二年A組
四月の朝は、三月よりも明るい。
それでも、駅へ向かう住宅街の道には、春になりきらない冷たさが残っていた。塀の内側から伸びた若い葉は柔らかく、昨夜の雨を受けた舗装には、ところどころ淡い光が乗っている。
湊はいつもの角で足を緩めた。
少し先で、影山暦が立っていた。
黒い髪はいつも通り、低い位置で一つに結ばれ、背中へまっすぐ落ちている。制服の襟も、鞄の持ち方も、特に変わったところはない。春休みが明けたからといって、暦が分かりやすく気分を変えることはなかった。
「おはよう」
湊が声をかけると、暦は視線だけを上げた。
「おはよう」
返事の間も、いつもと同じだった。
それだけで、湊の中にあった新学期の硬さがほどけた。クラス替えがある日でも、家を出て、角で暦と合流し、駅へ向かう流れは変わらない。
「早いな」
「今日は湊も早い」
「それは褒めてる?」
「事実」
暦はそう言って、先に歩き出した。
湊は横に並ぶ。二人の歩幅は、考えて合わせるほどのものではない。道の端を歩く位置、信号の前で止まる距離、駅へ向かう人の流れに入るタイミングまで、長い時間の中でだいたい決まっている。
駅に近づいても、同じ制服の生徒はほとんど見えない。
それでも電車を乗り継ぎ、東都院前駅に近づくにつれて、車内の空気は変わっていく。春休み明けの朝らしく、声はいつもより高い。久しぶりに会った友人へ手を振る生徒。前の学年の話をしているはずなのに、もう次のクラスの噂へ移っている生徒。
東都院前駅で降りると、その声の調子は変わった。
白藤坂通りへ出るころには、誰も騒いではいない。ただ、会話の量は多い。新学期という言葉が、道のあちこちに散っていた。
正門の守衛所では、警備員がいつもより丁寧に生徒証を確認していた。新年度初日だからだろう。生徒の列は途切れず、けれど乱れない。
湊は門をくぐる前に一度、新校舎の方を見た。
「掲示、教室前だっけ」
「去年はそうだった」
暦は短く答えた。
「今年も同じかな?」
「たぶん」
「珍しく曖昧だな」
「新年度には例外がある」
湊は小さく笑った。
新校舎へ向かう道にも、生徒の流れができていた。一年生の時に何度も通ったはずの道なのに、学年が変わるだけで違って見える。校舎の窓はよく磨かれ、入口脇の掲示板には新年度の連絡がまっすぐ貼られていた。
高等部二年の教室は、新校舎の上階にある。
階段を上がる途中から、廊下の空気が詰まった。生徒たちは誰からともなく歩幅を落としている。自分の名前がどこにあるのかを確かめる前の、短い緊張だった。
二年A組の教室前には、名簿が掲示されていた。
紙の前には、すでに数人が集まっている。男子と女子で固まっているわけではない。名前を見てすぐ教室に入る者もいれば、もう一度上から確認する者もいる。
湊は列の端から名簿を見た。
二年A組。
その下に、名前が整って並んでいた。
悠木湊。
少し下に、影山暦。
湊は思ったより素直に息を吐いた。
「同じだな」
「同じ」
暦は湊の確認より前に見つけていたのだろう。驚いた様子はない。
「よかった、でいいのか」
「湊はそう思っている」
「暦は?」
「移動先の説明が減る」
「それだけ?」
「大きい」
暦の答えは短かったが、湊にはそれが不満という意味ではないと分かった。
その横から、低い声がした。
「揃ったな」
兵頭匡平が、掲示板の反対側に立っていた。
相変わらず、制服の上からでは体格が少し丸く見える。けれど、鞄の持ち方や立ち位置に無駄がない。名簿を見終えたあとらしく、すでに教室の中の様子まで確認してきた顔だった。
「兵頭もA組か」
「らしい」
兵頭は名簿を顎で示した。
「お前と影山さんもな」
「見たところ、知ってる名前が多い」
湊が言うと、兵頭は眉を動かした。
「知ってる、で済めばいいけどな」
「どういう意味だ?」
「中に入れば分かる」
兵頭はそれ以上説明せず、教室の扉へ向かった。
湊は暦を見る。
暦は、名簿から視線を外していなかった。
「暦?」
「偏っている」
「何が?」
「顔ぶれ」
それだけ言うと、暦は教室へ入った。
湊も後に続いた。
二年A組の教室は、まだ完全には落ち着いていなかった。机は新しい席順に並べられているが、荷物を置いたまま立っている生徒が多い。黒板の横には、新年度連絡、始業式の流れ、委員・係決めは後日という掲示が並んでいた。
窓際では、藤代文香が掲示を読み終え、必要な箇所だけを覚えたように席を確認していた。
その近くで、牧瀬琴葉が別の女子と穏やかに話している。湊に気づくと、いつもの調子で会釈した。
「悠木さん、影山さん。おはようございます」
「おはよう、牧瀬さん」
「おはようございます」
暦の返事は、教室用の丁寧さに戻っていた。
牧瀬はその違いに踏み込まず、穏やかに微笑んだ。
「同じクラスですね。よろしくお願いします」
「こちらこそ」
教室の中央寄りでは、笹倉直純が男子数人と話していた。明るい声の中に、港湾や船便という単語が自然に混ざる。
兵頭がそちらへ顔を向けると、笹倉が片手を上げた。
「兵頭もこっちか」
「そうらしい」
「今年は退屈しなさそうだな」
「退屈しないのと、面倒が増えるのは別だ」
「そこは同じようなものじゃないか?」
「違う」
兵頭の答えに、笹倉は楽しそうに笑った。
その奥に、榊原叡志がいた。
彼は机に鞄を置き、近くに来た生徒へ一人ずつ穏やかに挨拶を返している。誰かが特別に彼を囲んでいるわけではない。それでも、声をかける順番や、視線の向きがいつの間にか榊原を中心に組まれていく。
「おはよう、悠木君。影山さん」
湊に気づいた榊原が、柔らかく声をかけた。
「おはよう、榊原」
「おはようございます」
「同じクラスになったね。よろしく」
榊原の言い方は、誰に対しても丁寧だった。近すぎず、遠すぎない。こちらが返事に困るほど改まってもいない。
「こちらこそ」
湊が答えると、榊原は小さく頷いた。
「今年は行事も多くなる。何かあれば、遠慮なく言って」
言葉だけなら普通の挨拶だった。
それでも湊は引っかかった。
何かあれば言ってほしい、というより、すでにこの教室が何かを動かす場所だと分かっているように聞こえたからだ。
教室の入口側で、女子の声が一段明るくなった。
御厨紗良が入ってきていた。
紗良は数人に声をかけられ、笑顔で応じながら、教室の中を見回した。誰に先に声をかけるかが、最初から決まっているような動きだった。
「おはようございます。皆さん、今年もよろしくお願いします」
全体へ向けた声は柔らかい。
次に、紗良は近くの女子へ少しだけ砕けた調子で言葉を返し、牧瀬と藤代にも声をかけた。藤代の返事は簡潔で、牧瀬がその間を柔らかく整える。
その一連の動きが、不思議と教室に馴染んだ。
湊は、春休み前の校内で見た式典準備を思い出した。紗良が何かを強く命じたわけではない。けれど、言葉の使い方ひとつで、次に誰が何を見ればいいかが分かることがある。
「湊」
暦が小さく呼んだ。
「何?」
「女子側が早い」
「何が」
「まとまり方」
湊は返事をしようとして、入口へ視線が集まったことに気づいた。
九条院エリカが入ってきた。
派手な動きはない。
淡い色の髪は控えめに留められ、制服の着方にも乱れがない。姿勢が良いせいか、扉をくぐっただけで、入口付近の生徒が当たり前のように場所を空けた。
「おはようございます」
エリカの声は明るく、硬くない。
それに応じる声が、教室のあちこちから返った。
「九条院さん、おはよう」
「同じクラスだね」
「よろしくお願いします」
誰も大げさにはしない。
それでも、湊には分かった。
ただ同じクラスになった相手へ挨拶しているだけではない。そこには、エリカがこの教室にいることを確認して、教室全体がそれを受け入れていくような流れがあった。
エリカは一人ずつ丁寧に返事をしながら、紗良の方へ歩いた。
「紗良さん、おはようございます」
「おはよう、エリカ。今年も忙しくなりそうね」
「そのようですね。まずは、今日の説明を聞いてからですけれど」
二人は親しげだった。
近すぎるわけではない。ほかの生徒の前で崩れすぎることもない。けれど、式典局で見た実務の距離とは違う柔らかさがあった。
エリカが湊たちに気づいた。
一瞬だけ、視線が止まる。
そのあと、いつものように礼をした。
「悠木さん、影山さん。おはようございます」
「おはよう、九条院さん」
「おはようございます」
「同じクラスになりましたね。今年もよろしくお願いします」
「こちらこそ」
湊はそう返しながら、言葉を選ぶ間を意識した。
ホワイトデーの返礼を渡した時の、柱の陰の短い会話が頭をよぎる。あれは、誰にも見せるためのものではなかった。今のエリカは、二年A組の入口で当たり前のように迎えられる令嬢として立っている。
どちらも同じ九条院エリカだった。
そのことが、湊にはまだうまく整理できない。
「悠木さん?」
エリカが不思議そうに目を細めた。
「いや、よろしく」
返事が少し遅れた。
エリカはそれを責めず、柔らかく微笑んでから席を確認しに向かった。
教室の後ろ側で、声が小さくなった。
湊がそちらを見ると、鷹司澄礼が窓際に立っていた。
黒髪は乱れなく背中に流れ、姿勢に無駄がない。誰かに挨拶を求めるでも、中心に立つでもない。ただ窓際にいて、教室の外の新緑を一度見たあと、自分の席を確認している。
それだけで、教室のざわめきがわずかに低くなった。
萎縮ではなかった。
むしろ、誰もが自分の襟元を直すような変化だった。
湊はその変化を見て、ようやく兵頭の言葉の意味に近いものを感じた。
中に入れば分かる。
たしかに、分かる。
けれど、それを何と言えばいいのかは、まだ分からなかった。
「鷹司さんもか」
湊が小さく言うと、暦が頷いた。
「A組」
「それは見れば分かる」
「見る必要がある」
暦の声は低かった。
「名前だけでは足りない」
湊はもう一度教室を見た。
榊原の周りでは、声をかける順番が決まっていた。
紗良が言葉を挟むと、女子の会話から尖ったところが消えた。
エリカが席へ向かうだけで、入口近くの視線が追った。
澄礼は何も言わないのに、周囲の姿勢だけがわずかに改まっている。
兵頭は、そのどれにも加わらず、入口近くから眺めていた。
知っている顔が多い。
最初は、そう思った。
でも、それだけではなかった。
一年の冬から春にかけて別々の場所で見た顔が、この教室に集められている。式典局、図書室、廊下、春休み前の校内。偶然見かけたはずの人たちが、新しい教室の中でそれぞれの場所を持っている。
湊だけが、それを少し遅れて見ている気がした。
黒板の横の掲示には、今日の流れが書かれていた。
始業式。
新年度説明。
担任挨拶。
配布物確認。
その横に、小さく二年A組三十二名とある。男子十六名、女子十六名。数字だけ見れば、ただの一クラスだった。
けれど、この教室は、数字の通りには見えない。
廊下の向こうから、教師の足音が近づいてきた。
それまでばらばらだった声が下がる。榊原が席に戻り、紗良が話を切り、エリカが鞄を机の横へ置く。澄礼は窓際から静かに席へ向かった。
兵頭が湊の横を通り過ぎる時、小さく言った。
「……筆頭組、ってやつだな」
「そういう呼び方なのか?」
「正式じゃない。けど、だいたい通じる」
兵頭は自分の席へ向かった。
湊は、その言葉を頭の中で繰り返した。
筆頭組。
露骨な言い方ではない。けれど、軽い冗談にも聞こえなかった。
担任が教室へ入ってきた。
扉が閉まる音がして、二年A組の朝は、ようやく始まった。
湊は席に着きながら、もう一度だけ教室を見た。
同じクラスになった。
その言葉で済ませるには、この教室の空気は、少し整いすぎていた。




