教室の会話
新校舎の廊下は、始業前の明るさで満ちていた。
扉の向こうから、二年A組の声が薄く混ざって聞こえる。高すぎない笑い声、椅子を引く音、鞄が机へ置かれる小さな重なり。どれも騒がしいほどではないのに、この教室だけはもう朝の会話がいくつかできていた。
エリカは指先で鞄の持ち手を直し、戸口をくぐった。
すぐに、紗良がこちらを見つけた。
「おはよう、エリカ」
「おはようございます。紗良さん」
紗良は琴葉、文香と話していた。
「駅前のカフェに春の新作ケーキが出たそうよ。文香さんがもう見てきたんですって」
「見てきたというより、昨日寄っただけですよ」
窓側の机の横で、文香が顔を上げる。声は淡々としていた。
「苺のタルトです。限定らしいので、たぶん朝から話題になっていますよ」
「文香さんはそういう情報だけは早いよね」
琴葉が言うと、紗良がくすりと笑った。
「だけ、ではないでしょうけど。たしかに、そこは早いわ」
「帰りに寄ることが多いだけですよ」
「私は文香さんと一緒のことが多いかな。新しいのが出ると、つい見に行っちゃう」
琴葉の言い方は気負いがなく、聞いている方まで気楽になる。
「紗良さんも行かれるのですか」
エリカが問うと、紗良は肩をすくめた。
「たまによ。ずっと混んでいる日は避けるけれど」
「昨日は少し並んでいました。でも、いつもよりはましでしたね」
「その報告が細かいのよね、文香さん」
「利用するなら大事な情報ですよ」
「それはそう」
琴葉が素直に頷く。
「九条院さんは?」
文香に向けられて、エリカは小さく笑った。
「名前は聞いたことがありますけれど、まだ行ったことはありません」
「え、そうなの?」
琴葉が目を丸くする。
「なんとなく、もう行ってる気がしてた」
「機会がなくて。駅前で立ち寄ることがあまりありませんから」
「それなら、今度おすすめだけでもお伝えするわ。最初なら、あのお店は外れが少ないもの」
紗良がそう言うと、四人の間で、やわらかい笑いが回った。
その輪の中では、エリカも肩の力を抜きやすかった。返す言葉を選ぶ前に、先に口元がほどける。教室に入ってからまだ数分しか経っていないのに、朝の車中で胸の奥に残っていた細い張りが、少し後ろへ下がっていた。
「弦楽部、今週から長めでしょう?」
紗良が机の端に軽く腰を預けた。
「ええ。新入部員の見学もありますから」
「じゃあ、しばらくは帰りも遅くなるのね」
「迎えの時間は調整してもらっています」
「大変そう」
琴葉は素直にそう言った。
「でも、エリカさん、そういう時の方が顔は変わらないよね」
琴葉の言葉へ、紗良が横から笑って口を挟んだ。
「それ、褒められているのかしら」
琴葉は悪びれずに頷いた。
「半分は」
「残り半分は?」
「見てる側が安心する、かな」
琴葉の言い方は軽かった。持ち上げるでもなく、ただ感じたことをそのまま言葉にしたようだった。
文香が手元の書類をそろえながら口を挟む。
「行事前は、そういう人が一人いるだけで、周りはだいぶ楽ですね」
「楽、ですか」
「気を回すところが減るんですよ」
「文香さん、その言い方だと褒め言葉がだいぶ実務寄りよ」
紗良が困ったように笑う。
「でも、文香さんらしいわね」
エリカもつられて笑った。今度はさっきより自然に声が出た。
教室の少し奥で、何人かがこちらを見ていた。会話の輪が目に入りやすいだけのことだと分かる。女子同士で話していれば、珍しいほどではない。
それでも、二年A組では、誰がどこで話しているかはよく見られる。
窓際の列へ目をやると、澄礼はすでに席についていた。まだ誰とも会話していない。ただ背筋を伸ばして座っているだけで、その周囲だけ空気の密度が少し違って見える。教室全体が浮つかないのは、ああいう存在が一人いるからかもしれなかった。
「おはよう」
別の声が近くでかかって、エリカは視線を戻した。
榊原だった。
朝の光の中でも、制服の線が崩れていない。目立とうとしているわけではないのに、教室の何人かがそれだけで挨拶の調子を整える。
「おはようございます、榊原さん」
エリカが返すと、榊原はやわらかく笑った。
「朝から楽しそうでよかった。さっき職員室前で柏木先生に会ったんだけど、少しあとになるそうだよ。ホームルームはすぐ始めるそうだから、そのときには席についていてほしいって」
「もうそんな時間なのね」
紗良が言う。
「ケーキの話は、放課後まで持ち越しかな」
琴葉が名残惜しそうに笑った。
「その方が、帰りに寄る理由は増えますね」
文香が静かに返すと、榊原も小さく笑った。
「それは楽しみを残したってことにしておこうか」
言い方は静かなのに、教室のあちこちで声の高さが少し落ちた。
エリカはその変化に気づいた。榊原が何かを命じたわけではない。けれど、彼が輪の近くに立つだけで、こちらへ向く視線の早さまで変わる。
紗良と榊原がいて、琴葉と文香がその近くにいる。そこに自分がいる。
さっき離れたはずの視線が、もう一度こちらへ返ってきた。
教室の後方では、悠木が自分の席へ鞄を置いていた。兵頭と短く言葉を交わして、それで終わる。こちらを見ても、何か特別な意味を読み取ったふうにはならない。その距離の取り方に、エリカはわずかに息をつきやすくなる。
「エリカ?」
紗良に呼ばれて、エリカはすぐに笑みを戻した。
「ごめんなさい。少し考えごとをしていたみたい」
「珍しいわね」
「帰りの時間のことですかね」
文香が静かに言う。
「それとも、さっきのケーキ?」
琴葉が重ねる。
「どちらも少しだけ、かもしれません」
エリカがそう返すと、紗良が笑った。
「それなら、放課後まで悩めるわね」
また笑いが起きた。
その輪の中にいれば、エリカはたしかに息がしやすい。紗良は場をやわらげるのが上手く、琴葉は受け止め方が穏やかで、文香は正確さで会話の芯を作る。三人とも、九条院家の娘としてではなく、同じ教室の友人として声をかけてくれる。
だからこそ分かってしまう。
楽しく話していても、榊原が近くに立つだけで、教室の視線の置かれ方が変わる。
自分と榊原を並べて見る目が、この教室には当たり前のようにある。
悪意はなかった。ただ、その当たり前さが息苦しかった。
廊下から柏木の足音が近づいてきた。ざわめきが静まり、椅子を引く音が続く。
エリカも席へ戻るために一歩引いた。その時、榊原がごく自然に横へずれ、通りやすい幅を空けた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
それだけのやり取りだった。
それだけで十分に、最初からそう決まっていたように見えてしまう。
エリカは胸の奥に触れた細い息苦しさを、顔へ上げなかった。席に着き、教科書をそろえる。前を向くころには、朝の笑い声はきちんと教室の中へ収まっていた。
残ったのは、楽しかったという確かな感覚と、その最中にも自分の立場が周囲に読まれているという、小さくて消えにくい理解だけだった。




