春季晩餐会
東都院の正門は、休日の夕方になると別の場所に見えた。
授業のある日なら、白藤坂通りを上がってくる生徒の数も、車寄せに入る車も、だいたい時間で決まっている。駅から歩いてくる者、送迎車から降りる者、遅れ気味に門をくぐる者。人は多くても、動き方そのものは見慣れたものだった。
今日は、その形が崩れている。
湊が坂の途中で足を緩めると、隣を歩いていた暦も同じところで速度を落とした。
正門前には、普段より明るい灯りが入っていた。門柱の灯りだけではない。車寄せの奥、受付の天幕、守衛所の横に置かれた案内板。そのどれもが、暮れかけた空の下で白く浮いている。
車が一台、静かに門の前へ寄せられた。運転手が降り、後部座席の扉を開ける。年配の男性と、その隣にいた女性が、受付担当の生徒に短く会釈をした。生徒は深く頭を下げ、横にいた警備員が車を誘導していく。
その後ろでは、別の車が待っていた。
さらにその後ろにも、もう一台。
「多いな」
湊が言うと、暦は正門の方へ視線を置いたまま答えた。
「休日の行事だから」
「保護者も来賓も、今日は来やすいってことか」
「そう。生徒と、招かれた人が同じ時間に集まる」
暦の声はいつもどおり平らだった。けれど、視線は動いている。車寄せ、警備員、受付机、来賓の列、保護者らしい人の列。順番に追って、また戻る。
湊は暦の横顔を見た。
「風紀委員って、今日も仕事あるんだよな」
「ある」
「門のあたり?」
「最初は外周寄り。そのあと、会場周辺の見回りに入る」
暦はそこまで言って、湊を見た。
「湊は」
「兵頭に呼ばれてる。会場側の手伝いだって」
「兵頭くんに」
暦は短く繰り返しただけだった。疑問の形ではない。ただ、記録するような声だった。
正門へ近づくと、普段なら広く感じる門前の空間が、いくつかの細い通り道に分けられているのが分かった。白いロープが低く張られ、受付机の前には小さな札が置かれている。
来賓受付。
保護者受付。
後援会。
関係者確認。
札の文字は簡潔だった。だが、そこに並ぶ人たちの服装は、札ほど分かりやすく分かれていない。濃い色のスーツを着た男性が来賓の列にいる。似たような服装の別の男性は、関係者確認の列に立っている。華やかな装いの女性が保護者受付へ向かい、その後ろで、黒い上着を着た年配の男性が警備員に紙を見せていた。
誰が客で、誰が学園側で、誰が仕事で来ているのか。
一目では分からない。
声の調子だけは分かれていた。来賓受付では、担当生徒の声が柔らかい。保護者受付では、確認が早い。後援会の列では、教師らしい大人が一人ついている。関係者確認の方では、警備員の声が低く、短い。
「悠木さん」
受付机の少し奥から声がかかった。
御厨紗良だった。
彼女は制服の上に薄い上着を羽織り、胸元に小さな係の札を下げていた。髪も表情も整っている。けれど教室で見る時より、目の動きが早い。来賓の列、受付の詰まり、横から入ろうとした保護者らしい人。その全部を、会話の途中でも拾っている。
「こんばんは。影山さんも」
「こんばんは」
暦が短く返した。
紗良は、湊へ一枚の小さな札を渡した。名刺くらいの大きさの紙の札だった。
「悠木さんは会場側ですね。兵頭さんが主会場横で待っています」
札には名前と、式典局補助とだけ書かれていた。正式な役職名ではない。けれど、ただの来場者でもない。
湊はそれを受け取りながら、受付の奥へ目を向けた。
執行部の生徒が名簿を確認し、隣の式典局員が案内札を並べ直していた。机の端には、受付で使う札と封筒が区分ごとに置かれている。
「受付はずいぶん細かく分かれるんだな」
「ええ。今日は確認するものが多いので」
紗良は名簿を持った執行部員へ短く目配せしてから、来賓受付の方へ視線を向けた。
「一つの机で済ませようとすると、お待たせすることになります。来賓の方と保護者の方では、確認するものも違いますから」
「たしかに」
湊が見ている間にも、列の形が少し変わった。車から降りた保護者が来賓受付の方へ進みかけ、警備員が手で示し、近くの式典局員が保護者受付へ案内する。後ろにいた別の人がその列を避け、外部業者らしい二人が立つ横手の確認場所へ近づいた。
ほんの数秒のことだった。
それだけで、門前の動きが重なった。
「正面だけだと、分かりにくい」
暦が言った。
湊が振り向くと、暦は受付の向こうではなく、門の端を見ていた。警備員の一人が、台車を押す外部業者に札を示させている。確認を終えた業者は、係の案内で横手の通路へ回されていった。
「影山さん」
少し離れたところから、風紀委員の上級生らしい女子が暦を呼んだ。
暦は湊へ視線を戻した。
「行く」
「ああ。あとで会場で会うかもな」
「持ち場が近ければ」
「それ、会えるって意味?」
「近ければ、会う可能性があるという意味」
湊が小さく笑うと、暦は一度だけ湊を見た。
「会場側に入るなら、あとでどこを通ったか聞くかもしれない」
「俺が?」
「風紀委員の確認に必要になる場合がある」
「分かった。覚えておく」
「湊は自分がどこを通ったか曖昧にすることがある」
「そんなに?」
「ある」
言い切られると、返しに困る。
暦はそれ以上続けず、上級生の方へ歩いていった。背中の低い位置で結ばれた髪が、歩調に合わせてわずかに揺れる。風紀委員の腕章が、門前の灯りを受けて淡く見えた。
湊はその背中を見送ってから、渡された札を胸元に留めた。
「悠木さん」
紗良が、今度は少しだけ声を落とした。
「主会場横へは、正面口ではなく、右手の通路を使ってください。来賓の方と重なりますから」
「分かった」
「途中で迷ったら、式典局の生徒に聞けば通してもらえます。もし確認されたら、兵頭さんの名前を出してください」
「兵頭の名前は便利だな」
「便利というより、通じます」
紗良は柔らかく言った。否定ではない。ただ、言葉の位置を整えただけだった。
湊は受付の横を抜けた。
正門を越えた先の景色は、いつもの東都院なのに、足元の感覚が違った。見慣れた石畳の上を、来賓らしい大人たちが歩いている。普段なら生徒の声が残る時間帯に、今日は革靴の音と低い会話が混ざっていた。
案内板のそばには、式典局の生徒が立っている。廊下へ続く道の手前では、警備員が来場者の通りを追っている。視線の向け方が、教師とも生徒とも違った。誰かを叱るためではなく、止まる場所を先に示していた。
湊は、そこで少し息を吸った。
東都院は、普段から整っている。
校舎も、庭も、人の立ち方も、どこか作り込まれている。けれど今日は、その整い方の下に、もっと多くの手が入っているのが分かった。
白い手袋をした受付担当。
腕章をつけた風紀委員。
案内板を持ち替える式典局員。
車寄せに立つ警備員。
係の後ろについて足早に通り過ぎる外部業者。
声は低く、足取りは抑えられている。それでも、全体は静かに急いでいた。
「悠木」
低い声がした。
振り向くと、兵頭匡平が通路の先に立っていた。
背は高くない。だが、肩と胸板に厚みがある。制服を着ていても、周囲の上品な線とは違う。けれど、この場では浮いて見えなかった。むしろ、荷物の置き場や人の詰まりを追っている姿が、妙に場所に合っている。
兵頭は手元の確認用紙から目を上げた。
「来たか」
「呼ばれたからな。何をすればいい?」
「配置は済んでる。今から見るのは、人と、その場で起きる細かい問題だ」
「細かい問題?」
兵頭は顎で正面の方を示した。
主会場へ向かう広い通路の先には、明るい灯りが連なっていた。招かれた人たちは自然にそちらを向いて進む。正面には花もある。案内もある。東都院が見せたいものが、きちんと並んでいる。
兵頭は、そこではなく右手を見ていた。
広い通路から外れた横の道。控室や準備室へつながる、少し狭い通り。そこを式典局の生徒が二人、椅子を抱えて通った。その後ろから、箱を持った外部業者が来る。反対側からは、風紀委員の生徒が歩いてくる。
三つの動きが同じ場所に近づいた。
兵頭が片手を上げた。
「そっちは一度止まれ。箱の方を先に通す」
式典局の生徒がすぐに止まった。外部業者が会釈して通る。風紀委員の生徒は半歩下がり、横へ避けた。
ほんの短い指示だった。
それだけで、狭い通路の詰まりがほどけた。
「表の通りは、案内も人も置いてある。問題は、そこから外れたところで出る」
兵頭は確認用紙に目を落とした。
「人が止まる。荷物が詰まる。案内が足りない。誰かが違う列に入る。見つけたら、その場で直す。無理なら式典局に上げる」
兵頭が言った。
湊は、兵頭の横に立って同じ通路へ目を向けた。
正面は華やかだった。灯りがあり、花があり、丁寧な声があり、来賓を迎えるための形がある。
横には、それを支えるための動きがあった。
荷物を運ぶ者。控室へ向かう者。受付から回される者。警備員に止められる者。案内を探す者。誰かを探しているようで、まだ声を出せない者。
服装だけでは、行き先までは読めない。だからこそ、止まる前に気づく必要がある。
湊は、正門で感じた圧をもう一度思い出した。
人が多い。
ただ多いだけではない。
同じ場所にいても、向かう先が違う。通ってよい場所が違う。声をかける相手も違う。いつもの学園の中に、別の決まりが何枚も重ねられている。
「悠木」
兵頭が確認用紙から目を上げずに言った。
「ここから先は、ぼうっと正面を見るな。華やかな方は、放っておいても誰かが見る」
「他を見ろ、だろ」
「そうだ。気づいたら言え」
兵頭は確認用紙を折り、胸ポケットに入れた。
「主会場横に入る。人が止まるところ、物が置きっぱなしになるところ、案内が抜けているところを覚えろ」
「俺、正式な係じゃないけど」
「係じゃないから気づくこともある」
兵頭は短く言って、歩き出した。
湊は一度だけ正面を見た。
灯りの向こうに、春季晩餐会の明るさがある。東都院が外へ見せる、美しく飾られた夜が始まろうとしている。
だが、湊の足はそこへまっすぐ向かわなかった。
兵頭の後について、主会場横の通路へ入る。
正面の華やかさが、壁一枚ぶん遠ざかった。代わりに、台車の車輪が床をこする音と、誰かが小さく交わす確認の声が近くなる。
春季晩餐会は、門の前から始まっていた。
湊は、正面だけを見ていては分からない理由を、少しだけ理解した。




