上品な棘
昼休みになると、新校舎の廊下は教室の中とは違うざわめきを見せる。
次の授業の準備を先に済ませる者、購買へ急ぐ者、窓際で短い話を続ける者。声はどれも抑えられているのに、行き交う人数が増えるだけで、廊下のざわめきは一段大きくなる。
エリカたちは教室を出て、食堂へ向かう廊下をゆるく並んで歩いていた。紗良が持っていた紙包みの話から、琴葉の家で昔よく使っていた焼き型の話へ移り、そこへ文香が「型より温度の方が大事ですね」と真顔で差し込んだところで、四人のあいだに小さな笑いが生まれた。
「文香さん、そういうところだけ急に正確よね」
紗良が肩を揺らす。
「そういうところ以外でも正確ですよ」
「そこを自分で言うのね」
琴葉がやわらかく言って、また小さく笑いが広がった。
エリカも笑った。こういう時間は、変に気を張らずにいられる。同じ教室の友人として言葉が返ってくる、その軽さがありがたかった。
「楽しそうね」
声は明るかった。明るいのに、その声が輪の中へ入ってきた途端、四人の会話が一度だけ止まる。
久我山瑠璃子が、女子生徒を二人連れて立っていた。制服の襟元も髪もきちんとしている。見た目だけなら、どこへ出しても見劣りしない令嬢だった。
「久我山さん」
エリカが先に名を呼ぶと、瑠璃子はうれしそうに目を細めた。
「九条院さん、やっぱり二年A組は華やかね。廊下を歩いているだけでも、もう雰囲気が違うもの」
褒め言葉の形だった。だからこそ、返し方を選ぶ。
「今は皆さん動かれる時間ですから。少し賑やかに見えるだけですよ」
「そうかしら。だって、九条院さんは最初から似合っていらしたもの。A組も、式典のお手伝いも、そういう場所が」
瑠璃子は笑みを崩さないまま続けた。
「榊原さんと並べてもきれいでしょうし、周りも安心するのよね。ああいう方が前に立ってくださると」
廊下を通る生徒が、そのあたりで少し足をゆるめた。
エリカは顔色を変えなかった。変えないことは、もう癖に近い。
「安心していただけるなら、よかったです」
自分でも、よくできた返答だと思った。こういう返し方は慣れている。
瑠璃子はすぐに頷いた。
「ええ。九条院さんは、そういうところまでちゃんとしていて素敵。努力なさっているのは分かるのだけれど、やっぱり自然に見えるの。羨ましいわ」
自然。
その一語が引っかかった。
エリカにとっては、自然に見えるよう努力してきた時間の方が長い。姿勢も、声の調子も、相手を緊張させない距離も、最初から身についていたわけではない。
それでも、ここでそれを言葉にするのは違う。言い立てた瞬間、みっともない人になる。
「ありがとうございます」
短く礼を言うと、琴葉がそっと重ねた。
「でも、A組って見た目だけでは回らないですよね。書類も多いですし、役割も細かいですし」
「そうね」
紗良が自然に受ける。
「華やかに見えるところほど、地味な確認が増えるの。瑠璃子さんたちは、まだそこまで慌ただしくありませんか」
瑠璃子の連れていた二人が、そこで小さく顔を見合わせた。
「うちはそこまでではないわ」
「でしたら、少し羨ましいです」
紗良はやわらかく微笑んだまま言った。
「こちらは、見栄えをどうこうする前に書類の漏れをなくさなければなりませんもの」
言葉は穏やかだった。けれど、話の向きはそこで変わった。
瑠璃子は一瞬だけ黙り、それから文香へ目を向けた。
「藤代さんも大変でしょう? A組は、実力のある方ばかりで」
「比較の基準が多い、という意味ならそうですね」
文香は平坦に答えた。
「ただ、見た目で決まることばかりでもありませんよ」
短い。短いから、余計な議論へ伸びない。
瑠璃子は笑みを保ったまま、ほんの少しだけ口元を固くした。
「そういうところ、藤代さんらしいわ」
「よく言われますね」
それだけで返す文香に、琴葉が続けて声を挟んだ。
「私、このあと図書室にも寄りたいので、食堂へ行くなら早めの方がよさそうです」
「それなら早めの方がよさそうね」
紗良が振り向く。
「ええ。ですから、今のうちの方が落ち着いて食べられるかと」
「それは大事ね」
話題が移る。
流れを切らずに別の話へ持っていくのは、琴葉がよくやるやり方だった。
瑠璃子も、それ以上は同じ話を続けなかった。
「では、失礼するわ。九条院さん、またね」
「ええ、また」
瑠璃子は最後まで崩れない笑顔のまま去っていった。取り巻きの二人も、少し遅れて続く。
姿が見えなくなると、廊下のざわめきがいつもの調子に戻った。
紗良が小さく息をつく。
「上手に言うものよね」
怒っている調子ではなかった。感心と呆れが半分ずつ混じった声だった。
「褒めている形をしているぶん、面倒ですね」
文香が言う。
「否定しにくいです」
「文香さん、そのまとめ方はきれいすぎるわ」
紗良が笑う。
「でも、その通りですね」
琴葉が苦笑して、エリカを見た。
「エリカさん、大丈夫ですか」
問われて、エリカはすぐに頷いた。
「ええ。ありがとうございます」
声は乱さなかった。笑みもそのまま保った。
紗良の目がやわらぐ。
「じゃあ、まずお昼にしましょう。お腹を空かせたまま、ああいう言葉を受けるものではないわ」
「それは本当にそうだと思います」
琴葉が頷き、文香も珍しくすぐに同意した。
「空腹は判断力を鈍らせますよ」
その言い方がおかしくて、エリカは小さく笑った。
歩き出す。三人が隣にいるだけで、さっきまでの引っかかりは少し薄れた。
羨ましいと言われるたび、その中に比べる目が混じる。
似合うと言われるたび、自分より先に立場の話になる。
きちんと返せば、その場は収まる。そのたびに、疲れだけが自分に残る。
廊下の先には、昼休みへ向かう生徒たちの流れが続いていた。
エリカは友人たちの会話に耳を預けながら、その中へ足を合わせた。表情も歩幅も崩していない。それでも胸の奥には、小さな疲れが残っていた。




