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東都院物語  作者: 橘鉄真
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29/61

始業式の並び

担任の柏木怜子は、出席簿を閉じる音まで静かだった。

黒板横の掲示に書かれていた通り、朝のホームルームは長くない。始業式のあとに新年度説明があり、教室へ戻ってから担任挨拶と配布物確認を行う。それだけを淡々と告げると、柏木は教卓の横へ立った。


「講堂へ移動します。榊原君、整列をお願いします」


榊原叡志は、返事をする前に一度だけ教室全体を見た。


「はい。女子の先頭は九条院さんにお願いします」


声は大きくない。けれど、教室のあちこちで椅子を引く音が揃い始めた。

湊も席を立った。隣の列では、暦が机の横に置いた鞄を少し内側へ寄せている。動きは普段と変わらない。急いでもいないし、遅れてもいない。

ただ、目だけは教室の前を見ていた。


「何かある?」


湊が小さく聞くと、暦は視線を動かさないまま答えた。


「誰も疑問に思っていない」

「何を?」

「二人が先頭なこと」


短い答えだった。

榊原が黒板側の通路へ出ると、男子側の一列は静かに形になった。椅子を戻す音も、鞄を持ち上げる動きも、前から後ろへ揃っていく。

女子側では、御厨紗良が九条院エリカの方へ短く目を向けた。


「エリカ、先頭を」

「ええ」


エリカは一つ頷き、女子列の前へ出た。

それ以上の言葉はなかった。鷹司澄礼も、他の女子生徒も、自分の入る位置へ静かに収まる。誰かが場所を空けるわけではない。誰かが見せるように礼をするわけでもない。A組の生徒は、自分の立つ位置を知っていた。

湊は、その動きを目で追った。

個人が目立つ場面ではない。むしろ、目立たずに揃うことが求められている。

それでも、同じ列の中に入った時、エリカと澄礼の周囲だけは、ほんのわずかに空気の張り方が違って見えた。

湊は、そう思いかけて、すぐに断定を避けた。

まだ、そこまで分かったわけではない。

廊下へ出ると、他のクラスも講堂へ向かい始めていた。新校舎の廊下には、革靴の音が重なる。新年度の朝らしい落ち着かなさはある。けれど、東都院の廊下では、それも一定の幅に収まっていた。

講堂へは、男子一列、女子一列で進む。

男子列の先頭には榊原がいた。女子列の先頭にはエリカがいる。紗良も澄礼も、その列の一部として歩調を乱さず進んでいた。

列が一度止まった。

講堂前の広い廊下に、二年生の各クラスが順に並ぶ。A組の前には三年の一部がいて、後ろには二年B組が続く。横には、一年生らしい生徒の列があった。新しい制服の着方が、どこかまだ硬い。

その一年生たちの視線が、何度かA組へ向いた。

列は乱れない。

誰かが特別な動きをするわけでもない。

それでも、A組の前寄りに置かれた列そのものが、下級生から見られている。

視線は、榊原やエリカのあたりで一度止まる。紗良や澄礼にも、自然に寄る。

その中で、兵頭匡平のところでもう一度、わずかに引っかかった。

東都院の二年A組には、見栄えのする生徒が多い。制服の着方、髪の整え方、立ち方まで、遠目にもよく揃っている。その中で兵頭は背が低く、横幅があった。体格と輪郭が、どうしても違って見えた。


一年生の多くは内部から上がってきている。A組がただの一クラスではないことも、前方寄りに並ぶ意味も知っている。

だからこそ、兵頭がそこにいる理由までは、まだ理解できない。

湊は、ふと女子列の方を見た。

暦も同じものを見ていた。

暦は何も言わない。

それでも、同じものを見ていることだけは分かった。

講堂の扉が開いた。

東都院の講堂は、朝の光を受けても明るすぎない。高い天井、磨かれた床、整然と並ぶ椅子。壁際には校旗と式典用の花が置かれ、入学式の準備の名残が、まだ完全には片づいていなかった。

A組は前方寄りの席へ入る。

湊は、列の流れに合わせて通路を進んだ。足音が床に軽く響く。前に座る三年生の背中はもう揃っている。

三年生の列とは別に、壇上に近い前方の席がいくつか用意されていた。生徒会長と、評議会議長の席だろう。そこに御堂有紀也の姿があった。三年の列には混じらず、けれど壇上に立つわけでもない。

そこから後ろへ向かって、学年ごとの空気が変わっていく。

A組の席は、目立つほど最前列ではない。

それでも、後ろから見れば分かる位置だった。


榊原が通路側へ入り、男子列はそのまま席へ収まった。エリカも女子列の先頭として、前の列の動きに合わせて静かに席へ進む。

紗良も澄礼も、同じ手順で席に着いた。

特別な礼も、遅れも、目立つ動きもない。

それでいて、湊には二人が同じようには見えなかった。

同じ「令嬢」という言葉では、まとめきれない距離がある。

始業式は、予定通りに始まった。

学園長の挨拶、新年度の方針、各学年への短い言葉。

そのあと、生徒会長が壇上へ進んだ。

三年生の女子だった。新入生への言葉と、在校生へ向けた短い挨拶を、落ち着いた声で述べる。

御堂は席に残っていた。評議会議長として別枠に座っていても、今日ここで言葉を持つのは生徒会長だけだった。

講堂の前では、教師たちが必要なところだけ動き、生徒は静かに座っている。式そのものは、湊が想像していた以上に普通だった。


普通だからこそ、式の前に見たものが浮いて見える。

前の列では、榊原が背筋を崩さず座っている。女子側でも、紗良、エリカ、澄礼が同じように壇上へ顔を向けていた。

式が終わると、拍手が講堂の中で短く広がった。

式後、生徒たちは学年ごとに立ち上がった。椅子の音は揃っていた。前列が動くまで待ち、通路が空いてから歩き出す。その流れに、余計な声は混じらなかった。

講堂を出ても、列は崩れなかった。廊下に戻ったあとも、教室へ戻るまでは、誰も声を戻さない。

榊原は男子列の前を歩き、エリカは女子列の前を歩いている。紗良も澄礼も、列を崩さず同じ速度で歩いていた。

湊は、その後ろを歩いた。

新校舎へ戻る渡り廊下には、春の光が入っていた。冬の名残はまだ床にあるのに、外の木々は色を変え始めている。

新校舎の廊下へ戻ると、教室の入口が見えた。


教室へ入って、ようやく空気が緩んだ。

椅子を引く音と、抑えていた息が戻るような小さな声が重なる。

暦が、隣に来た。


「式、どうだった?」


湊が聞くと、暦は考えた。


「長い」

「それはそうだな」

「でも、見るところはあった」

「どこ?」


暦は黒板の方を見た。


「誰が先頭に立つか」


湊は、すぐには返事をしなかった。


「榊原と、九条院さん?」

「うん。それを誰も疑問に思わないこと」


湊は、黒板の方を見た。

始業式のための並びは、もう終わっている。けれど、榊原が男子の先頭に立ち、エリカが女子の先頭に立ったことは、ただの整列ではなかったのだと思う。


「式の話じゃないな」

「式の前の話」


暦は、そう答えた。

湊は小さく笑いかけて、途中でやめた。

始業式は終わった。

けれど、湊の中では、式が始まる前の並びだけがまだ残っていた。

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