部活のあとで
講堂側の廊下は、もう夕方の色に沈み始めていた。
音楽室の扉を閉めたあとも、エリカの右腕には弓を持っていた重さが鈍く残っていた。肩へかけた楽器ケースが、その疲れを思い出させる。歩き出す前に一度だけ背筋を引き上げる。口元の力を戻す。人とすれ違う場所へ戻る時の癖だった。
さっきの会話は、もう終わったはずだった。
笹倉の声色も、引くタイミングも、失礼にならない距離の取り方も、どれもよく分かっていた。分かるからこそ、胸の内側に小さな引っかかりが残る。受け止めきれないのは相手のせいではなく、自分に余裕がないからだと、そういう形で片づいてしまう。
廊下を進んだところで、向こうから来る人影が見えた。
高等部の制服。肩から提げた細長い袋。歩き方は急ぎすぎず、かといってぶらつきもしない。
悠木湊だった。
目が合うと、彼の方が先に足をゆるめた。
「九条院さん」
呼ばれて、エリカも立ち止まる。
「お疲れさまです」
「お疲れさま。部活帰り?」
「はい。今終わったところです」
湊の視線が、エリカの肩の楽器ケースへ移る。そこから顔へ戻るまでが短い。何かを探るような見方ではなかった。
「弦楽部も、今まで?」
「ええ。少し長引いてしまって」
それだけ答えてから、声の端がいつもより乾いていることにエリカは気づいた。戻したつもりだったのに、疲れは言葉のところまで来ていたらしい。
けれど、湊はそこで気遣いを重ねなかった。
「そっか」
短く受けて、それ以上の意味を乗せない。
大丈夫かと身構えるでもなく、令嬢らしくない一瞬を拾って扱い直すでもない。そのままの返事として置かれたことに、エリカの肩の内側から余計な力が抜けた。
「悠木さんは、これからどちらへ?」
「暦のところです。風紀の当番で、まだ残ってるはずだから」
答えたあとで、湊は自分の荷物を持ち直した。
「顔を出してから一緒に帰るつもりで」
「そうなのですね」
二人が一緒に帰っているところは、これまで何度も見たことがあった。幼馴染なのだと聞いている。今日はそれが、いつもよりはっきり目に入った。
「……そうして一緒に帰るのが、自然なのですね」
気づいたら、口にするつもりのなかった言葉が出ていた。
「そうかもしれません」
湊は特に気にしたふうでもなかった。
「長い付き合いなので」
「長さだけで、そうなるとは限らないのでしょうけれど」
「確かに、そうかもしれません」
そこで初めて、エリカは少しだけ口元をゆるめた。
「ええ。今、自分でもそう感じました」
自分でも曖昧な返しだと思った。九条院家の令嬢としては、褒められたものではない。けれど、湊は笑わずに頷いた。
「迎えはもう来てますか」
「そろそろだと思います」
「ならよかった。今の時間なら、あの辺ももう落ち着いてますし」
言い方が軽い。確認のようでいて、過不足がない。
「悠木さんこそ、あまり遅くならないでくださいね」
「もう帰るだけなので」
その返事に、気負いがなかった。誰かの役割としてではなく、そうするのが自然だからそうする、という響きだった。
エリカはそれを聞き、なぜか胸の奥が静まるのを感じた。
「では」
「はい。また明日」
湊は軽く会釈して、廊下の先へ向かった。
講堂寄りの角を曲がる前に一度だけ振り返るかと思ったが、しなかった。歩幅も変わらない。そのまま、風紀委員会のある方へ消えていく。
エリカはその背を見送り、ようやく自分の足を動かした。
さっきまで残っていた笹倉との会話のざらつきが、もう同じ形では胸に残っていない。輪郭だけが、少し薄くなっていた。
車寄せには、見慣れた黒塗りの車が停まっていた。
運転手がエリカに気づき、後部座席の扉を開ける。
「お帰りなさいませ」
「ありがとうございます」
乗り込む時には、スカートの裾、楽器ケースの置き方、髪の流れまで手が先に動く。座席へ身を収めてからも、鞄の留め具を確かめた。
扉が閉まる。
外の音が遠のいたところで、エリカは背もたれへ重みを預けた。
窓の外では、学園の石畳が後ろへ流れていく。講堂の屋根、並木の影、正門の灯り。見慣れた帰り道だった。
疲れはまだ腕にある。
肩も重い。首筋のあたりに、朝から続いていた張りが残っている。
それでも、思い返しているのは練習の失敗でも、笹倉の言葉でもなかった。
そっか、という、ただそれだけの、何でもない返しだった。
けれど、あの一言には余計な意味がついていなかった。可哀想でも、立派でも、気の毒でもなく、ただ今の自分を見たあとの言葉だった。
エリカは窓へ視線を向けたまま、指先で袖口をなぞった。
ああいうふうに受け取られると、気がゆるむ。
それが、ほっとすることにも気づいた。
家に着くと、いつものように玄関の灯りは明るかった。
楽器ケースは使用人が受け取る。手袋を外す場所、鞄を置く場所、明日の持ち物を確認する場所まで、流れはもう身体に入っている。夕食の席では、父から学校のことを短く確かめられた。新しいクラスの様子も、弦楽部との両立も、滞りなくこなしていると返すべき項目は決まっている。
口にした時点で、それが半分は返答の形であることを自分でも知っていた。
大きく崩れてはいない。
ただ、息をつく場所が細くなっている。
そのことを、食卓で言葉にする必要はなかった。
部屋へ戻ってから、エリカは制服を脱ぎ、鏡の前で髪を下ろした。
結い上げていた部分が肩へ流れる。耳の後ろにかけていた毛束を指でほどき、櫛を通す。朝は人前へ出るための整え方をした。今は一日を戻していくための手順だった。
机の上に、明日の授業で使うものを出し、鞄の中も軽く見直す。提出物は済んでいる。式典局関連でこの日に追加の呼び出しはない。そこまで確かめて、ようやく一人になれた。
風呂を使い、肌の熱が引いたころには、家の中も静かになっていた。
ベッドへ入って照明を落とす。
天井を見上げたまま、エリカは指先を胸の上で重ねた。
今日一日の中で、もっと印象に残る出来事はいくつもあったはずだった。教室で笑ったこと。瑠璃子の言い方。笹倉の目元。弦の響き。父の声。
それなのに、最後に浮かぶのは廊下の短い会話だった。
湊の前では、張っていた力が抜けていた。
あの時、自分はちゃんとできていなかった。声にも疲れが出ていたし、楽器ケースの持ち方にも余裕がなかったと思う。それでも、あからさまに気を遣われなかったことが、ありがたかった。
九条院エリカであることを知ったまま、そこへ余計な意味を重ねてこない相手だった。
それで安心してしまったのだと思う。
そこまで考えてから、エリカは薄く息を吐いた。
安心した。
その言葉を自分の中で認めると、今度は別の緊張が生まれる。
また次に会った時、同じように力を抜いてしまうのだろうか。
それは困る気もした。
困る、というより。
ちゃんとしていたい。
家の娘として、ではなく。
A組の中心に置かれる令嬢として、でもなく。
悠木さんの前で、自分がちゃんとしていたい。
その考えに触れた瞬間、エリカは目を閉じた。
まだ名前はつかない。
ただ、落ち着かない熱だけが胸の奥に残る。
その熱を残したまま、眠りは静かに降りてきた。




