表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
東都院物語  作者: 橘鉄真
PR
48/61

席次が示すもの

春季晩餐会の主会場である講堂の入口に立つと、空気の温度が変わったように思えた。

廊下には人の声があった。受付を済ませる来賓、案内を待つ保護者、控えめに歩く教職員、壁際で名簿を確認する式典局員。その一つ一つは穏やかで、晩餐会らしい華やぎを帯びている。

それでも、入口の前だけは違った。

通される順番。挨拶の長さ。家名を聞いた時、会釈がわずかに深くなる間。

そうしたものが、会場の扉の前で静かに積み重なっていく。

エリカは、受付台の横に置かれた席次表へ視線を落とした。紙面には来賓の名、保護者の名、学園関係者の名が整然と並んでいる。余白まで揃えられたその表は、ただの案内ではなかった。


「九条院さん、こちらの方を主会場へお通しできますか」


式典局の三年生が、声を落として言った。


「はい」


エリカは一歩前に出た。

相手は、白髪をきれいに撫でつけた年配の男性だった。隣には、淡い色の和装を着た夫人がいる。胸元の名札を見る前に、そばにいた教職員が小さく姿勢を正した。


「本日はお越しいただき、ありがとうございます。主会場までご案内いたします」


エリカが礼をすると、男性の表情が柔らかくなった。


「あなたは、九条院家の」


名札を確かめるような間があった。


「はい。九条院エリカと申します」

「そうですか。以前、九条院家の方にはお世話になりまして」


その言葉が出た瞬間、教職員の声の調子がわずかに改まった。


「こちらからお進みください」


同じ案内の言葉なのに、さっきよりも声の調子が落ち着いていた。

エリカは笑みを崩さなかった。


「家の者にも、来賓の皆様を大切にお迎えするよう言われております」


嘘ではなかった。家を出る時、父は細かな指示を出していない。ただ、九条院の名で立つなら、それだけで十分に意味がある。

夫人が、エリカの髪と制服の襟元を見た。


「東都院の制服は、やはりよく映えますね」

「ありがとうございます」


制服が褒められたのではない。

そこに立っている自分が、場に合っているかを見られたのだ。

エリカはそれを受け取り、礼に変えて返した。そうすることには慣れている。慣れているから、表情を乱さずにいられる。

主会場の扉の前で一礼し、二人を中へ通す。扉が閉じきる前、会場内の灯りが廊下へこぼれた。磨かれた床の上に、暖かな色が伸びる。

次の来賓を受けたのは、別の式典局員だった。エリカは半歩下がり、受ける位置を譲る。声をかける役、名を確認する役、扉の前で礼をする役。それぞれの立ち位置が細かく分かれていて、入口は一人の判断だけで動いていなかった。


その流れの端へ、紗良が戻ってきた。

正門側の受付を、他の執行部員と式典局員に任せてきたのだろう。手に名簿はない。紗良は受付台の前に出ず、主会場入口で止まりかけている人の流れだけを見ていた。


「エリカ、次はあちらのご夫妻を先に。お待ちの時間が長くなると、目立つわ」

「分かりました」

「こちらの列は、式典局の方に受けてもらうわね。学園長先生のご挨拶と重なると、入口で止まってしまうから」


紗良はそう言って、近くの式典局員へ短く目配せした。

式典局員が頷き、来賓の前へ出る。紗良はそこから先へ踏み込まない。彼女が動かしたのは、順番と声をかける相手だけだった。

それでも、人の流れは変わった。

押し分けるのではなく、前へ出て目立つのでもない。視線を向ける先を一つ変えるだけで、滞りかけた列がほどけていく。


「御厨さん、助かります」


式典局員が小さく言った。


「こちらこそ。正門側で受けた方が数組、続いています」


紗良は声を抑えて返し、すぐに視線を来賓の方へ戻した。

エリカは、その横顔を見た。友人として見る時の紗良は、もっと柔らかい。教室で笑う時、何気ない話をする時、彼女はもう少し肩の力を抜いている。

今の紗良は、会場全体を見ていた。

表に立つべき位置。先に通すべき相手。顔を立てる順番。どの家の名を、どの大人の前で出すか。

その判断を、紗良は声高に言わない。

だからこそ、周囲はそれに従いやすい。


「九条院さん」


呼ばれて振り向くと、榊原が立っていた。

整えた黒髪、乱れのない制服、柔らかいが浮つかない表情。廊下の華やぎの中で、彼は急いで見えなかった。


「こちらは、私が受けましょうか」

「榊原さん。ありがとうございます」

「先ほど、学園長先生が旧校舎側から戻られました。ご挨拶が重なるかもしれません」


榊原はそう言いながら、エリカの横に自然に立った。

その並びが、あまりにも収まりよく見えることを、エリカは知っていた。

後ろではなく、前でもない。来賓から見て、二人が同じ場を受け持っていると分かる場所。友人として話すには改まりすぎていて、係として並ぶには近かった。

榊原に悪意はない。

彼は、そう立つのが一番場に合うと分かっているだけだ。


「榊原さん、九条院さん」


受付の前で、来賓の一人がそう呼んだ。

呼び方は同じでも、会釈の深さが違った。

榊原が一礼する。エリカも続いた。


「本日はご来校ありがとうございます」

「こちらこそ、お招きいただきまして」


来賓の目が、榊原からエリカへ移り、そこでほんのわずかに止まった。

来賓は何も言わなかった。

ただ、榊原が言葉を継ぐまでの間が、二人の並びに意味を与えていた。夫人が扇の先を少しだけ下げる所作。教職員が一歩後ろへ控える間。そうしたものが、二人を同じ枠の中に置いていく。

エリカは笑みを保った。

胸の奥が、かすかに詰まる。


「主会場は、こちらでございます」


言葉は滑らかに出た。礼も乱れなかった。廊下の灯りの下で、指先の角度まで、いつもの形に収まっている。

家で覚えたこと。学園で磨いたこと。何度も繰り返し、人前で恥ずかしくないよう整えてきたもの。

それが今、自分を守っている。

同時に、自分をその場所へ留めている。


「九条院さん?」


榊原が、ごく小さく声をかけた。


「はい」

「少し疲れましたか」

「いいえ。大丈夫です」


答えは早かった。

榊原はそれ以上踏み込まなかった。踏み込まないことも、彼の品の良さだった。


「なら、よかった」


その穏やかさが、今日は遠い。

廊下の奥で、人の声が低くなった。

注意の声があったわけではない。受付前にいた大人たちが、自然に会話を切った。式典局員が名簿を持つ手を揃える。教職員が、ひと呼吸置いてから来賓へ向き直る。

鷹司澄礼が、廊下の向こうから歩いてきた。

濃い黒髪は背中に流れ、制服の襟元に一点の乱れもない。歩幅は大きくない。急いでいないのに、待たせているようにも見えない。


澄礼が来ると、場は華やぐというより、整う。

エリカが立つと、人は目を向ける。九条院の名と、本人の外見と、話し方がそうさせる。

澄礼が立つと、人は声を低くする。

その差を、エリカは知っていた。


「鷹司さん」


エリカは礼をした。


「九条院さん」


澄礼も、静かに礼を返す。

互いの礼に過不足はない。深すぎれば不自然で、浅ければ失礼になる。その間を測る必要がないほど、二人とも体が覚えていた。


「お疲れさまです。受付は、滞りなく?」

「ええ。式典局の皆さんが支えてくださっています」

「そう」


澄礼の視線が、式典局員、紗良、榊原、それからエリカへ移った。


「良い流れですね」


それは褒め言葉だった。

紗良が一歩近づき、にこやかに会釈する。


「鷹司さん。主会場へは、学園長先生のご挨拶の後にお入りいただく形です」

「承知しました」

「お待ちの間は、こちらで」


紗良は、澄礼を入口の正面には置かなかった。来賓の目を集めすぎず、それでいて埋もれもしない場所を選ぶ。澄礼を動かしたというより、澄礼のために会場側の流れを整えたように見えた。

あの位置を選べるところが、紗良だった。

式典局員が新しい来賓を受けた。

エリカは榊原と並んだまま、もう一組を主会場へ案内する。挨拶をし、家名を聞き、紹介の順を間違えないよう、声の置き方を選ぶ。強く命じられたわけではない。それでも、最初に向ける視線、先に交わす礼、声を置く順番は、すでに決まっていた。

東都院では、言葉にされないことほど先に整えられている。


そう思った時、受付台の反対側から笹倉が顔を出した。


「九条院さん」


いつもの明るさより、声は抑えられている。


「笹倉さん」

「少しだけ。兵頭から伝言です。席の問い合わせが来たら、今は式典局員に回してください。中で確認を取れるようにしています」

「分かりました。ありがとうございます」


笹倉は、そこで何かを言いかけた。

たぶん、普段なら軽く冗談にするところだった。似合っている、忙しそうだ、少し休めているか。そんな言葉を、彼なら自然に出せる。

けれど、笹倉の目が来賓の列を見て、榊原の立つ場所を見て、澄礼のいる場所を見た。

それから、彼は口元だけで笑った。


「今日は、声をかけるだけにしておく」

「え?」

「今は、入らない方がよさそうだから」


明るく言って、踏み込まない。

その引き方に、エリカは意外なものを感じた。


「笹倉さんらしくありませんね」

「俺だって、たまには空気を読むさ」

「たまに、ですか」

「そこは否定しないでくれるところじゃないかな」


笹倉は肩をすくめ、すぐに会場側へ戻っていった。すれ違いざま、榊原に軽く会釈する。榊原も穏やかに返した。

その短いやり取りだけで、二人の違いが見えた。

榊原は、最初からその場に含まれている。

笹倉は、空気を読んでから入ってくる。

どちらが優れているという話ではない。けれど、今日の入口では、榊原の立ち方の方がずっと静かに強かった。


「九条院さん」


式典局員が、控えめに声をかけた。


「そろそろ、弦楽部の方へ。こちらは引き継ぎます」


エリカは壁の時計を見た。

来賓対応の一区切りがついたところだった。まだ受付は続く。けれど、主会場脇では弦楽部の音合わせが始まる時間になる。

式典局の仕事を離れて、次は演奏者として控えに入る。

同じ晩餐会の中にいるのに、求められる表情はまた変わる。来賓へ礼をする令嬢から、会場の空気を壊さない演奏者へ。切り替える時間は、ほとんどない。


「分かりました。お願いします」


エリカは式典局員に礼をした。

紗良が、式典局員の後ろから近づいてきた。


「エリカ、あとは大丈夫」

「ええ。ありがとう、紗良さん」

「無理はしないで」


その一言だけ、友人の声だった。

エリカは息を吸った。


「大丈夫です」


いつもの答えが、いつものように出た。

紗良は少しだけ目を細めたが、それ以上は何も言わなかった。行事運営者としてなら、もっと細かな確認をしてもよかったはずだ。けれど、彼女はそこで止めた。

その止め方が、ありがたかった。

エリカは主会場の扉へ目を向ける。

中から、食器のかすかな音と、抑えた会話が流れてきた。照明は廊下よりも柔らかく、天井の高い空間に、花の匂いと布の気配、磨かれた銀器の光が重なっている。


演奏準備へ向かうには、主会場脇の通路を抜ける必要がある。来賓席の中心へ入るわけではない。それでも、扉の前を通るだけでいくつもの視線が集まった。

榊原が半歩下がり、通る場所を空けた。

エリカが歩き出そうとした時、一人の生徒と目が合った。

悠木湊だった。

壁際の、来賓の流れから外れた場所に立っている。黒い髪と落ち着いた表情は、この場の華やかさの中では目立たない。


けれど、エリカには分かった。

湊は、こちらを見ていた。

榊原の隣に立つ自分でも、来賓に礼をする自分でもない。式典局から弦楽部へ切り替わる直前、ほんの一瞬だけ呼吸を止めた自分を見た気がした。

エリカはすぐに微笑んだ。

礼の角度も、歩き出す呼吸も、何も乱さない。


湊の目が、ほんの少しだけ細くなる。

気づかれた。

そう思った時には、エリカはもう、主会場脇へ続く灯りの中へ歩き出していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ