後援会の挨拶
旧校舎の廊下は、新校舎より音が低く聞こえた。
放課後のざわめきは、ここに来ると薄くなる。窓の外では、講堂へ続く植え込みが春の色を少しずつ濃くしていた。床はよく磨かれていて、紗良の革靴の音だけが、古い木の壁に小さく返った。
応接室の前で、学園職員が紗良を待っていた。
「御厨さん、こちらです」
「はい」
紗良は一度だけ制服の襟元を確かめ、表情を整えた。
生徒会執行部に事務局から連絡が入ったのは、少し前のことだ。後援会の方が何人か見えていて、春季晩餐会の準備について、生徒側の様子も聞きたいという話だった。正式な打ち合わせではない。事務局の職員が同席している以上、生徒だけに何かを任せる場でもなかった。
それでも、旧校舎で呼ばれる挨拶には、職員室や生徒会室とは違う重さがある。
東都院の毎日を動かしているのは、教職員と事務局だ。
その上に、法人としての理事会がある。
後援会は、そのどちらでもない。教員に指示を出す立場ではないし、事務局の日々の仕事に入り込む組織でもない。
それでも、その意向は理事会へ届く。教員も事務局も、無下には扱えない。
東都院では、その違いだけでも意味を持つ。
応接室の扉が開くと、先に柔らかな笑い声が聞こえた。中には、年配の女性が二人、落ち着いた背広の男性が一人いた。和やかな雰囲気だった。座っている位置と、職員の立ち方だけで、誰を中心に場ができているかは分かった。
「御厨さん。お忙しいところ、ごめんなさいね」
女性の一人が、紗良へ向けて微笑んだ。
「いいえ。お声がけいただき、ありがとうございます」
紗良は礼をした。
名前を名乗られる前に、顔には見覚えがあった。父の会合で、遠くから見たことがある。母が季節の挨拶状を出す相手の一人でもあった。
御厨家は、後援会に近い。
そう教えられた覚えはない。けれど、家の会話や届く手紙、食卓で一瞬だけ出る名前、母が封筒を分ける手つき。そういうものを見ていれば、分かる。
御厨家は、どの話がどこへ届くかをよく知っている。
その奥に東都院を長く支えてきた家々の名があることも、誰かが口に出す必要はなかった。
「生徒会の準備も、そろそろ忙しくなってきたでしょう」
「はい。執行部は掲示と連絡の確認が中心ですが、式典局の方は当日に向けた準備に入っています」
「まあ、頼もしいこと」
女性は楽しそうに言った。隣の男性が、事務局職員へ軽く視線を向けた。
「今年の二年生は、準備に慣れるのも早いと聞いています」
「三年生の方々が、丁寧に見てくださっていますので」
「それは何よりです。行事は、上級生から下級生へ受け継がれるものですから」
穏やかな言葉だった。春季晩餐会の話としては、何も不自然ではない。
男性は、紅茶のカップを静かに置いた。
「今年は来賓の随伴者も少し増えると聞いています。控室まわりは、やはり混み合いそうですか」
事務局職員が先に答えた。
「正式な配置は、現在こちらで最終確認中です。生徒側には、必要な範囲で共有する予定です」
「もちろん、正式なことは学園から伺います。ただ、生徒さんたちの動きもありますからね」
男性は穏やかに続けた。
その言い方は、正しかった。責めているわけでも、急かしているわけでもない。東都院の後援会関係者として、行事に関心を向けているだけに見える。
「生徒側では、来賓の方が通られる場所と、生徒が控える場所を分けて確認しています」
紗良は、答えられる範囲だけを選んだ。
「控室の前で人が止まらないよう、式典局の方で表示や案内の見直しもしています。私たちは執行部側なので、詳しい配置は式典局と事務局の確認になります」
「そう。接遇班の生徒さんは、当日はどのあたりまで出られるのですか」
今度は、別の女性が尋ねた。
声は柔らかい。紅茶の温度を確かめるような、何でもない聞き方だった。
紗良は一拍だけ置いた。
「来賓の方を直接お迎えする場所は、学園側と式典局の上級生が中心になると思います。二年は補助に回ることが多いかと」
「二年生でも、しっかりした方が多いのでしょうね」
「はい。三年生の指示を受けながらですが、大きな問題もないと聞いています」
「九条院さんのような方がいると、場が締まりますね」
エリカの名前は、会話の流れに紛れて出た。
あまりにも滑らかだったので、紗良はすぐに笑みを返せた。
「九条院さんは、礼法も接遇も丁寧ですから。式典局でも、皆さん頼りにされていると思います」
「弦楽部との兼ね合いは大変でしょうね」
「ええ。演奏の準備もありますから。無理が出ないよう、式典局の方で調整しているはずです」
答えながら、紗良は自分の言葉がいつもより慎重になっているのを感じた。
質問そのものは、おかしくない。
春季晩餐会では、来賓も保護者も後援会関係者も、同じ場所に集まる。随伴者や職員、生徒の動きも重なる。控室が混み合うか。接遇班がどこまで出るか。弦楽部の演奏と式典の持ち場が重ならないか。それらは、準備の話として通るものだった。
ただ、整った会話の中で、関心の向きだけが細い糸のように見える。
控室まわり。接遇班。弦楽部。人の流れ。
そして、九条院エリカの名前。
直接踏み込んでいるわけではない。誰かの予定を聞いているわけでもない。控室の場所を尋ねたわけでも、付き添いを確かめたわけでもなかった。
だからこそ、紗良はそれを咎める理由を持てなかった。
「御厨さんは、執行部で全体を見られるのでしたね」
「全体というほどではありません。連絡と掲示の確認が中心です」
「それでも、生徒さん同士の空気は、生徒さんが一番よく分かるでしょう」
女性の微笑みは、変わらなかった。
紗良も、同じように微笑んだ。
「そうですね。必要なことがあれば、執行部から式典局へ回すようにしています」
「頼もしいわ」
褒め言葉は、軽かった。軽いからこそ、断る形にならない。
事務局職員が、そこで前へ出た。
「本日は、確認事項がまとまり次第、こちらから後援会事務へ共有いたします。生徒側の準備状況については、必要な範囲で随時確認いたします」
「ええ、お願いいたします。行事が滞りなく進むのが何よりですから」
話は、そこで穏やかに閉じた。
紗良はもう一度礼をした。後援会の大人たちは、それぞれに柔らかく頷いた。誰も声を荒げず、何かを命じることもなく、ただ春季晩餐会がよいものになるようにと話しただけだった。
応接室を出ると、廊下の空気が少し冷たく感じた。
事務局職員が、扉を静かに閉める。
「御厨さん、ありがとう。急に呼んで悪かったね」
「いえ。お役に立てたなら」
「具体的な配置は、まだ生徒側へ広げなくていい。式典局への連絡は、こちらで整理します」
「承知しました」
職員の言葉で、紗良の中の引っかかりは形を変えた。
学園側も、後援会の扱い方を分かっている。丁寧に応じる。必要なものは受ける。けれど、すべてをそのまま渡すわけではない。
それが東都院の大人のやり方だった。
廊下の先では、来賓控室の札を持った職員が、別の職員と低い声で話していた。講堂へ向かう通路には、まだ生徒の姿は少ない。旧校舎は静かで、春季晩餐会の前だというのに、どこか普段より整いすぎて見えた。
紗良は歩き出した。
後援会は、教職員や事務局とは別の立場にいる。
直接触れないからこそ、軽く扱えない。
その扱い方を、紗良はよく知っていた。
不快ではなかった。失礼でもなかった。
だからこそ、名前だけが残った。
旧校舎の廊下を抜けると、新校舎へ続く渡り廊下に出る。
そこから見える講堂は、まだ静かだった。
春季晩餐会は、まだ始まっていない。
けれど、その前に交わされる挨拶だけで、誰がどこに置かれるかは少しずつ決まり始めていた。




