九条院家の朝
朝の光は、薄いレース越しにやわらかく差していた。
九条院家の東京邸では、もう屋敷全体が起きている。廊下の足音は抑えられていたが、止まってはいない。湯の気配、食器の触れ合う小さな音、遠くで開いて閉じる扉。どれも静かで、慌ただしさとは違う速さで揃っていた。
エリカは鏡の前に立っていた。
制服の襟は乱れなく収まっている。白い指先で結び目の位置を確かめると、後ろに控えていた侍女の白石透子が、ほんの少しだけ近づいた。
「そのままで結構です。肩の線もきれいです」
白石の声は、朝にふさわしい落ち着いた高さだった。褒めるための言葉というより、確認の結果を告げる調子に近い。
エリカは小さく頷いた。
「ありがとうございます」
髪は今朝も控えめなハーフアップにまとめてある。淡い色の髪は、光を受けると目立つ。だからこそ、まとめ方が崩れているとすぐ分かる。白石は横から一筋だけ流れた髪を見つけ、櫛で整えた。指が触れる時間は短い。慣れた手つきだった。
「本日は、弦楽部の方へお寄りになるご予定でしたね」
「はい。放課後に」
「式典局のお呼び出しが入る可能性は」
「今のところは伺っていません」
答えながら、エリカは鏡の中の自分へ目をやった。
返答に間違いはない。声量も、表情も、朝の支度の一部として収まっていた。けれど、自分の予定を述べているのに、自分の都合を話している感じは薄かった。
今日どこへ向かい、何を優先し、どこまで応じられるか。そうした確認は、もうずいぶん前から「本人がどうしたいか」より先に、「九条院の娘として差し支えがないか」の順で行われてきた。
エリカも、その順番に異を唱えたことはない。
ただ、朝になるたび、身体が先にそれを思い出す。
机の上には、通学鞄、筆記具を入れた薄いケース、手帳、今日の配布物を挟むためのファイルが揃えられていた。白石が順に確認し、そのあとでエリカ自身が視線を落とす。
ハンカチ、学生証、定期券、部活用の譜面入れ。
指先が、譜面入れの端でわずかに止まった。
「どうかなさいましたか」
「いえ。昨日入れ替えたので、念のため」
開いて、中を確かめる。必要なものは入っていた。閉じる。元の角度へ戻す。その一つ一つが滑らかで、屋敷の朝にふさわしい手順だった。
「旦那様は、もうお席に」
「すぐ伺います」
鏡の前を離れる前に、エリカは背筋を伸ばした。伸ばそうと思うより先に、肩が収まる。
祖母は、姿勢は相手を安心させるための形でもあると言っていた。苦しそうに見える真っ直ぐさは、礼にならない、と。
その教えは今も身体に残っている。朝いちばんにそれを思い出すたび、自分の一日ももう始まっているのだと分かった。
朝食の席では、白い器と銀の縁取りが朝の光を静かに受けていた。
父の隆雅をはじめ、祖父の隆成、母のカリナ、兄の征晴も、すでに席についている。九条院家では、朝は家族が揃って食卓につく。会話は多くないが、誰が欠けても空気は変わる。
エリカは席のそばで一度礼をした。
「おはようございます」
祖父が目を細めた。
「おはよう、エリカ」
母もやわらかく微笑み、征晴は軽く頷いた。最後に父が顔を上げた。
声をかける順も、礼の深さも、考えるほどのことではない。身体が先に知っている。
着席を勧められ、エリカは椅子を引いた。布地の擦れる音が小さく収まる。給仕が下がるのを待ってから、父がナプキンを広げた。
「新しいクラスにも、もう慣れたかな」
「まだ日が浅いですから、慣れたとまでは申せません。ただ、落ち着いて臨めると思います」
父は頷いた。
「A組は何かと人目に触れる場面が多い。だが、おまえなら問題ない」
父の言う「問題ない」は、励ましであると同時に、前提の確認でもあった。
「そう気を張りすぎるな」
祖父が穏やかに言った。
エリカは口元に微笑みを置いた。
「はい、ありがとうございます」
温かなスープが運ばれてくる。香りはやさしかった。朝食は丁寧に作られているが、豪奢さを見せるためのものではない。必要以上に重くなく、けれど雑ではない。九条院家らしい、隙のない穏やかさだった。
父はそこで口を開いた。
「春季晩餐会の方も、学園内ではそろそろ話題に上る時期だろう」
「はい。まだ表立った作業の中心ではありませんけれど、意識は向き始めていると思います」
「式典局へ正式に名を置く以上、名前の見え方も変わる」
父の言い方は静かだった。重く響かせようとしているわけではない。ただ、その一文の中で、進級も、所属も、家の名も、ひとつながりのものとして扱われていた。
「承知しております」
「弦楽部も続けるのだろう」
「はい」
「それでいい。人前に立つのであれば、支えになるものがあった方がいい」
エリカは一瞬だけ父を見た。
その言葉には、音楽への理解が含まれている。けれど同時に、弦楽部さえも『九条院家の娘としての支え』として整理されていることが伝わった。
「部の練習そのものも、大切にしたく思っています」
口に出したあとで、ほんのわずかに言葉が硬かったと分かった。
父に悪気はない。気遣いとして言っているのだと分かる。
それでも、ヴィオラを弾く時間まで役目に沿って数えられているようで、胸の内に細い張りが残った。
父は気づいたらしいが、たしなめはしなかった。そのまま受け取りながら、話を元の場所へ戻した。
「もちろんだ。おまえはそういうところを疎かにしない。その積み重ねが、結局は人の印象に残る」
「はい」
エリカは頷いた。
口に出した個人の希望が、九条院家の娘としての完成度へつながっていく。父は、そういう話し方をする。
「帰りが遅くなりすぎるようなら、先に知らせてちょうだい」
母が静かに言った。
「はい」
父はそこで話題を切り替えた。学校側からの連絡、週末の予定、迎えの時刻。どれも穏やかなものだ。
征晴は口を挟まなかったが、父の話が一区切りつくたびに小さく頷いた。その静かな同意も、この食卓では言葉とあまり変わらない。
週末の予定や迎えの時刻まで話が進むころには、エリカの呼吸は自然と浅くなっていた。
崩さずに受け答えする意識が、先に身体へ降りてくる。
朝食の終わり、父はカップを置いてから言った。
「A組でも、式典局でも、おまえはおまえのままでいればいい」
やわらかな言い方だった。
その言葉だけ聞けば、ずいぶん自由な励ましに聞こえる。けれど父の言う『おまえのまま』は、九条院エリカとして十分に仕上がっている娘のことだ。
エリカはその意味を知っている。知っているから、返す言葉も迷わない。
「はい。ご心配のないようにいたします」
父は満足そうに頷いた。
それで朝の会話は終わった。
玄関へ向かうころには、屋敷の空気はもう次の動きへ移っている。鞄は手渡され、コートの皺は出る前に払われ、車の到着も待たせない。
「いってらっしゃいませ」
送る声は、家の中の誰のものも静かだった。
エリカは車へ乗り込んだ。ドアが閉まる。
その瞬間、ようやく一人になった。
窓の外へ視線を向けるより先に、膝の上へ置いた手帳に指が伸びる。今日の予定欄を開き、朝のホームルーム、授業、放課後の弦楽部練習、帰宅予定時刻を順に確かめた。
確認しなくても覚えている。
それでも手帳は開く。
先に確かめておけば、自分の内側より先に今日の輪郭をつかめる気がした。
車が屋敷を離れる。都内の朝はもう動き始めていた。信号待ちのたびに、エリカは小さく息を吐く。そのたびに、膝の上の手が手帳の端を揃え直した。
一度ずれたわけでもないのに、角を合わせる。ファイルの位置を直す。スカートの皺を指先で払う。
休もうとする前に、整える。
それが癖になっていると気づくのは、いつも少し息が抜けたあとだった。
窓に映る自分は、朝の身支度部屋にいた時とほとんど変わらない。髪も、襟元も、表情も崩れていない。けれど、車の中でだけは、その顔の奥に疲れの薄い影が落ちる。
まだ始業前だと、自分でも思う。
そう思ったのも、ほんの一瞬だった。
始まる前から始まっている。それが自分の朝なのだと、もう分かっている。
学園が近づくにつれ、エリカは手帳を閉じた。代わりに、前方へ目を向ける。
門をくぐる時には、もう呼吸の深さも戻っていた。
車が車寄せに滑り込む。運転手がドアを開ける気配がする。
エリカは先に背筋を伸ばし、鞄を持ち直した。
足を外へ出した時には、九条院家の屋敷を出た娘ではなく、東都院へ着いた九条院エリカの顔ができていた。




