩める位置。警備員が主会場側へ目を向ける短い間。式典局員が紙をめくる瞬間。随伴者が控室の扉を開ける時に、背後が空く間。
男は、そういう隙間を追っていた。
湊は手元の確認札を持ち直した。
人を探している様子ではない。道に迷った人間なら、案内の表示か、生徒の顔を探す。誰かを待っているなら、もう少し人の顔を追う。業者なら荷物や扉を確かめ、警備側なら全体を広く取る。
男の視線は、そのどれとも違っていた。
「悠木」
兵頭の声で、湊は一度顔を戻した。
「そこの札、来賓控室二の前へ移せるか。扉を開けた時に隠れている」
「分かった」
湊は案内札を取り、控室前へ向かった。
男との距離が近くなる。
近くで見ると、男はますます場に馴染んでいた。立ち方にも、服装にも、目につく乱れはない。警備員に近づきすぎず、式典局員にも余計な声をかけない。
湊が横を通っても、男は顔を向けなかった。
その反応が、かえって残った。
普通なら、生徒が案内札を持って近くを通れば、反射的に確認する。自分に関係があるかもしれないからだ。男は湊を、通路の一部として扱った。
湊は札を置き直し、壁際へ戻った。
男は、まだ同じ場所にいた。
「兵頭」
湊は低く呼んだ。
兵頭は振り返りかけたが、横から別の式典局員が駆け寄ってきた。
「兵頭さん、来賓控室三の前で、学校側の確認が一件」
「内容は」
「随伴者の人数が、受付時と違うそうです」
兵頭の眉がわずかに動いた。
「悠木、悪い。ここを見ていてくれ」
「分かった」
「警備員に通す前に、式典局の誰かを挟め。直接行かせるな」
「うん」
兵頭はすぐに歩き出した。短い足取りだが、迷いがない。今、兵頭が向かわなければ、控室前の確認が滞るかもしれない。そこから主会場の入退場にも影響が出る。
湊は止めなかった。
行動として拾えるものは、まだ小さい。会話も聞こえない。名札の真偽も分からない。今ここで兵頭を引き止めれば、ただの勘を、現場の仕事より重く扱うことになる。
それは違う気がした。
兵頭の背が角を曲がる。
もう一度、男の方を向いたときには、男はすでに歩き出していた。
目立つ動きではなかった。控室前の随伴者が椅子から立ち、式典局員が主会場側へ顔を向けた。その流れに合わせて、男は壁から離れていった。
外部業者の台車が関係者用通路へ入る。男はその後ろを追うのではなく、少し遅れて歩き出した。通れる者の顔をしたまま、誰にも呼び止められない速度で進む。
警備員の視界には入っている。
けれど、警備員が止める理由はない。
湊は足を踏み出しかけて、止めた。
追うには遅い。持ち場を離れれば、兵頭が任せた通路が空く。男が何かをしたと説明できる材料もない。
男は関係者用通路の奥へ消えた。
残ったのは、見てはいけないものを見たという感覚ではなかった。
呼び止められない顔で、通っていった。
その方が、湊には引っかかった。
主会場の扉が開き、拍手が廊下へ漏れた。中で誰かの挨拶が終わったらしい。式典局員が二人、主会場側へ動く。来賓の随伴者が椅子から腰を上げ、控室前の流れがまた変わる。
男の姿は、もうなかった。
その時、関係者用通路の奥から風紀委員の腕章が見えた。
暦だった。
他の風紀委員と短く確認を交わした後、暦は控室前の人の流れを見ながら歩いてくる。湊の方へ来たのは、偶然ではないだろう。湊が主会場脇にいることは、さっきの配置確認で聞いていたはずだ。
「湊」
「暦」
暦は足を止めた。風紀委員の腕章が、制服の袖にきちんと留められている。
「こっちは?」
「細かい確認が多い。兵頭がだいたい処理してる」
「兵頭くんらしい」
「そうだな」
湊は、男が消えた通路の方を見た。
「さっき、少し変な人がいた」
暦の表情は動かなかった。
「どんな人」
「濃紺のスーツ。背は高め。胸元に名札みたいなものはあった。来賓の随伴者か学園側の関係者には見える」
「どこにいた?」
「控室二と三の間。柱の横。警備員からは少し遠い。式典局員からは、来賓の陰になる場所」
暦は一度、控室前を見た。
男はもういない。
「何かしてた?」
「案内を探してる感じじゃなかった。人が止まるところを見てた。警備員が目を外すところとか、控室の扉が開いて背後が空くところとか」
湊は声を落としたまま言った。
「兵頭が別件で離れた直後に動いた。関係者用通路の奥へ行った」
暦は質問を重ねなかった。
代わりに、湊の言葉を頭の中で置き直しているように、わずかに目を伏せた。
「濃紺のスーツ。背は高め。名札あり。人が止まる場所を見ていた。兵頭くんが離れた後、関係者用通路へ移動」
「そう」
「覚えた」
暦の返事は短かった。
湊は息を吐いた。
自分の違和感が正しいかどうかは、まだ分からない。暦も男を見ていない。だから、この場で何かが確定したわけではない。
それでも、湊の中だけにあったものが、暦の記憶にも移った。
「持ち場に戻るか?」
「戻る。今の話は、見回りの中で使える」
暦は関係者用通路の奥へ目を向けた。
「同じ特徴の人が流れから外れたら、わかる」
「頼む」
「湊も」
「分かってる」
暦はそれ以上言わず、風紀委員の持ち場へ戻っていった。
兵頭が戻ってきたのは、それから少し後だった。
「悪い。長引いた」
「大丈夫。こっちは詰まってない」
「助かる」
兵頭はそう言って、すぐに次の紙へ目を落とした。額に汗が浮いている。主会場横の仕事は、まだ途切れていない。
湊は口を開きかけた。
濃紺のスーツの男が、人の流れを見ていた。兵頭が離れた直後に、関係者用通路へ入っていった。証拠はない。相手はもう視界にいない。今言えば、兵頭の手を止めるだけになる。
口に出すと、証拠のなさだけが残る。
「兵頭、あとで一つ確認したいことがある」
湊は言い方を変えた。
兵頭は紙から目を上げた。
「今すぐか」
「急ぎではない。人の流れのことで、少し」
「分かった。次の入れ替えが終わったら聞く」
「ああ」
兵頭はまた確認作業に戻った。
まだ事件ではない。
誰も叫んでいない。警備員も動いていない。式典局は主会場横の小さな詰まりを処理し、来賓は晩餐会の時間に合わせて移動している。
東都院の春の夜は、表から見れば美しいままだった。
湊は通路の端に立ち、次に人が止まる場所を見ていた。
見るべき相手は、湊の中で輪郭を持ち始めていた。




