放課後の車両
弓道場を出るころには、射場の中に残っていた音が、身体から少しずつ抜けていた。
弦の音、的に中る音、畳の上を歩く足音。
どれも大きな音ではないのに、練習が終わったあともしばらく耳に残る。
湊は弓具を片づけ、制服に着替えてから、弓道場の戸を閉めた。
武道施設の並ぶ一角は、新校舎から少し離れている。放課後の校舎側はまだ明るかったが、弓道場の周りには木陰が落ちていて、空気だけが先に夕方へ寄っていた。
正門へ向かう道の途中で、暦が立っていた。
「委員会はもう終わった?」
湊が聞くと、暦は頷いた。
「そう」
「待ってた?」
「結果として」
いつもの言い方だった。
待っていた、と言うほどではない。けれど、湊がここを通ることは分かっていて、時間が合えば一緒に歩くつもりではいた。
暦のそういう言葉の省き方には、湊も慣れている。
二人で正門の方へ歩き出す。
春の放課後は、冬より明るさが長く残る。芝生の端には新しい葉の色があり、遠くからは運動部の声も聞こえた。
それでも、今日の学園はいつもより落ち着かなかった。
正門の方から、車の停まる音が断続的に届く。
台車を押す音もある。普段なら事務方か用務員が通るだけの道に、作業着姿の大人が二人、三人と立っていた。胸に名札を下げ、守衛所の前で書類を見せている者もいる。
春季晩餐会が近い。
その一言で、だいたいのことは説明できる。
講堂周辺の準備、装花、音響、備品、控室の確認。東都院では、行事の前になると、生徒の見えないところで多くの大人が動く。
湊もそれは分かっていた。
一年の時にも、同じような時期があった。
まだ東都院のことをよく知らず、誰が何を担っているのかも見えなかったころ、校内の人の流れだけが先に変わった。
その時も、少し変だと思った。
けれど、何も起きなかった。
だから今回も、行事前の慌ただしさなのだろうと考える方が自然だった。
正門の近くまで来たところで、湊は足を緩めた。
守衛所の横に、見慣れない車が停まっていた。
黒に近い濃い灰色の車だった。来賓用の車にしては位置が半端で、配送車にしては荷を積む形でもない。正門の流れを塞ぐほどではないが、そこにあると視界に入る。
運転席には人影があった。
その人物は、正門に顔を向けているようでいて、守衛所の動きだけを追っているのでもなかった。
生徒がどこから出てくるか。業者がどこで止まるか。正門前の流れがどこで細くなるか。
そういうものを、まとめて見ているように見えた。
湊は、視線を逸らさなかった。
隣で暦も足を止める。
「どうしたの」
「いや」
湊は、車から少し離れた場所に目を移した。
正門脇の植え込みの近くに、外部業者らしい男が立っていた。
濃紺の作業上着に、白い名札。手には薄い書類挟みを持っている。
周りの業者は、伝票や搬入物を確認していた。
警備員に呼ばれれば近づき、名前を告げ、行き先を示す。慣れていない者は少し戸惑い、慣れている者は短く済ませる。
その男だけが、手元を見ていなかった。
新校舎の昇降口、講堂へ続く道、正門から入った車が一度止まる場所。
順番に確かめている。
物を運ぶ人の見方ではない。
道に迷った人の見方でもない。
湊がそれに気づいた時、男はわずかに顔を横へ向けた。
目が合う前に、視線が外れる。
それだけだった。
ただ、それだけのことが、湊の中に引っかかった。
「見てる場所が違う」
暦が小さく言った。
湊は隣を見た。
暦は男ではなく、その男がさっきまで目を向けていた先を追っていた。
新校舎の入口、正門、守衛所、外周道路へ続く角。人の流れが重なるところを、順番に確かめるように目を動かしている。
「やっぱり、そう見える?」
「業者なら、物を見る。警備なら、人を止める場所を見る」
暦は、少し間を置いた。
「あの人は、流れが切れる場所を見ていた」
暦の声に強い感情はなかった。
だからこそ、湊の中にあった違和感と近かった。
怖い、というほどではない。
けれど、ただの見間違いとして流すには、形が残った。
東都院は、普段から人の位置が決まっている場所だった。
生徒は生徒の顔をして歩き、教師は教師の顔をして立つ。警備員は外に向き、業者は手元と行き先を見る。
今日の正門前では、その分け方が少し緩んでいた。
行事前だから。
そう言えば済む。
湊は守衛所の警備員へ目を向けた。
制服の警備員は、業者の名簿らしい紙を確認している。もう一人は車寄せ側に立ち、生徒が広がらないように手で合図していた。
伝えるなら、今だった。
あの車が少し気になる。
あの男が、人の流れを見ていた気がする。
言葉にすると、ひどく弱い。
気になる、というだけで警備員を呼び止めるには、足りなかった。
「番号、控える?」
暦が言った。
湊は一瞬だけ車へ視線を戻した。
植え込みと人の影で、番号の一部だけが隠れている。読めるところはある。けれど、それを覚えたところで、何かを言えるわけではない。
その時、車のブレーキランプが赤くなった。
運転席の人物が前を向き、車はゆっくりと外周道路へ出た。
急ぐ様子はない。けれど、長く留まるつもりもなかったように、正門前の流れが空いた瞬間だけを選んで動いた。
濃い灰色の車は、外周道路を左へ曲がり、並木の向こうに消えた。
男の方へ目を向けると、そちらも動いていた。
守衛所へ近づき、書類挟みを開いている。警備員が書類に目を通し、短く何かを確認した。
男は頷いた。今度は、きちんと業者らしい顔をしていた。
「今の、どう思う?」
湊が聞いた。
暦は少し考えた。
「まだ、出来事ではない」
「だよな」
「正門前に長く停まった灰色の車。業者らしい人が、物より人の流れを見ていた。記録する?」
暦の言葉は、感想ではなく項目だった。
湊は軽く息を吐いた。
それで、胸の奥の引っかかりに形がついた。
「風紀委員っぽくなってきたな」
「委員は関係ない」
「あるだろ」
「見えたものを分けているだけ」
暦はそう言って、正門の方へ歩き出した。
湊も続いた。
正門前の人の流れから少し外れると、周囲はさっきより静かだった。
校舎のガラスに映る夕方の光は整っていて、東都院はいつも通り美しい。植え込みは手入れされ、外壁には汚れがなく、歩く生徒たちも声を大きくしない。
そういう場所だから、小さなずれが目につくのかもしれない。
去年も、行事前には似たような落ち着かなさがあった。
知らない大人が増え、普段は閉じている扉が開き、廊下の端に見慣れない荷物が置かれていた。
それでも、何も起きなかった。
今回も同じかもしれない。
行事の前は、人が増える。
人が増えれば、見慣れない顔も増える。車も増える。警備員の目も忙しくなる。
それだけのことだ。
そう考えれば、答えは簡単だった。
「湊」
暦が呼んだ。
湊は足を止めかけていたことに気づいた。
「もう帰る?」
「帰る」
もう車は見えない。
男も守衛所の向こうへ入った。ここに残っていても、何かが分かるわけではない。
湊は歩幅を戻した。
数歩進んでから、一度だけ振り返る。
正門前には、また別の車が停まっていた。
警備員が手を上げ、業者が書類を出し、生徒たちは少し横へ避けて通る。
いつもより人が多い。
それだけに見えた。
湊は視線を戻し、暦と並んで正門を出た。




