弦のそろう時間
最後の和音が、部屋の高い天井へ細くほどけていった。
音が消えたあとも、九条院エリカはすぐに肩を落とさなかった。弓先がわずかに揺れない位置まで待ち、左手の指を静かに離す。譜面の上へ視線を戻してから、ようやく楽器を下ろした。
合わせの終わりには、いつも短い沈黙があった。音の残りを聞くためでもあり、崩れずに終えるためでもある。弾き終わった直後に気を抜けば、それまで揃えていたものまでほどけて見える。
姿勢、呼吸、入りのそろえ方。音の出来だけでなく、そういうところも見られる場所だった。
エリカはヴィオラを抱え直した。肩へかかっていた重みが外れると、そのぶんだけ右腕の張りが分かる。今日の曲は大きく揺れる箇所が少ない代わりに、均した音を長く保つ時間が多かった。乱れなく続ける方が、体に疲れが残りやすい。
「お疲れさまでした」
近くの部員たちが声を交わし、譜面を閉じる音が重なった。椅子が静かに引かれ、譜面台が畳まれていく。終わった直後まで、皆の所作は整然としていた。
エリカも同じように挨拶を返し、自分の譜面をそろえた。部の空気は嫌いではない。むしろ、好きだった。何をどう保てば音が揃って聞こえるのかが、ここでは分かりやすい。立ち方も、礼も、余計な私語を挟まない間も、全部が一つの音の側に寄っていく。
それでも、好きでいることと、疲れないことは別だった。
部員が数人ずつ先に出ていく。講堂側の廊下へ足音が流れ、扉の開閉が遠ざかった。
「九条院さん、これ、こちらへ戻しておきますね」
「ありがとうございます」
受け取った譜面台を壁際へ寄せる。空いた椅子を二脚ずつ重ね、並びを乱さないように端へ寄せた。誰に言われたわけでもない。けれど、最後に残ったものをそのままにして出る気には、どうしてもなれなかった。
譜面の端が机から少しだけはみ出しているのが見えれば直す。松脂の蓋が半端に閉まっていれば押し込む。そういう小さな残り方が、目に入ってしまう。
全員が帰ったあと、音楽室は急に広くなった。さっきまで満ちていた弦の響きが抜け、譜面台の金具を畳む音だけが細く残る。
もう二台。
そう思って最後の譜面台へ手を伸ばした時、廊下の向こうで足音が止まった。
「まだいたんだ」
振り向くと、開けた扉の向こうに笹倉直純が立っていた。気負いのない顔をしているのに、相手の手が空いているかどうかは最初に見ている目だった。
「練習はもう終わってたよな」
「ええ。片づけが少し残っていましたので」
「少し、ね」
笹倉は笑って、扉の近くにあった椅子を二脚まとめて持ち上げた。
「それ、こっちでいい?」
「ありがとうございます。壁際へお願いいたします」
「はい、仰せのままに」
軽い言い方だった。相手が受け取りやすいところへ差し出してくる話し方だとエリカには分かった。
椅子を置いた笹倉は、室内を一度見回した。
「弾いてるとこ、廊下の手前でちょっとだけ聞こえてた。いい音だったな」
「ありがとうございます」
「いや、褒めたかったのはそこだけじゃないんだけど」
言ってから、笹倉は肩をすくめた。
「そういう言い方をするとこでもないか。今日はやめとく」
エリカは譜面台を畳みながら、息をついた。押しつける言い方ではないぶん、受け取りやすかった。
「お気遣いは、十分伝わっております」
「ならよかった」
笹倉はそう答えて、扉の枠に寄りかからない程度に体を預けた。
「二年になってから、前より忙しそうだろ。教室でもそう見えるし、生徒会の方でも名前を聞く」
「そういう時期なのだと思います」
「九条院さんは、そうやって済ませるよな」
責める調子ではない。笑いを含めたまま、それでも軽くはなかった。
「済ませてるつもりはないんです。ただ、皆さん同じですから」
「皆が同じでも、余裕がなくなる順番までは同じじゃないだろ」
譜面をそろえる手が、ほんのわずかに止まった。
笹倉はその間を急かさなかった。
「講堂側、俺もしばらく行き来が増えるんだ。会計の方で呼ばれることあるし。重いものが残る日なら、次は声かけて」
通り掛かったついでの声かけではないのだと分かった。手伝えることを先に口にしている。
ありがたい、とエリカは思った。
思うのに、返す言葉は丁寧にまとまるばかりで、その先へ進まない。
「ありがとうございます。でも、部のことですから、まずはこちらでいたします」
言ってから、自分でも硬いと思った。
笹倉もそれは分かったはずだった。けれど、表情を変えずに頷いた。
「そっか。じゃあ、まずはそういうことで」
そこで引く。引き方もそつがない。だから余計に、エリカの胸のどこかに細い引っかかりが残る。
本当なら、もう少し柔らかく返せたかもしれない。ありがとう、で済むことだったかもしれない。そう思うのに、今日はそこまで言葉をゆるめる余裕が残っていなかった。
「……でも」
エリカが言うと、笹倉は目だけで先を待った。
「お声がけいただけるのは、嬉しいです」
一拍遅れて出た言葉だった。
笹倉はそこで初めて、目元をやわらげた。
「それなら十分」
言い過ぎないまま、彼は扉の方へ半歩下がった。
「帰り、気をつけて。迎え、もう来るだろ」
「はい。笹倉さんも」
「ああ。また教室で」
足音が廊下の向こうへ遠ざかる。
エリカはその場に数秒だけ立ち、手の中の譜面を見た。紙の端はきちんと揃っている。自分の返事だけが、どこか揃い切らなかった気がした。
残っていた譜面台を片づけ、椅子の列を見直す。窓の掛け金を確かめ、忘れ物がないか一度だけ視線を巡らせた。やることを終えてしまえば、考えずに済む。
楽器ケースを持ち上げる前に、制服の袖口を直す。肩へ落ちた髪を指先で戻し、呼吸を浅く一つ静めた。
人前に出ても乱れて見えないところまで戻してから、エリカは音楽室の灯りを落とした。
廊下へ出ると、講堂側の窓は夕方の色に変わっていた。疲れは消えていない。右腕の奥に鈍く残っているし、胸の内側にはさっきの会話の感触も残っている。
それでも、歩き出す前には、いつもの表情に戻しておかなければならなかった。
エリカは扉を静かに閉め、講堂寄りの廊下を進んだ。




