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東都院物語  作者: 橘鉄真
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組手

昼休み明けの武道館には、春の熱が少しこもっていた。

靴を脱いで上がると、畳の乾いた感触が足裏へそのまま伝わる。柔道着の擦れる音、素足で踏み替える細かな気配、教師の声が壁に当たって戻ってくる。教室とは別の静けさがあった。

柔道の授業は男子のみで行われる。女子はいまごろ、体育館で体操をしているだろう。

畳の上に整列する。

兵頭は列の端で帯を締め直した。いくつかの視線が向けられる。珍しくもない。背が低く、横に広い。そういう見られ方にも慣れていた。

教師の号令で一礼し、準備運動が始まる。


「いっちにーさんしー」

「ごーろくしーちはーち」


教師の掛け声に合わせて筋を伸ばす。いつも道場でしているものとはメニューがいくらか異なるが、身体が解れてくれるのであれば問題はない。

続いて受け身を一通り繰り返す。兵頭にとっては慣れたものだった。だが、授業以外では道着を着ない者の方が多いなら、ここは十分に繰り返す方がいい。

畳を叩く乾いた音が響いていた。音の出し方一つで、不慣れかどうかがある程度分かった。

受け身の後は基本の投げ技、寝技の反復練習。教師が見本を示し、そのとおりに練習する。足の運び、組むときの形を確認する。地味な時間だが、こういうところの方が人柄がよく出る。立ち方の癖、力の入れ方、相手を掴む前の迷い。

基本が終わったあとは、二人組になっての組手だった。

最初の相手は悠木だった。


「よろしく」

「おう」


悠木は気負った様子もなく前へ出る。弓道をやっているせいか、立つ時の軸はぶれにくい。ただ、組み合いの間合いにはまだ慣れていない。

掴ませない動きは良いが、攻めようという気配が足りない。

袖を取った瞬間、体重の置き方が見えた。

兵頭は引かなかった。押しもしない。足をずらし、肩の向きだけ先に変える。

悠木の重心が行き場を失って、畳の上で短く転がった。

音は軽かった。大きく叩きつけたわけではない。受け身を取るだけの余裕を残してある。

悠木はすぐ起き上がり、帯のあたりを直しながら笑った。


「今のは習ってない投げ方だったんだけど」


言葉を探すように一拍置く。


「迷いがないな」

「授業だからな」


兵頭が答えると、悠木は妙に納得した顔をした。

教師が組を替えさせる。

次に前へ来たのは笹倉だった。


「これは様子見してからの方がよかったかな」


口ではそう言いながら、足は引かない。

軽口を叩けるやつほど、案外まっすぐ来る。


「手加減してくれよ、兵頭」

「授業だろ」

「さっきも同じこと言ってたな」


笑い混じりの声のまま組みに来る。兵頭は敢えて袖口と襟を掴ませた。手が触れた瞬間に笹倉が力んだ。見た目よりずっと崩しにくい、と気づいた時には遅い。

兵頭はその力みを待っていた。前へ出た脚の外へ体を流し、引っかけるでもなく、残った重さだけを崩す。笹倉はきれいに一度まわって、畳に手をついた。


「いや、お前」


起き上がった笹倉が、半分笑って兵頭を見る。


「いくらなんでも、ちょっと強すぎないか」

「経験者だからな」

「それ、先に言っとけよ」

「聞かれてない」


近くで見ていた何人かが、そこで初めて声を立てた。

からかうようなものではない。空気が少し変わる時の、短い声だった。

兵頭は帯を締め直した。

見られているのは分かる。

だが、その視線の意味はまだ固まりきっていない。

ひときわ強い視線を感じた。守谷壮真だった。

笹倉と組んでいる間から、守谷の視線はこちらを向いていた。教師が次の組を指示した時、守谷が前へ出る。

守谷壮真はA組の中で一番背が高く、体格も立派なものだった。兵頭と並ぶと、かなりの身長差がある。たしか剣道部所属だったはずだが、組み技の心得もありそうだった。

重心に揺れがない。家で躾けられたものまで、そのまま残っているような姿勢だった。


「兵頭、一本いいか」

「ああ」


向き合って一礼する。守谷は最初から試すつもりで来ていた。力をぶつけるのでなく、こちらの出方を確かめるように圧をかけてくる。

悪くない、と兵頭は思った。互いに襟と袖を取り合う。

組んだ瞬間、悠木や笹倉とは重さが違うことがはっきりと分かる。身長差があるぶん、上からかぶせられると面倒だ。まともに受ければ押し込まれる。であれば、まともに受けない立ち回りが必要だった。

兵頭は真正面から外れた。半歩ずれ、袖を大きく引かせない位置へ体を置く。

守谷の足が詰まる。すぐに立て直してくる。その切り返しも速い。

兵頭はそこで初めて、少しだけ楽しくなった。

守谷の手の位置が上がる。肩が入る。来る。

読むより先に、体が先に動いた。腰を落とし、軸をずらし、相手の踏み込みだけを浮かせる。守谷の上体がわずかに前へ流れた。一本まで持っていける形は見えた。だが、その前に教師の声が入る。


「そこまでだ」


それで兵頭は動きを止めた。このまま入れば、どちらかの体勢が崩れたまま落ちる。教師が止めたのは妥当だった。


「力で押すな。今の体の崩し方はよく確認しておくように」


二人は離れた。

守谷は息を整え、兵頭を見た。

その目から、最初の測る色が消えている。


「なるほど」


短く、それだけ言った。

兵頭も頷いた。

それで十分だった。

少し離れたところで、悠木と笹倉が並んでこちらを見ていた。

さっきまで組んでいた二人が、そのまま守谷との組手まで眺めていたらしい。

笹倉が何か言い、悠木が苦笑して返す。その並びはもう妙に自然だった。

兵頭はそこで初めて、いつの間にか仲良くなっていたらしい、と思った。

自分が間にいたはずなのに、そういうところは勝手に進む。

悪い感じはしなかった。

ふと、榊原と目が合った。 相手は何も言わない。 ただ、朝に教室で向けられたのと同じ目ではなかった。兵頭を見る目が、少し変わっていた。

授業の終わりが近づくにつれ、周囲の空気はさらに静かに変わった。露骨には出ない。それでも、次の組み合わせで向く目や、間の取り方が違う。さっきまでなら半信半疑で出していた手が、今は慎重になる。

そういう変化の方が、兵頭には見やすかった。

最後の整列で、兵頭は列の中へ戻った。


汗が首筋を流れている。柔道着の背中が少し張りつく。武道館の窓は高く、春の光だけが白く落ちていた。

教師が終わりの礼をさせる。

声が揃う。

顔を上げた時、もう誰も兵頭を見た目だけで測ってはいなかった。

たぶん、それで十分だった。

兵頭は襟を直し、何事もなかったように列を離れた。

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