表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
東都院物語  作者: 橘鉄真
PR
49/61

弦の前に整えるもの

主会場を離れると、ざわめきは少し遠のいた。

廊下の明るさは同じはずだった。壁際には花が置かれ、床は磨かれ、遠くから来賓の声も届いている。それでも、正面の扉を背にしただけで、音の重なり方が違って聞こえた。

笑い声は遠くなる。銀器の触れ合う音も、柔らかな布に吸われるように薄くなる。

代わりに、会場脇へ続く通路の奥から、別の音が近づいてきた。

楽器ケースの留め具が外れる音。譜面をめくる紙の音。椅子を動かす小さな音。弦を軽く弾いて確かめる、短い響き。


エリカは歩きながら、指先を軽く握り直した。

先ほどまでの手は、礼をするための手だった。来賓の前で袖口を乱さず、グラスにも書類にも触れず、挨拶を受ける時に余計な動きをしないための手。

これから使うのは、弓を持つ手だった。

控室には、すでに弦楽部の生徒が集まっていた。黒いケースが壁際に並び、椅子の上には譜面台と楽譜が重ねられている。制服のままの生徒もいれば、上着だけを預けて袖口を直している生徒もいた。春季晩餐会の場に合わせて、全員が普段の部活動より静かに動いている。


「九条院さん」


顧問の教師が、短く声をかけた。


「はい」


エリカはすぐに返事をした。

答えた後で、声の調子がまだ来賓対応のままだと気づいた。丁寧すぎる。部活動の場には、ややそぐわない。

顧問はそれを気にした様子もなく、手元の進行表を見た。


「演奏は予定通りです。一曲目のあと、一度下がります。二曲目は司会の紹介を待ってからです。待機位置は、先ほど確認した通りで」

「はい。第一待機が控室前、第二待機が主会場脇ですね」

「ええ。入退場は急がなくていい。会場側の係が扉を開けるまで、動き出さないように」

「承知しました」


言ってから、エリカは息を浅く止めた。

承知しました。

式典局であれば自然な返事だった。来賓前でも、家の大人の前でも、間違いではない。だが、ここで必要なのはもう少し軽い返事だったかもしれない。

顧問は進行表に目を戻し、他の部員へ同じ注意を伝えに行った。

エリカは控室の中へ入り、自分のケースの前に膝を折った。


ヴィオラのケースを開けると、木の匂いがかすかに立った。磨かれた会場の匂いとは違う。花とも香水とも違う、乾いた弦と松脂の匂いだった。

それだけで、気持ちが少しだけ戻る。

エリカは布を外し、楽器を持ち上げた。肩当ての位置を確かめ、弦に触れる。指先に、細い抵抗が返ってきた。


「エリカさん、譜面はこちらに用意しておきました」


横から、静かな声がした。

牧瀬琴葉だった。

琴葉は楽譜の束を抱えていた。弦楽部員ではないが、顧問に頼まれ、今日は控室周りの譜面と待機順を確認している。大きく目立つ位置には立たない。誰かに指示を出すでもなく、必要なものを必要な場所へ置いていく。


「ありがとう、琴葉さん」

「一曲目が上、二曲目がその下です。休符の多いところには、先生の印が入っています」

「ありがとう。すぐ確認できます」

「あと、二曲目の前に司会の紹介が入ります。そこで少し間が空くそうです」

「ええ。聞いています」


また、少し硬い。

琴葉はそれを指摘しなかった。譜面を譜面台に置き、余った一枚だけを抜いて、端を揃える。


「待機位置は、エリカさんが前列の内側です。出る時にヴィオラの列が先に動くので、チェロの方を待たなくて大丈夫です」

「分かりました」

「顧問の先生からも、あとで同じ確認があります」

「ええ」


返事をしながら、エリカはペグを回した。弦がわずかに鳴る。張りが少しだけ高い。会場内の温度のせいかもしれない。

開放弦を鳴らすと、音はすぐに控室の壁へ吸われた。主会場のようには響かない。だからこそ、手元の狂いが分かりやすかった。


「ラをお願いします」


近くの部員が言う。


「はい」


別の生徒がチューナーを見ながら、基準音を出した。

細い音が控室に伸びる。エリカはそれに合わせて弦を確かめた。指先に集中すると、来賓の声も、廊下の気配も、榊原の隣を通った時の視線も遠のいていく。

遠のいたはずだった。

ふと、壁際に立っていた黒髪の生徒の姿が浮かんだ。

悠木湊。


主会場脇へ向かう前、ほんの一瞬だけ目が合った。

彼は何かを言ったわけではない。声もかけてこなかった。ただ、そこに立っていた。来賓の輪から外れ、生徒の中心からも外れた場所で、場を乱さない距離を保っていた。

それなのに、エリカは見られたと思った。

榊原の隣にいる自分ではなく、九条院家の娘として礼をする自分でもなく、切り替えが追いつく前の自分を。

弓を持つ指に、わずかに力が入った。


音が濁った。


「……」


エリカはすぐに弓を止めた。

誰かが振り返るほどの乱れではない。控室の中では、他にも調弦の音が重なっている。小さな濁りは、その中に紛れた。

それでも、自分の耳にははっきり残った。


「エリカさん」


琴葉が、譜面台の横に立っていた。


「次、こちらです」


差し出されたのは、二曲目の譜面だった。

ただそれだけだった。

大丈夫かとは聞かない。疲れているのかとも言わない。湊の名を出すはずもない。

琴葉はエリカが手を止めたことを見ていた。その上で、理由を尋ねる代わりに、次に必要なものを差し出している。

エリカは譜面を受け取った。


「ありがとう」


今度の声は、少しだけ普段に近かった。

琴葉は小さく頷き、他の譜面の束へ目を落とした。


「琴葉さんは、こういう時に落ち着いていますね」

「私は演奏しませんから」


琴葉は淡々と言った。


「演奏する人よりは、落ち着いて見えるだけじゃないでしょうか」

「それでも、心強いです」

「それなら、よかったです」


短い会話だった。

それ以上を重ねる前に、控室の扉が軽く叩かれた。

紗良が顔を出した。


「失礼します。九条院さん、今よろしいですか」

「ええ」


エリカはヴィオラを軽く抱えたまま、扉の方へ向いた。

紗良は室内へ深く入らなかった。控室の中には楽器と譜面が広がっている。弦楽部の領分へ踏み込みすぎない距離を、自然に選んでいる。


「移動時刻の確認です。主会場側は、予定から遅れていません。紹介前の挨拶が少し短くなるそうなので、第一待機は五分前で変わらず。第二待機へ移るのは、係の合図を待ってください」

「分かりました。弦楽部側にも共有します」

「ありがとうございます」


紗良の視線が、エリカの手元を一度だけ見た。

ヴィオラ。譜面。弓。戻りかけた呼吸。

友人なら、もっと別の言葉をかけることもできたはずだ。疲れていないか。大丈夫か。少し休めるか。

紗良は、それ以上は踏み込まなかった。

今のエリカに必要なのは、予定が遅れていないという確認だった。次に何をすればいいかが明確であれば、表情は戻せる。動きも戻せる。

紗良はそれを知っている。


「確認は以上です」


紗良はそこで言葉を切った。

その先に続けられる言葉を、今は飲み込んでおく。そういう止め方だった。

エリカは一瞬だけ目を伏せ、それから微笑んだ。


「ありがとうございます。その方が、今は動きやすいです」

「では、あとで主会場側で」

「ええ。よろしくお願いします」


紗良は頷き、すぐに扉の外へ戻った。

残ったのは、調弦の音だった。

誰かが低く音階を確かめている。チェロの響きが床に近いところで揺れ、ヴァイオリンの細い音がその上を通った。ヴィオラの音は、そのあいだにある。華やかに目立つわけではない。低く支えるだけでもない。全体の厚みを作る場所にいる。

エリカは、その音が好きだった。

主旋律を持つ時もある。内声に回る時もある。誰かの音を受け、別の誰かへ渡す。自分だけで完成する音ではない。そこにいることで、響きの形が変わる。


弦を押さえる指を置き直した。

湊の視線を思い出す。

気づかれた、と思った。

切り替えきれない一瞬を見られたことが、胸の奥に残っていた。

困るほどではないが、忘れてしまえるほど軽くもなかった。


その曖昧さに、もう一度指先が迷いかける。

エリカは譜面へ目を戻した。

今は考えない。

ここで乱すほど、軽い役割ではない。

顧問が手を叩いた。


「全員、確認を終えたら第一待機へ。譜面台は係が運びます。楽器をぶつけないように。扉の前では音を出さないこと」


部員たちが返事をする。


「はい」


エリカもその中に声を重ねた。

今度は硬すぎなかった。軽すぎもしなかった。弦楽部員として、主会場へ入る前の返事だった。

琴葉が譜面を揃え、エリカの手元に渡した。


「これで全部です」

「ありがとう、琴葉さん」

「行ってらっしゃい」


その言葉は、大げさな励ましではなかった。

ただ、次の場所へ送り出すための短い言葉だった。

エリカは譜面を受け取り、ヴィオラを抱え直した。肩当ての位置を確かめ、弓を持つ指を一度だけ緩める。

控室の外へ出ると、主会場の灯りが通路の先に見えた。

扉の向こうには、また視線がある。来賓、保護者、教職員、生徒。九条院エリカとして見られる場所であり、弦楽部員として音を届ける場所でもある。


エリカは背筋を伸ばした。

礼をするためではなく、演奏を始めるために。

顧問の合図で、列が動いた。

エリカは、その中へ静かに歩き出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ