準備の終わり
生徒会執行部室の前には、まだ薄い紙の匂いが残っていた。
机の上で整えた資料は、紗良の腕の中で三つに分かれている。学校側へ戻すもの。式典局で控えとして残すもの。事務局へ渡すもの。厚みは大したことがない。それでも、抱えてみると、資料には妙な重さがあった。
「書類に問題はありませんね」
藤代文香が、最後の一枚を戻しながら言った。
声はいつもどおり平らだった。けれど、確認に甘さはない。表記、日付、宛先、写しの有無。文香はそれらを一つずつ見て、必要なところだけに小さな付箋を足していた。
「外部関係者まわりの確認は、事務局へ回すようになっていますね。このまま出せますよ」
「ありがとう、文香さん」
紗良は頷き、付箋の位置を指で軽く押さえた。
生徒会執行部で扱えるのは、あくまで生徒側の手順だった。案内文、掲示、生徒会各局への連絡、学校側への回付。そこまでは、生徒の手で整えられる。
その先に関わる大人の名前や、来賓の随伴者の細かな扱いは、事務局で管理される。
廊下の向こうから、重い足音が近づいた。
兵頭匡平が、薄いファイルを二つ持ってきた。歩き方は急いでいるのに、中身はずれていない。
「式典局からはこれだけだ。会場班の控えは残してある」
紗良が受け取る前に、文香が視線だけを動かした。
「余分なものは混じっていませんね」
「持ってくるなと言われたものは、持ってきていない」
兵頭は短く答えた。
ファイルの中は、すでに分かれていた。来賓控室まわりの確認、外部関係者の受付時刻、後援会随伴者の控え場所。式典局に残す写し、執行部を通す確認、事務局へ渡す原本。めくりやすいよう、束ごとに端の位置がわずかに変えられていた。
よく整理された資料だった。紗良が手を入れる余地は、ほとんど残っていなかった。
紗良は一枚ずつ重ねを確かめた。兵頭が特別なことをしたわけではない。ただ、必要なものだけがここにあった。必要ではないものは、ここに来ていなかった。
それが一番、手間を減らす。
「これで、事務局へ回せます」
「なら、俺は戻る。控室まわりを見てくる」
「兵頭さん」
呼び止めると、兵頭は半身で振り返った。
「外部関係者の受付時刻ですが、式典局側で気になった点はありますか」
兵頭は資料ではなく、紗良の顔を見た。
「生徒側で言える範囲なら、受付時間が重なるところがある。混ざらないように、向こうで調整してもらえればいい」
「事務局には伝えます」
「それで十分だと思う」
兵頭はそれ以上を言わなかった。
紗良も、もう尋ねなかった。
必要な線引きだった。必要だからこそ、越えられない。生徒が見るべきところを見て、気づいた点を伝える。そこから先は、学校側と事務局の仕事になる。式典局の会場班でも、生徒会執行部でも、外部関係者を直接扱う立場にはない。
紗良と文香の二人で旧校舎の事務局受付へ向かう間、廊下は新校舎より音が少なかった。床はよく磨かれ、壁の掲示も少ない。生徒の声は遠く、代わりに職員の靴音と、扉の向こうで資料を繰る音が聞こえた。
春季晩餐会の前は、大人の出入りが増える。
それ自体は、毎年のことだった。来賓、保護者、後援会、卒業生、外部業者。すべて名簿に記されている。受付の手順もある。確認印も押される。表向きに乱れはない。
旧校舎の事務局受付には、学園職員が一人立っていた。紗良たちを見ると、すぐに姿勢を改める。
「御厨さん。事務局へ回付する分ですね」
「はい。執行部確認済みです。式典局からの確認紙も入っています。こちらが学校側へ戻す分、こちらが事務局管理に移す分です」
紗良は、順番に資料を差し出した。
職員は慣れた手つきで受け取り、表紙をめくった。確認印の位置、添付順、枚数。見るべきところだけを見て、静かに頷く。
「ありがとうございます。こちらで確認します」
その言葉は、何も間違っていなかった。
紗良は小さく礼をした。
「よろしくお願いいたします」
文香も会釈した。
職員は資料を抱え直し、受付の奥へ入った。廊下の向こうでは、別の事務局関係者が帳面を持って待っている。二人は短く言葉を交わし、資料は紗良たちの前から離れていった。
手元が軽くなった。
本来なら、それでよかった。仕事は進んだ。執行部の確認も、式典局の確認も、文香の目も、兵頭の分け方も通っている。生徒側ができることは、きちんと済ませた。
なのに、紗良の指先には、さっきまで紙を押さえていた感触が残っていた。
後援会の方々も、今年はよく見ていらっしゃる。
聞いた言葉が、ふと戻ってきた。丁寧で、穏やかで、どこにも棘はなかった。紗良が気にするほどのものではない。そう整理できる言葉だった。
書面上にも、不審な箇所はない。
文香が見ても、抜けはなかった。兵頭が持ってきたものにも、余分はなかった。職員の受け取りも正式だった。
「御厨さん」
文香が、横から静かに呼んだ。
「できることは終わりました。戻りましょう」
「ええ」
紗良は答えた。
形式の上では、すべて通っている。
「そうね」
そう続けた声は、文香へ向けた返事というより、自分に言い聞かせる確認に近かった。
紗良は頷き、廊下へ向き直った。
旧校舎の窓から、夕方前の光が斜めに入っていた。床の上に細い線が伸び、その先で、事務局関係者の背中が角を曲がる。抱えられた資料の端が一度だけ見えて、すぐに壁の向こうへ消えた。
生徒が見られる場所は、ここまでだった。
整えたものは、正式な手順で渡された。
その先で何が照合され、誰の名前が加えられ、どの控室が大人側の帳面に移されるのか。紗良には、もう確かめる資料がない。
指先に残った紙の感触だけが、薄い折り目のように消えずにいた。




