決まっていた役職
教室へ戻ると、始業式のために張っていた空気は、少しずつほどけていった。
椅子を引く音が重なり、誰かが小さく息をつく。黒板の上には、午前中の予定がまだ消されずに残っていた。始業式、ホームルーム、配布物確認。そこに書かれている言葉だけを見れば、どの学校にもある新学期の一日だった。
湊は席に戻りながら、さっきまでの並びを思い出していた。
榊原が男子の先頭に立ち、エリカが女子の先頭に立つ。始業式前に、柏木から並びについての指示はあった。湊には、指示されたからそうなったというより、最初からその形に収まることが分かっていたように見えた。周りの生徒もほとんど迷わなかった。
「悠木、配布物の役職欄を見たか」
声をかけてきたのは兵頭だった。
兵頭匡平は自分の席の横に立ったまま、配られたプリントを一枚だけ指で押さえていた。
「まだ。どれ?」
「新年度確認票の二枚目だ。委員と係、それから会議の集合場所が載ってる」
湊は机の上に置かれていた配布物をめくった。
一枚目は住所や連絡先の確認欄だった。二枚目には、二年A組の学級委員、各委員会、生徒会関連、生徒組織連絡、行事補佐といった区分が並んでいる。欄ごとに何人もの名前があり、集合場所や提出物の有無が短く記されていた。
「俺の名前は、委員の欄にはないな」
「なら、少なくとも委員ではない」
兵頭は淡々と言った。
その言い方には、驚きも不満もなかった。決まっているものを、配布物で確かめているだけの顔だった。
暦も、隣の席で配布物をめくっていた。
「暦は?」
「ある」
「何が?」
「風紀委員。初回集合も今日」
湊は一拍置いた。
「もう正式に出てるのか」
「紙に出ている」
暦はそう答えて、該当する行を指で押さえた。
その返事は、推薦された役目を改めて受け止めているというより、すでに決まったものの条件を読んでいる声だった。
湊は暦が押さえた行をのぞき込んだ。
風紀委員、影山暦。
一年前は図書委員の欄にあった名前が、今度は風紀委員の欄にある。朝、A組の名簿を見た時には、同じ教室になったことの方が先に来ていた。クラス全員の一覧の中でその名前を見ると、暦がこの教室の中で別の役目を持ったのだと分かった。
湊はそれが不自然だとは思わなかった。あの時の推薦が、そのまま形になっただけだ。暦は校則を覚える。手順を飛ばさない。そういう意味では、風紀委員に向いている。
頭の片隅には、引っかかるものがあった。
「風紀委員か」
「うん」
暦は配布物を見たまま答えた。
「集合場所まで出るんだな」
「活動日、担当教師、行事時の扱い、報告先もある」
「名前で終わりじゃないんだな」
「それはもう決まっている」
湊は苦笑しかけて、やめた。
暦は自分が任されたことを嫌がっているようには見えなかった。喜んでもいない。条件を読んでいた。自分に何が求められ、どの時間が取られ、誰と連絡を取ることになるのか。それを手元の配布物から拾っている。
「影山さん」
少し離れた席から、御厨紗良が声をかけた。
紗良は自分の配布物を机に置き、必要な箇所に視線を落としていた。隣のエリカも、式典局の初回集合欄を確かめている。
「風紀委員の初回集合、今日なのですね」
「はい」
暦は、湊に向ける時とは違う声で答えた。
「春は式典が続きますから、風紀委員会と式典局の確認も増えると思います。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
紗良の言葉は丁寧だった。親しすぎず、遠すぎもしない。暦を押さえつける声ではなく、先に道を作っておくような言い方だった。
エリカも顔を上げた。
「影山さんが見てくださるなら、見落としが減りそうです」
「まだ、内容を読んだだけです」
暦は淡々と返した。
「それでも、心強いです」
エリカはそう言って、柔らかく微笑んだ。
湊は、そのやり取りを少し離れて見ていた。
式典局の欄には、何人もの名前が並んでいた。進行班、接遇班、会場班、特別行事班。短く分けられたその中に、エリカと兵頭の名前もある。エリカは接遇班、兵頭は会場班だった。細かな担当までは分からない。二人が同じ「式典局員」という言葉だけでは片づかないことは分かった。
生徒会執行部の欄にも、複数の名前があった。その中に紗良の名前があり、近くの席では、藤代が同じ欄に丁寧に線を引いている。笹倉は会計局、牧瀬は図書委員の欄に名前がある。
名前は同じ紙の上に短く並んでいるだけなのに、湊が知っている名前だけでも、教室での見え方とは別の地図がそこに一枚重ねられているようだった。
「見たか」
兵頭が横から言った。
「だいたい」
「風紀と式典局の連絡は多い」
「そんなに多いのか?」
「行事となると業者の立ち入りもあるし、お祭り気分の奴も増える。通る場所を間違える奴も出る。風紀が見てくれるなら、話が早い」
兵頭は暦を見た。
「影山さんなら、見たことと判断を分けてくれるだろう」
「必要なら、判断も言います」
暦が答える。
湊はその短いやり取りに妙な納得を覚えた。兵頭は暦を褒めているわけではない。暦も、褒められたとは受け取っていない。仕事の上では噛み合いそうだった。
その横で、藤代文香が配布物を見下ろしていた。
「これ、確認って言うんですね」
声は大きくない。けれど、隣にいた牧瀬琴葉には届いていた。
「配られて、ホームルームで扱うから、確認という形なんだと思います」
牧瀬は穏やかに答えた。
「決める、ではなくて?」
「決めるところは、ここではないんだと思います」
藤代はしばらく黙った。
「実力主義って、難しいですね」
その言葉には棘があるわけではなかった。むしろ、自分の中にある違和感を、できるだけ尖らせずに置いたような声だった。
牧瀬は配布物を見たまま考える。
「決まっていることが全部悪い、という話でもないと思います。決まっているなら、どこで見られていたのかは少し気になります」
藤代は短く頷いた。
湊はその会話を聞いて、胸の引っかかりに名前をつけられた気がした。
役職が決まっていること自体に、反発があるわけではない。榊原が学級委員長なのも、暦が風紀委員なのも、エリカが式典局にいることも、紗良が生徒会執行部にいることも分かる。
不自然ではないからこそ、落ち着かなかった。
誰も驚かない。誰も異議を出さない。手元に紙が配られた時には、もうその人がそこにいることを、周りが受け入れていた。
柏木が教卓の前に立った。
「確認は済みましたね。ホームルームを始めます」
式の後の緩みは残っている。それでも、誰が前に立つのか、どこを見ればいいのかは、もう決まっていた。
柏木は教卓の前で出席簿を閉じた。
「新年度の委員、係、提出物について確認します」
制度の説明はなかった。
委員がどう決まったのか。誰が評価したのか。なぜこの配置なのか。柏木はそれを話さない。手元の資料を一枚めくり、榊原の方を見た。
「榊原君、ここからお願いします」
「はい」
榊原叡志は、静かに立ち上がった。
椅子を引く音は小さかった。教室の前へ出るまでの動きにも、余計な間がない。役職を示すために立つのではなく、すでに任されている仕事を始めるために前へ出る。そういう歩き方だった。
「では、配布物と提出物から進めます」
榊原の声は、よく通った。強くはない。教室の後ろまで自然に届く。
「まず、新年度確認票は、本日中に内容を確認し、必要な欄だけ記入してください。明日の朝、各列の後方でまとめます。委員会、係、生徒会関連の初回集合日は、配布物にある通りです。提出物については、自分の欄の備考を確認してください」
誰も茶化さなかった。
それが、榊原だからなのか。A組だからなのか。東都院だからなのか。湊には分からなかった。
「学級委員長として、通常の連絡は僕が受けます。評議会側に回す内容については、担任の確認を通して扱います」
言い方は穏やかだった。
自分が二年評議員であることを誇示する調子はない。そこに立つことを遠慮する気配もなかった。
「委員や係について、この場で個別に読み上げることはしません。確認票と違っている、または集合場所が分からない場合は、ホームルームの後で僕か柏木先生に申し出てください」
数人が配布物へ視線を落とした。
エリカは静かに頷き、兵頭はプリントの端に短く何かを書き込んだ。紗良は自分の欄を見たあと、近くの藤代の手元を一度だけ見ていた。笹倉は後方の席で、隣の生徒に何か短く確認している。牧瀬は図書委員の欄に指を置き、必要な提出物の有無を確かめていた。
榊原は教室全体の反応を見てから次へ進んだ。
榊原は急がず、止まりすぎもしなかった。誰かが聞き落とした時には、責めずに戻る。教室の視線は、榊原の声に合わせて少しずつ前へ集まっていった。
「委員や係について、今この場で聞いておきたいことはありますか」
教室は静かだった。
異議がない、というより、異議を出す場所ではないと全員が知っているような静けさだった。
湊はその静けさの中で、手元の紙に並んでいた文字を思い出した。
名前はそれだけではない。各欄には、湊がまだ話したことのない生徒の名前もいくつもあった。
目に残る名前はあった。
学級委員長、榊原叡志。
風紀委員、影山暦。
式典局に九条院エリカと兵頭匡平。
生徒会執行部の欄に、御厨紗良と藤代文香。
会計局に笹倉直純。
図書委員に牧瀬琴葉。
名前は並んでいただけだ。けれど、湊が知っている名前だけでも、その並びは教室の中でそのまま形になっているように見えた。
「では、次に今週の予定です」
榊原はそう言って、黒板の予定表へ視線を移した。
今週の予定。提出物。委員会集合。教科担当からの連絡。どれも普通のホームルームの内容だった。
湊は榊原の声を聞きながら、隣の暦を見た。
暦はプリントを見ていた。表情は変わらない。指先は一度、風紀委員の集合場所のところで止まっていた。
湊は口を閉じたまま、プリントへ視線を戻した。
榊原の説明は、必要なところで短く止まり、質問の余地だけを残して進んでいく。誰かが小さく手を上げれば、榊原はその場で答え、必要があれば柏木へ確認を向けた。
それは、よく整ったホームルームだった。
だからこそ、湊には、もう普通の連絡だけには見えなかった。
始業式の並びは、教室へ戻っても消えなかった。
前に立つ榊原。確認票に書かれた暦の名前。式典局の接遇班にあったエリカと、会場班にあった兵頭。執行部の欄にあった紗良と藤代。
細かく言い直されなくても、その配置は自然に保たれていた。
二年A組は、もうそれぞれの位置へ動き始めていた。
やがて、柏木が出席簿を閉じた。
「以上です。確認票は忘れずに。分からない点がある人は、ホームルームの後で申し出てください」
椅子を引く音が、今度は少し大きく重なった。
榊原が自分の席へ戻り、教室の空気がようやくほどける。前の席では、エリカが配布物を揃え、紗良が何か短く声をかけていた。兵頭はプリントを鞄にしまわず、もう一度会場班の欄を見ている。
湊はそこで、暦へ顔を向けた。
「大丈夫か?」
暦は、視線だけをこちらへ向けた。
「何が?」
「風紀委員」
「活動範囲は見た」
「そうじゃなくて」
暦は考えた。
「風紀委員の仕事より、人を相手にすることを気にしてる?」
湊は返事に詰まった。
暦は責めるようには見ていなかった。確かめていた。
「少し」
湊が答えると、暦はプリントへ視線を戻した。
「分かった」
「分かっただけか」
「そこを間違えないようにする」
それ以上は言わなかった。




