春休み前に
春休み前の校内は、静かになるどころか、普段より人の動きが多かった。
学年末考査が終わり、授業の進度も一段落している。教室では、教科書を閉じたまま話している生徒が増え、廊下の声も少し軽くなっていた。
けれど、新校舎の一階に降りると、その軽さはすぐに薄くなる。
掲示板の前には、卒業式の予行と入学式準備の係分担が並んでいた。
椅子の搬入、式次第、室名札、来賓受付、講堂周辺の通行制限。
どれも年度末の学校らしい言葉だった。
湊は、掲示板の前で足を止めた。
「見るところが多いな」
隣で兵頭匡平が言った。
兵頭は、貼られた紙を順に見ている。成績やクラス替えの噂を読む時の目ではなかった。人が止まる場所と、時間ごとの動きを拾う時の目だった。
「卒業式と入学式があるからな」
「それだけじゃなさそうだ」
「違うのか?」
兵頭は返事の代わりに、掲示の端を指で示した。
そこには、講堂控室確認と書かれた一覧があった。上の欄は卒業式、次の欄は入学式。その下に、少し小さな字で、旧講堂周辺確認とだけある。
「旧講堂も見るのか」
「卒業式で使う話は聞いてない」
兵頭は、それ以上は言わなかった。
断定するほどの材料はない。けれど、気づいたものをなかったことにはしない。そういう沈黙だった。
湊は掲示の文字をもう一度見た。
旧講堂周辺確認。
春休み前の校内で、それは別に不自然な言葉ではない。古い施設の点検かもしれない。入学式に向けた控室の予備確認かもしれない。
ただ、卒業式と入学式の紙の中に混ざっていると、別の用件が同じ紙面に紛れているように見えた。
「悠木くん、兵頭くん」
新校舎の廊下の奥から、式典局の生徒が声をかけてきた。 以前、式典局の作業場所で資料を運んだ時に見た顔だった。親しい呼び方ではなく、何度か手伝った生徒を、必要な場所へ回す時の声だった。
「手が空いていたら、講堂前までお願いできますか。悠木くんはこのファイルを杉浦先生へ。兵頭くんは、講堂前の椅子と通り道を一度見てほしいんです。卒業式準備の分です」
「分かりました」
湊は差し出された薄いファイルを受け取った。
湊も兵頭も、正式な係ではない。 生徒会に所属しているわけでも、式典局の一員でもない。 それでも、何度か手伝っているうちに、こうして声をかけられることが増えていた。
東都院では、役職がすべてを決める。 そう思っていた時期もある。 けれど実際には、役職の外側にも、頼まれたことを返す生徒はいる。そういう生徒の名前は、次の時にも思い出される。それが良いことなのかは、湊にはまだ分からなかった。
兵頭は、講堂の方へ視線を向けた。
「椅子と通り道か」
「講堂前だけで済むのか?」
湊が聞くと、兵頭は掲示板の端を一度見た。
「卒業式の分なら講堂前だろうな。旧講堂周辺は、少なくとも別の用件だ」
兵頭の声は、いつも通りだった。
地味な確認を嫌がる様子はない。むしろ、そういうところを見るために呼ばれたのだと分かっている声だった。
湊は頷いた。
二人で歩き出すと、新校舎の廊下は普段より狭く感じた。
壁際には、折りたたみ椅子が重ねられている。掲示用の板が立てかけられ、床には養生用の布が巻かれたまま置かれていた。
数枚の紙を抱えた教師が通り過ぎる。その後ろを、生徒会の腕章をつけた上級生が追いかけていった。
廊下の角に置かれた椅子の束を見て、兵頭が足を止めた。
「ここは詰まるな」
「後で講堂へ運ぶ分じゃないか?」
「それならいいが。いや、それでも今ここにあると人が止まる」
兵頭は近くの式典局生徒に位置だけ伝え、すぐに歩き出した。
そういう小さな引っかかりを、兵頭は流さない。
講堂前に着くと、空気はさらに変わった。
講堂の扉は開け放たれ、内側では教師と上級生が舞台の位置を見ていた。壇上に置かれる机、演台、国旗、校旗、花台。椅子の列はまだ途中で、床には白いテープが短く貼られている。
卒業式の準備だった。
それは、見れば分かる。
大きな行事の前にだけ出る、低い声のやり取りがあった。
騒ぐ声はない。笑い声も遠い。けれど、静かというよりは、声の高さが揃えられている。
兵頭は講堂前の椅子と通り道を見るため、扉の脇へ向かった。
湊はファイルを持ったまま、杉浦先生を探した。
「杉浦先生。式典局からです」
「ありがとう。悠木くんだったね」
「はい」
教師は表紙を確認し、近くの机に置いた。
その机には、すでにいくつかの資料が重なっていた。卒業式、入学式、来賓受付、控室配置。
その一番下に、春季晩餐会という文字が見えた。
見えただけだった。
教師はすぐに別の資料を上へ重ねた。
「卒業式準備の資料ですね。確かに受け取りましたと、式典局へ伝えてください」
「分かりました」
湊は返事をした。
卒業式の準備。
その言葉で片づけられるなら、片づくのだろう。
卒業式と入学式の準備が、今の校内の中心にある。それは間違いない。
それでも、一番下に見えた文字は、頭の片隅に残った。
湊が机から離れると、兵頭は講堂前の椅子の列を見ていた。
声をかけるほどの距離ではない。湊はそのまま、旧校舎側へ向かう渡り廊下に目を移した。
そこには、普段とは違う人がいた。
作業着に近い上着を着た大人が二人、施設課の職員と話している。手には細長いケースと、巻かれた図面のようなものを持っていた。
業者だろう。
東都院では、行事前に外部の大人が入ることは珍しくない。照明、音響、装花、備品、清掃。表に出る場所ほど、裏側の手が増える。
暦が、その先に立っていた。
湊は足を止めた。
「暦」
暦は振り返った。 手には小さな紙束がある。係として立っているわけではない。けれど、教師から何かを預かった生徒の立ち方だった。
「何してるんだ?」
「確認」
「何の?」
暦は紙束を見下ろした。
「春休み前の通行制限。講堂周辺と旧校舎側」
「もう風紀委員みたいだな」
「まだ違う」
暦は短く否定した。
その言い方があまりにいつも通りで、湊は笑いそうになった。
少し遅れて、兵頭が講堂前から戻ってきた。
兵頭は暦の紙束を見て、旧校舎側の欄に目を止めた。
「旧講堂も入ってるのか」
暦は頷いた。
二人の反応を見て、湊には、さっき掲示板で見た違和感が形を持つのが分かった。
「春季晩餐会の分も、ここで見てるのか?」
湊が聞くと、暦はすぐには答えなかった。
視線が、渡り廊下の先へ向く。
業者風の大人の一人が、施設課の職員に案内されて旧校舎側へ入っていくところだった。
「混ざっている」
暦は、それだけ言った。
「変か?」
「変とは言えない」
「言えない?」
「卒業式と入学式の準備で、人が増える。業者も増える。だから、他の行事の確認も同時にするのは合理的」
暦はそこで一度言葉を切った。
「ただ、普段見ない人がいる」
湊は、渡り廊下の向こうを見た。
制服の生徒、教師、施設課の職員、外部の大人。
どれも、行事前ならあり得る。
あり得るからこそ、一つずつは目立たない。
「覚えておく感じか」
「うん」
暦は紙束の端を揃えた。
「今は、それだけ」
兵頭が小さく息を吐いた。
「俺は講堂前を見たら、控室表示も確認する。悠木は戻るなら式典局に受け取り済みを伝えろ」
「分かった」
「影山さん、その紙、後で見せてくれ。旧校舎側で人が詰まりそうな場所が分かるなら、椅子と表示の置き方を決めやすい」
「分かりました」
暦は頷いた。
兵頭は、そのまま確認を続けるつもりらしい。湊は一人で新校舎側へ戻ることにした。
廊下の途中で、九条院エリカと御厨紗良が歩いてくるのが見えた。
二人とも、手に資料を持っている。 紗良は薄いファイルを胸の前に抱え、エリカは数枚の紙を揃えながら歩いていた。淡い灰みを含んだブロンドの髪は、いつも通り控えめに留められている。
ただ、湊は、エリカの歩く速度が普段よりもわずかに遅いことに気づいた。
疲れている、と言葉にすると大げさになる。
顔色が悪いわけではない。教師へ会釈する所作も、いつもと同じように整っていた。
だから、余計に分かりにくい。
「悠木さん」
先に気づいたのはエリカだった。
「九条院さん。御厨さん」
湊は軽く頭を下げた。
紗良が柔らかく微笑む。
「講堂前からの戻りですか」
「はい。資料を届けてきました。受け取り済みを式典局へ伝えに戻るところです」
「そうでしたか。年度末は、そういう往復も多くなりますね」
紗良の言い方は軽い。
けれど、冗談だけではなかった。
エリカは湊が来た方へ視線を移した。
「講堂前は、もう椅子を並べ始めていましたか?」
「はい。兵頭が見ています。椅子以外も確認してましたが」
「兵頭さんが」
エリカは短く繰り返した。
その声には、納得に近いものがあった。
「兵頭さんは、そういうところに気づかれますものね」
「本人は、見える場所にあるからって言ってました」
紗良が小さく笑った。
「らしいわね」
エリカも微かに笑った。
ただ、その笑みはすぐに落ち着いた形へ戻る。
「九条院さんも、講堂の方ですか」
湊が聞くと、エリカは一度、持っていた紙を見た。
「卒業式と入学式の接遇補助です。来賓の方が通られる場所と、控室表示を確認していました」
そこで、ほんの半拍だけ間が空いた。
「それから、春の行事に向けて、先に見ておく場所も少し」
春の行事。
春季晩餐会とは言わなかった。
言わない方が自然な場所だったのかもしれない。
紗良もその言い方を直さなかった。
「年度末は、名前の違う確認が増えるの。卒業式、入学式、春の会場確認。きれいに分けすぎても、今度は動きにくくなりますから」
「大変ですね」
湊がそう言うと、エリカはすぐに首を横に振った。
「慣れていますから」
言ってから、言葉を選び直すように視線を下げた。
「いえ、慣れている、というより、必要なことです」
その言い直しが、湊の中に残った。
必要なこと。
東都院では、その言葉がよく使われる。
誰かが無理をしている時にも、誰かが手順を守っている時にも、同じように使われる。
「無理してませんか」
口に出してから、踏み込みすぎたかもしれないと思った。
紗良の視線が、湊へ向いた。
咎めるほどではない。けれど、今の言葉がどこまで届くかを測るような視線だった。
エリカは驚かなかった。
ただ、手元の紙を持ち直した。
「ありがとうございます。大丈夫です」
返事は整っていた。
湊は、それ以上聞かなかった。
エリカは講堂の方へ視線を戻した。
「兵頭さんは、まだ講堂前にいらっしゃいますか」
「たぶん。椅子と通り道を見ていましたから」
「では、後ほど私から確認します。西側控室の表示も見ていただきたいので」
エリカの声は、また式典補佐のものに戻っていた。
エリカは丁寧に礼をした。
その礼は、疲れている人のものではなかった。
けれど、疲れていない人のものとも少し違った。
湊は、二人と別れて歩き出した。
新校舎の廊下に戻ると、掲示板の前の人だかりは減っていた。
紙が一枚、貼り替えられている。卒業式の予行時間が赤い線で直され、入学式準備の係分担に小さな付箋が増えていた。
その下に、控室確認の一覧が残っている。
旧講堂周辺確認。
西側控室前。
春の会場確認。
文字だけなら、何も起きていない。
廊下も、講堂も、渡り廊下も、春休み前の学校らしい顔に戻っていく。
生徒は帰り支度を始める。
教師は資料を抱えて職員室へ戻る。
業者風の大人は施設課の職員に案内され、旧校舎の扉の向こうへ消える。
式典局の生徒が、講堂前の椅子を一列ずつ直していく。
そのすべては、年度末の準備として片づけられた。
不自然だと決めつける材料は、何もない。
だからこそ、湊は何も言えなかった。
春休み前の校内は、いつものように片づいていく。
言葉にできるほど、はっきりしていない。
見過ごすには、残りすぎる。
湊は、掲示板の前を離れた。
新校舎の窓から見える空は、冬より少し明るい。
春休みは、もう近い。
その明るさの下で、東都院は静かに次の配置へ移っていく。




