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東都院物語  作者: 橘鉄真
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車の中の会話

学園から二つ筋を外れると、東都院の門前にあった整ったざわめきは遠くなった。

白い塀の続きは見える。ここまで来ると正門の姿は植え込みと電柱に隠れ、車の流れも一般の道路に混じっていた。

小さな駐車場の奥に、濃い灰色の車が停まっている。

車体には低い振動が残っていた。窓の内側は薄く曇り、運転席に男、助手席に女がいることだけが分かった。

男は膝の上に置いた書類挟みを閉じた。


「正門側は使いにくい」


声は低かった。苛立ちより、確認を重ねたあとの結論に近い。


「止められるから?」


助手席の女が聞いた。


「名前を聞かれるだろう。書類の出し方まで覚えられる。あれは正面から入る場所ではない」


女は窓の外を見た。

駐車場の向こうでは、買い物袋を下げた年配の女性がゆっくり歩いている。その後ろを、制服姿ではない若い男が自転車で通り過ぎた。東都院の近くであっても、一歩外れれば普通の町だった。


「行事の日も同じかしら?」

「同じなら楽だ」


男は短く言った。


「増えるんでしょう。来賓も、業者も、警備も」

「だから難しくなる」

「混むところは見られるけれど、人が多すぎると、見る方も全部は追えないでしょ」


女の声は静かだった。

男は返事をしなかった。

その沈黙を否定とは受け取らず、女は鞄から薄い紙束を出した。地図ではない。表のようにも見える。けれど、印刷された文字のいくつかは黒く消されていた。


「正門ではなく、こっちなら」


指先が、表の受付とは別の場所を押さえる。


「言い方を間違えるな」


男がすぐに言った。

女は指を止めた。


「場所を示しただけじゃない」

「ここでは、それだけでも余計だ。東都院は名前の扱いに敏感だ。後援会筋の名が一つ混じるだけで、こちらが思っているより多くの人間が反応する」

「だから、軽く扱ってはいないわ」


女は紙束を戻した。


「表に立つ人間は決まっている。裏で運ぶ人間も多い。人が増えれば、どちらも動く」

「人が増えるだけでは足りないと?」

「だからわざわざ確認しに来たんだ。人の動きは地図だけでは分からんからな」


男はフロントガラスの向こうを見た。

正門前で見ていた時と同じ目ではなかった。業者として警備員に頷いた時の顔でもない。ここには、東都院の生徒も警備員もいない。整えた表情を置く必要がなかった。


「九条院は、目立つところにいるんでしょう」


女が言った。

その名が出た瞬間、男の目だけが動いた。


「名を出すな」


女は小さく息を吐いた。


「でも、そういう子でしょう。見えるところにいる。人が寄る。声をかけられる。迎えもある。あの子は一人になる時間が短い」


男は返事をしなかった。

ワイパーの付け根に、細かな砂が溜まっていた。さっきまで正門前に停まっていた時、植え込みの近くで拾ったものかもしれない。男はそれを見ているようで、見ていなかった。


「多少、無理を通す必要があるかもな」


女が続けた。


「やりようはあるわ」


今度は男も否定しなかった。

車内に、短い振動が走った。女の鞄の中で電話が震えている。

女は画面を確認してから、男に見せた。男は一瞬だけ目を落とし、顎で合図した。

女は通話を取った。


「はい」


相手の声は漏れなかった。女はほとんど相槌だけで聞いていた。


「正門側は、予想通り難しいです」


間が空く。


「人が多いです。場所を変えます」


また間が空いた。


「当日までには」


女の返事はそこで止まった。何かを聞かれているらしい。指先が、鞄の持ち手を一度だけ押した。


「生徒に見られたかもしれません」


男の目が動いた。

電話の向こうでは、すぐに返事が来たようだった。


「目が合ったわけではありません。顔を覚えられるほどでもないと思います」


男は、わずかに眉を寄せた。

女はそれ以上、説明しなかった。


「はい。急ぎます」


通話が切れた。

車内は、さっきより狭く感じられた。


「余計なことを言ったな」


男が言った。


「報告はしないといけないでしょ」

「目が合ったわけではない」

「あなたが言ったことと同じよ。見られる場所では、覚えられると思った方がいい」


男は舌打ちをしなかった。ただ、書類挟みを後部座席へ置いた。

駐車場の出口では、小さなトラックが道を塞ぐように停まっていた。運転手が店の前で伝票を受け取っている。しばらく動きそうになかった。

男は車を出さず、待った。

急ぐ様子はない。

だが、待つことに慣れている沈黙だった。


「止める?」


女が聞いた。


「何を」

「今の計画」

「クライアントは急げと言っている。この程度で止める理由にはならない」

「でしょうね」


女は窓の曇りを指先で少しだけ拭った。外の景色が細く開く。遠くに、東都院の並木が見えた。夕方の光を受けて、葉の縁だけが明るくなっている。

そこだけなら、ただ美しい学校だった。

男はシフトに手を置いた。


「正門は使わない。狙うなら、人が動く前後だ」

「少なすぎると目立つ。多すぎると動けないわね」


女が言うと、男は短く頷いた。


「流れがある時だけだ」


トラックが前へ出た。

駐車場の出口が空く。

男は車をゆっくり動かした。急発進はしない。通りに出る前に一度止まり、左右を確認する。その慎重さまで、業者らしく見せるための動きだった。


「他には?」


女が聞いた。

男は前を見たまま答えた。


「当日は、目立つな。流れに紛れろ」

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