一人で帰る道
放課後、新校舎の式典局には、キーボードを打つ音が続いていた。窓から入る光はまだ明るい。机の上には印刷した確認用紙と書き込みの入ったメモが残り、画面の中では別々の書類が開かれている。
式典局で必要な書類は一つ二つでは済まない。式次第、来賓一覧、招待状、事業者との調整表、機材の調達依頼。表に出る一枚の裏で、揃えておくものはいくつもある。
正直なところ、兵頭も初めてこの作業量を知ったときには面食らったものだ。高校生に任せられる作業とも思えなかった。だが、東都院の生徒会を名乗るのであれば、これくらいは出来なければならない。
兵頭はノートPCの前で、機材の調達依頼を見直していた。講堂側で使う音響機材、控室側で要る備品、搬入時刻、引き渡し先。事業者へ回す前に、抜けがないかだけ拾う。
同じ新校舎でも、執行部や会計局の作業場所は別にある。廊下の向こうに人の動く気配はあったが、ここまでは届かない。いま式典局の部屋にいるのは、兵頭と九条院、それに三年の式典局員と補助に入った一年生が二人だけだった。
部屋の奥では、三年の式典局員がノートPCを開き、複数の書類を並べていた。必要な時だけ顔を上げ、確認すべき点だけを短く言う。九条院はその向かいで、招待状の文面と来賓一覧の表記を見比べている。その表情に迷いはなかった。
手前の机では、一年生が来賓一覧の入力をしていた。もう一人は印刷した式次第に赤字を入れ、画面の文面と突き合わせている。それなりにてきぱきと動いているが、慣れていないせいか、時々手が止まる。
兵頭は画面の端に出した時刻表へ目をやった。式次第の順番が変われば、事業者への依頼時刻も動く。来賓控室の使用時間がずれれば、必要な備品も変わる。表に出る書類と、裏で回る依頼は別に見えて、切り離せない。
「兵頭さん」
呼んだのは、来賓一覧を触っていた一年だった。
「こちらは招待状に入れる一覧と同じにしたんですけど、分けるように言われて」
兵頭は席を立ち、隣へ寄った。画面には同じ名前が並んでいるように見える。だが、使う先が違う。
「招待状用は敬称込み、一覧は肩書優先だ。こっちは送るための書類、あっちは式典で使う書類だろ」
「あ」
「同じに見えても、目的が違う。だから様式も変える必要がある」
兵頭は該当箇所だけ直し、行を二つ戻した。
「ここから先だけ分けろ。上はそのままでいい」
「はい」
返事は硬かったが、手はすぐに動き直した。全部をやり直させるほどではない。止まったところだけ戻せば足りる。
部屋の奥で、三年の式典局員がノートPCから顔を上げた。
「九条院、招待状の文面、第二案でいけるか」
「はい。来賓一覧の表記に合わせるなら、こちらの方が収まりがいいと思います」
「ではそれで通す」
九条院は頷き、修正箇所へ視線を戻した。声に無理がない。表向きの書類を整える役は、やはり兵頭より向いている。
兵頭はそれを嫌ってはいない。ああいうところの形を作れる人間がいるから、華やかな表舞台が成り立っている。その代わり、表から見えない側では、時刻や依頼先や書類同士の食い違いが日常的に起きている。そこを放っておくと、きれいに整えた表まで影響する。
兵頭は自分の席へ戻り、調達依頼の欄を見直した。音響機材の受け渡し先は講堂側、追加備品の納品先は控室側。備考欄に、式次第確定後に時刻再確認と打ち込む。
その時、今度は別の一年生が印刷した紙を持って立った。
「すみません。この式次第、前の版が混ざってました」
兵頭は紙を受け取り、赤字の位置を見る。途中の順番が一箇所だけ違っている。
「今触ってるデータはどっちだ」
「こっちです」
画面を示された。兵頭はファイル名の日付を見て、短く言う。
「新しい方はそっちで合ってる。印刷したのは前の版だな」
「あっ、すみません」
「謝るより、保存先をよく確認しておけ。同名のファイルが残ると後で困る」
「はい」
少し強かったかと思ったが、言い直しはしなかった。そのくらいは覚えてもらった方が早い。
廊下の方で足音が止まった。
「失礼します」
御厨と藤代が部屋へ入ってくる。二人とも紙ではなく薄いファイルを手にしていた。執行部から事務連絡の受け渡しに来たらしい。
御厨はまず三年の式典局員へ向いた。
「執行部側で取りまとめた資料をお持ちしました。来賓出欠の更新が二件と、学校側から戻った確認事項が一件です」
「お疲れ様。確認事項は?」
藤代が横から薄いファイルを開いた。
「控室使用時間に関するものです。変更箇所に付箋を入れてあります」
三年の式典局員は受け取った書類に目を落とし、ノートPCの横へ置いた。
「分かった。書類への反映はこっちで行おう」
御厨は軽く頷いた。
「お願いします。執行部側は、必要な連絡があればまた回します」
御厨はそれだけ言って引いた。長く留まらず、必要な情報だけ置いていく。
藤代は兵頭へ向き直った。
「式典局側で反映が済んだら、執行部の控え用に時刻部分だけ戻してください」
「終わったら回す」
兵頭が答えると、藤代は短く頷いた。
二人はそれ以上部屋に残らず、そのまま執行部側の作業場所へ戻っていった。廊下の足音が遠ざかると、部屋の中は元の静けさへ戻る。
九条院は無理に言葉を重ねなかった。
「では、その更新分も見て、こちらを進めましょう」
そう言って、来賓一覧の束を机へ置く。
頼み方も、押しつけではない。兵頭は短く頷いた。
作業はそれから早かった。
九条院は招待状と来賓一覧の表記を整え、兵頭は機材の調達依頼と事業者向けの調整表を詰める。三年の式典局員はノートPCで全体の書類を見比べ、一年生は指示された箇所だけを順に直していく。流れが戻ると、無駄な立ち止まりが消える。
兵頭は自分の画面を見ながら、横の止まり方にも目を配った。足りないところへ短く手を入れ、引っかかりそうなところだけ戻す。それだけで十分だった。一年生たちも、一度順序が見えると迷わなくなる。
ひと通り終わる頃には、窓の光が少し傾いていた。机の上には最終確認待ちの書類だけが残り、さっきまで開いていた画面もだいぶ減っている。
三年の式典局員はノートPCの画面から視線を上げ、部屋を見回して小さく頷いた。
「今日はここまででいい。招待状と来賓一覧は保存先を分けて終わり。調達依頼は明日、もう一度出欠を見てから出す」
解散の空気がゆるく広がる。一年生たちは自分のPCを閉じ、印刷した紙をそろえて先に出ていく。九条院は三年の式典局員へ一礼し、最後に机の上を見渡した。
兵頭は自分の画面に残した依頼書の備考欄をもう一度だけ見た。何も起きていない。
正しく言えば、止まりかけた入力や確認が、そのまま流れに戻った。
整った書類そのものより、兵頭にはそちらの方が見やすい。
「兵頭さん」
九条院が振り向く。
「今日は、きれいに収まりましたね」
言い方が少し可笑しくて、兵頭は鼻で短く息を吐いた。
「大きなミスがなかっただけです」
「十分だと思います」
九条院が静かに言う。
その言葉には、今度は少しだけ早く頷けた。
兵頭は鞄を持ち、そのまま作業場所を出た。新校舎の廊下は、昼より静かだった。窓の外には、まだ春の明るさが残っている。
前に立つ者がいる。
後ろで支える者がいる。
どちらか一つでは回らない。
それが今日、目立たずに済んだのなら、それでよかった。
階段を下りながら、兵頭は襟元を指で直した。明日もたぶん、また何かは滞りかける。その時に動ければいい。
帰り道は、一人で十分だった。
校舎を出ると、夕方の光がまだ地面に残っていた。
新校舎のガラスは西日を薄く返し、足元だけが少し明るい。校門へ向かう生徒の列はできていたが、もう昼休みほどの賑わいはない。
話し声はある。笑い声も混じる。それでも、解散のあと特有の、力の抜けた静けさが先にあった。
兵頭はその流れの端を、自分の歩幅で進んだ。
誰かと帰る日もある。だが、一人の方が頭を整理しやすい。耳に入る声が減る。今日の出来事を並べ直すには、その方が都合が良かった。
最初に思い出したのは、昼休みの短いやり取りだった。
御厨に声をかけられた時、返事が少し硬かった。
笹倉に言われたときは思わず否定してしまったが、実のところ自分でも気づいていた。
用件は短く、向こうの言い方も柔らかい。聞いて返せば足りたのに、先に肩へ力が入った。女子相手になると、どうしてもまだ反応が遅れる。言葉を選ぶ前に、身構えてしまう。
問題は愛想ではなく、返すまでの間だった。
あれでは相手に余計な気を遣わせてしまう。御厨は顔に出さなかったが、そのくらいは兵頭にも分かる。
未だにこういうところで反応が鈍る自分には、腹が立つ。
恥をかくこと自体は大した問題ではない。まずかったのは、相手に余計な気を遣わせたことだ。聞いて返すだけのことが、まだ素直にできない。先に身構える癖が出るのが厄介だった。
どうにかしなければとは思うが、すぐに片づく話でもない。慣れて、直していくしかない。
正門を抜けると、通りの空気が学校の外へ切り替わる。
制服の群れはそのまま駅へ流れていく。途中で脇道へそれる者もいる。店先の明かりはまだ薄く、空の明るさの方が勝っていた。
兵頭は人のまとまりを避けるほどではなく、少し空いた側を選んで歩いた。
次に浮かんだのは、柔道の時間だった。
目立ちすぎた、と思う。
気になっていたのは見栄えではなかった。授業は授業として受けた。ただ、必要以上に目を引くのは面倒だった。
悠木と笹倉を転がしたことは、まあいい。守谷と組んだ時も、勝ちを急いだつもりはない。崩れた体勢のまま落ちる前に止まった。あれでよかったはずだ。
問題なのは、授業で習った技ではなく、慣れ親しんだ技を使ってしまったことだ。あれでは悪目立ちしすぎる。
男子の空気が少し変わったことも、兵頭は気づいていた。急に近くなったわけではない。値踏みする目つきが、少し変わった。それだけだ。
それはそれで良い。
分かりやすく持ち上げられる方が、むしろ扱いに困る。
駅前へ続く道で信号に引っかかり、兵頭は足を止めた。
視界の端を、自転車が二台抜けていく。横断歩道の向こうでは、同じ学園の生徒が三人で何か話していた。兵頭は見ていないふりで、そのまま信号の色だけを待った。
放課後の作業は、悪くなかった。
先に確認した方がいい箇所は押さえられた。失敗の芽を潰し、大きく詰まる前に手を入れられた場面がいくつかある。あのくらいなら、自分の役目としては足りている。
九条院の言葉も思い出した。
あの人は、そういうことを角のない言い方で返す。
兵頭には、ああいう返し方がまだ難しい。褒めるにしても、受け取るにしても、少し硬い。短く済ませると、余分な棘が残る。
一年生への対応では特にその問題が出たかもしれない。
対応自体は間違っていない。だが、九条院や御厨なら、もう少しうまくやるだろう。
作業より、そっちの方が難問だった。
表に立つ人がいて、後ろで支える手がある。今日は自分の役目は回せた。
なら、次は言い方だけだ。
頭の中で、直すべきところを整理する。
言葉はよく選んで話す。不自然に遅くならない範囲で。
返事は一拍置いてから返す。焦って返す必要はない。
女子に話しかけられても、まず用件を聞く。
その程度だと思うと、少し収まりがよかった。毎回きれいにできるとは思っていない。
信号が変わり、兵頭は歩き出した。
駅へ向かう人の流れはまだ続いている。その中へ混ざってしまえば、誰が誰を見るでもなくなる。
今日一日で、自分を見る目が少し変わったことには気づいていた。
柔道のあと。
教室でかけられる声。
作業場所で仕事を振られる順。
そういう細かい変化の方が、兵頭には分かりやすい。
考えていることまでは分からない。けれど、読み取れるものもあった。
失敗はあったが、回せた場面も多かった。見られるなら、その分だけ整えればいい。
駅の屋根が見えたところで、兵頭は鞄の持ち手を持ち直した。
今日の分は、もう十分だと思った。
明日もたぶん、どこかで詰まりかける。
その時に、もう少しましにやればいい。




