表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
東都院物語  作者: 橘鉄真
PR
41/61

部活のあとで

講堂側の廊下は、もう夕方の色に沈み始めていた。

音楽室の扉を閉めたあとも、エリカの右腕には弓を持っていた重さが鈍く残っていた。肩へかけた楽器ケースが、その疲れを思い出させる。歩き出す前に一度だけ背筋を引き上げる。口元の力を戻す。人とすれ違う場所へ戻る時の癖だった。

さっきの会話は、もう終わったはずだった。

笹倉の声色も、引くタイミングも、失礼にならない距離の取り方も、どれもよく分かっていた。分かるからこそ、胸の内側に小さな引っかかりが残る。受け止めきれないのは相手のせいではなく、自分に余裕がないからだと、そういう形で片づいてしまう。

廊下を進んだところで、向こうから来る人影が見えた。

高等部の制服。肩から提げた細長い袋。歩き方は急ぎすぎず、かといってぶらつきもしない。

悠木湊だった。

目が合うと、彼の方が先に足をゆるめた。


「九条院さん」


呼ばれて、エリカも立ち止まる。


「お疲れさまです」

「お疲れさま。部活帰り?」

「はい。今終わったところです」


湊の視線が、エリカの肩の楽器ケースへ移る。そこから顔へ戻るまでが短い。何かを探るような見方ではなかった。


「弦楽部も、今まで?」

「ええ。少し長引いてしまって」


それだけ答えてから、声の端がいつもより乾いていることにエリカは気づいた。戻したつもりだったのに、疲れは言葉のところまで来ていたらしい。

けれど、湊はそこで気遣いを重ねなかった。


「そっか」


短く受けて、それ以上の意味を乗せない。

大丈夫かと身構えるでもなく、令嬢らしくない一瞬を拾って扱い直すでもない。そのままの返事として置かれたことに、エリカの肩の内側から余計な力が抜けた。


「悠木さんは、これからどちらへ?」

「暦のところです。風紀の当番で、まだ残ってるはずだから」


答えたあとで、湊は自分の荷物を持ち直した。


「顔を出してから一緒に帰るつもりで」

「そうなのですね」


二人が一緒に帰っているところは、これまで何度も見たことがあった。幼馴染なのだと聞いている。今日はそれが、いつもよりはっきり目に入った。


「……そうして一緒に帰るのが、自然なのですね」


気づいたら、口にするつもりのなかった言葉が出ていた。


「そうかもしれません」


湊は特に気にしたふうでもなかった。


「長い付き合いなので」

「長さだけで、そうなるとは限らないのでしょうけれど」

「確かに、そうかもしれません」


そこで初めて、エリカは少しだけ口元をゆるめた。


「ええ。今、自分でもそう感じました」


自分でも曖昧な返しだと思った。九条院家の令嬢としては、褒められたものではない。けれど、湊は笑わずに頷いた。


「迎えはもう来てますか」

「そろそろだと思います」

「ならよかった。今の時間なら、あの辺ももう落ち着いてますし」


言い方が軽い。確認のようでいて、過不足がない。


「悠木さんこそ、あまり遅くならないでくださいね」

「もう帰るだけなので」


その返事に、気負いがなかった。誰かの役割としてではなく、そうするのが自然だからそうする、という響きだった。

エリカはそれを聞き、なぜか胸の奥が静まるのを感じた。


「では」

「はい。また明日」


湊は軽く会釈して、廊下の先へ向かった。

講堂寄りの角を曲がる前に一度だけ振り返るかと思ったが、しなかった。歩幅も変わらない。そのまま、風紀委員会のある方へ消えていく。

エリカはその背を見送り、ようやく自分の足を動かした。

さっきまで残っていた笹倉との会話のざらつきが、もう同じ形では胸に残っていない。輪郭だけが、少し薄くなっていた。

車寄せには、見慣れた黒塗りの車が停まっていた。

運転手がエリカに気づき、後部座席の扉を開ける。


「お帰りなさいませ」

「ありがとうございます」


乗り込む時には、スカートの裾、楽器ケースの置き方、髪の流れまで手が先に動く。座席へ身を収めてからも、鞄の留め具を確かめた。

扉が閉まる。

外の音が遠のいたところで、エリカは背もたれへ重みを預けた。

窓の外では、学園の石畳が後ろへ流れていく。講堂の屋根、並木の影、正門の灯り。見慣れた帰り道だった。

疲れはまだ腕にある。

肩も重い。首筋のあたりに、朝から続いていた張りが残っている。

それでも、思い返しているのは練習の失敗でも、笹倉の言葉でもなかった。

そっか、という、ただそれだけの、何でもない返しだった。

けれど、あの一言には余計な意味がついていなかった。可哀想でも、立派でも、気の毒でもなく、ただ今の自分を見たあとの言葉だった。

エリカは窓へ視線を向けたまま、指先で袖口をなぞった。

ああいうふうに受け取られると、気がゆるむ。

それが、ほっとすることにも気づいた。

家に着くと、いつものように玄関の灯りは明るかった。

楽器ケースは使用人が受け取る。手袋を外す場所、鞄を置く場所、明日の持ち物を確認する場所まで、流れはもう身体に入っている。夕食の席では、父から学校のことを短く確かめられた。新しいクラスの様子も、弦楽部との両立も、滞りなくこなしていると返すべき項目は決まっている。

口にした時点で、それが半分は返答の形であることを自分でも知っていた。

大きく崩れてはいない。

ただ、息をつく場所が細くなっている。

そのことを、食卓で言葉にする必要はなかった。


部屋へ戻ってから、エリカは制服を脱ぎ、鏡の前で髪を下ろした。

結い上げていた部分が肩へ流れる。耳の後ろにかけていた毛束を指でほどき、櫛を通す。朝は人前へ出るための整え方をした。今は一日を戻していくための手順だった。

机の上に、明日の授業で使うものを出し、鞄の中も軽く見直す。提出物は済んでいる。式典局関連でこの日に追加の呼び出しはない。そこまで確かめて、ようやく一人になれた。

風呂を使い、肌の熱が引いたころには、家の中も静かになっていた。

ベッドへ入って照明を落とす。

天井を見上げたまま、エリカは指先を胸の上で重ねた。

今日一日の中で、もっと印象に残る出来事はいくつもあったはずだった。教室で笑ったこと。瑠璃子の言い方。笹倉の目元。弦の響き。父の声。

それなのに、最後に浮かぶのは廊下の短い会話だった。


湊の前では、張っていた力が抜けていた。

あの時、自分はちゃんとできていなかった。声にも疲れが出ていたし、楽器ケースの持ち方にも余裕がなかったと思う。それでも、あからさまに気を遣われなかったことが、ありがたかった。

九条院エリカであることを知ったまま、そこへ余計な意味を重ねてこない相手だった。

それで安心してしまったのだと思う。

そこまで考えてから、エリカは薄く息を吐いた。

安心した。

その言葉を自分の中で認めると、今度は別の緊張が生まれる。

また次に会った時、同じように力を抜いてしまうのだろうか。

それは困る気もした。

困る、というより。

ちゃんとしていたい。

家の娘として、ではなく。

A組の中心に置かれる令嬢として、でもなく。

悠木さんの前で、自分がちゃんとしていたい。

その考えに触れた瞬間、エリカは目を閉じた。

まだ名前はつかない。

ただ、落ち着かない熱だけが胸の奥に残る。

その熱を残したまま、眠りは静かに降りてきた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ