弦の前に整えるもの
主会場を離れると、ざわめきは少し遠のいた。
廊下の明るさは同じはずだった。壁際には花が置かれ、床は磨かれ、遠くから来賓の声も届いている。それでも、正面の扉を背にしただけで、音の重なり方が違って聞こえた。
笑い声は遠くなる。銀器の触れ合う音も、柔らかな布に吸われるように薄くなる。
代わりに、会場脇へ続く通路の奥から、別の音が近づいてきた。
楽器ケースの留め具が外れる音。譜面をめくる紙の音。椅子を動かす小さな音。弦を軽く弾いて確かめる、短い響き。
エリカは歩きながら、指先を軽く握り直した。
先ほどまでの手は、礼をするための手だった。来賓の前で袖口を乱さず、グラスにも書類にも触れず、挨拶を受ける時に余計な動きをしないための手。
これから使うのは、弓を持つ手だった。
控室には、すでに弦楽部の生徒が集まっていた。黒いケースが壁際に並び、椅子の上には譜面台と楽譜が重ねられている。制服のままの生徒もいれば、上着だけを預けて袖口を直している生徒もいた。春季晩餐会の場に合わせて、全員が普段の部活動より静かに動いている。
「九条院さん」
顧問の教師が、短く声をかけた。
「はい」
エリカはすぐに返事をした。
答えた後で、声の調子がまだ来賓対応のままだと気づいた。丁寧すぎる。部活動の場には、ややそぐわない。
顧問はそれを気にした様子もなく、手元の進行表を見た。
「演奏は予定通りです。一曲目のあと、一度下がります。二曲目は司会の紹介を待ってからです。待機位置は、先ほど確認した通りで」
「はい。第一待機が控室前、第二待機が主会場脇ですね」
「ええ。入退場は急がなくていい。会場側の係が扉を開けるまで、動き出さないように」
「承知しました」
言ってから、エリカは息を浅く止めた。
承知しました。
式典局であれば自然な返事だった。来賓前でも、家の大人の前でも、間違いではない。だが、ここで必要なのはもう少し軽い返事だったかもしれない。
顧問は進行表に目を戻し、他の部員へ同じ注意を伝えに行った。
エリカは控室の中へ入り、自分のケースの前に膝を折った。
ヴィオラのケースを開けると、木の匂いがかすかに立った。磨かれた会場の匂いとは違う。花とも香水とも違う、乾いた弦と松脂の匂いだった。
それだけで、気持ちが少しだけ戻る。
エリカは布を外し、楽器を持ち上げた。肩当ての位置を確かめ、弦に触れる。指先に、細い抵抗が返ってきた。
「エリカさん、譜面はこちらに用意しておきました」
横から、静かな声がした。
牧瀬琴葉だった。
琴葉は楽譜の束を抱えていた。弦楽部員ではないが、顧問に頼まれ、今日は控室周りの譜面と待機順を確認している。大きく目立つ位置には立たない。誰かに指示を出すでもなく、必要なものを必要な場所へ置いていく。
「ありがとう、琴葉さん」
「一曲目が上、二曲目がその下です。休符の多いところには、先生の印が入っています」
「ありがとう。すぐ確認できます」
「あと、二曲目の前に司会の紹介が入ります。そこで少し間が空くそうです」
「ええ。聞いています」
また、少し硬い。
琴葉はそれを指摘しなかった。譜面を譜面台に置き、余った一枚だけを抜いて、端を揃える。
「待機位置は、エリカさんが前列の内側です。出る時にヴィオラの列が先に動くので、チェロの方を待たなくて大丈夫です」
「分かりました」
「顧問の先生からも、あとで同じ確認があります」
「ええ」
返事をしながら、エリカはペグを回した。弦がわずかに鳴る。張りが少しだけ高い。会場内の温度のせいかもしれない。
開放弦を鳴らすと、音はすぐに控室の壁へ吸われた。主会場のようには響かない。だからこそ、手元の狂いが分かりやすかった。
「ラをお願いします」
近くの部員が言う。
「はい」
別の生徒がチューナーを見ながら、基準音を出した。
細い音が控室に伸びる。エリカはそれに合わせて弦を確かめた。指先に集中すると、来賓の声も、廊下の気配も、榊原の隣を通った時の視線も遠のいていく。
遠のいたはずだった。
ふと、壁際に立っていた黒髪の生徒の姿が浮かんだ。
悠木湊。
主会場脇へ向かう前、ほんの一瞬だけ目が合った。
彼は何かを言ったわけではない。声もかけてこなかった。ただ、そこに立っていた。来賓の輪から外れ、生徒の中心からも外れた場所で、場を乱さない距離を保っていた。
それなのに、エリカは見られたと思った。
榊原の隣にいる自分ではなく、九条院家の娘として礼をする自分でもなく、切り替えが追いつく前の自分を。
弓を持つ指に、わずかに力が入った。
音が濁った。
「……」
エリカはすぐに弓を止めた。
誰かが振り返るほどの乱れではない。控室の中では、他にも調弦の音が重なっている。小さな濁りは、その中に紛れた。
それでも、自分の耳にははっきり残った。
「エリカさん」
琴葉が、譜面台の横に立っていた。
「次、こちらです」
差し出されたのは、二曲目の譜面だった。
ただそれだけだった。
大丈夫かとは聞かない。疲れているのかとも言わない。湊の名を出すはずもない。
琴葉はエリカが手を止めたことを見ていた。その上で、理由を尋ねる代わりに、次に必要なものを差し出している。
エリカは譜面を受け取った。
「ありがとう」
今度の声は、少しだけ普段に近かった。
琴葉は小さく頷き、他の譜面の束へ目を落とした。
「琴葉さんは、こういう時に落ち着いていますね」
「私は演奏しませんから」
琴葉は淡々と言った。
「演奏する人よりは、落ち着いて見えるだけじゃないでしょうか」
「それでも、心強いです」
「それなら、よかったです」
短い会話だった。
それ以上を重ねる前に、控室の扉が軽く叩かれた。
紗良が顔を出した。
「失礼します。九条院さん、今よろしいですか」
「ええ」
エリカはヴィオラを軽く抱えたまま、扉の方へ向いた。
紗良は室内へ深く入らなかった。控室の中には楽器と譜面が広がっている。弦楽部の領分へ踏み込みすぎない距離を、自然に選んでいる。
「移動時刻の確認です。主会場側は、予定から遅れていません。紹介前の挨拶が少し短くなるそうなので、第一待機は五分前で変わらず。第二待機へ移るのは、係の合図を待ってください」
「分かりました。弦楽部側にも共有します」
「ありがとうございます」
紗良の視線が、エリカの手元を一度だけ見た。
ヴィオラ。譜面。弓。戻りかけた呼吸。
友人なら、もっと別の言葉をかけることもできたはずだ。疲れていないか。大丈夫か。少し休めるか。
紗良は、それ以上は踏み込まなかった。
今のエリカに必要なのは、予定が遅れていないという確認だった。次に何をすればいいかが明確であれば、表情は戻せる。動きも戻せる。
紗良はそれを知っている。
「確認は以上です」
紗良はそこで言葉を切った。
その先に続けられる言葉を、今は飲み込んでおく。そういう止め方だった。
エリカは一瞬だけ目を伏せ、それから微笑んだ。
「ありがとうございます。その方が、今は動きやすいです」
「では、あとで主会場側で」
「ええ。よろしくお願いします」
紗良は頷き、すぐに扉の外へ戻った。
残ったのは、調弦の音だった。
誰かが低く音階を確かめている。チェロの響きが床に近いところで揺れ、ヴァイオリンの細い音がその上を通った。ヴィオラの音は、そのあいだにある。華やかに目立つわけではない。低く支えるだけでもない。全体の厚みを作る場所にいる。
エリカは、その音が好きだった。
主旋律を持つ時もある。内声に回る時もある。誰かの音を受け、別の誰かへ渡す。自分だけで完成する音ではない。そこにいることで、響きの形が変わる。
弦を押さえる指を置き直した。
湊の視線を思い出す。
気づかれた、と思った。
切り替えきれない一瞬を見られたことが、胸の奥に残っていた。
困るほどではないが、忘れてしまえるほど軽くもなかった。
その曖昧さに、もう一度指先が迷いかける。
エリカは譜面へ目を戻した。
今は考えない。
ここで乱すほど、軽い役割ではない。
顧問が手を叩いた。
「全員、確認を終えたら第一待機へ。譜面台は係が運びます。楽器をぶつけないように。扉の前では音を出さないこと」
部員たちが返事をする。
「はい」
エリカもその中に声を重ねた。
今度は硬すぎなかった。軽すぎもしなかった。弦楽部員として、主会場へ入る前の返事だった。
琴葉が譜面を揃え、エリカの手元に渡した。
「これで全部です」
「ありがとう、琴葉さん」
「行ってらっしゃい」
その言葉は、大げさな励ましではなかった。
ただ、次の場所へ送り出すための短い言葉だった。
エリカは譜面を受け取り、ヴィオラを抱え直した。肩当ての位置を確かめ、弓を持つ指を一度だけ緩める。
控室の外へ出ると、主会場の灯りが通路の先に見えた。
扉の向こうには、また視線がある。来賓、保護者、教職員、生徒。九条院エリカとして見られる場所であり、弦楽部員として音を届ける場所でもある。
エリカは背筋を伸ばした。
礼をするためではなく、演奏を始めるために。
顧問の合図で、列が動いた。
エリカは、その中へ静かに歩き出した。




