返礼の渡し方
ホワイトデー当日の一限前、1年B組の教室は、いつもより声が低かった。
騒がしいわけではない。むしろ、二月のバレンタインの時よりも、表向きは落ち着いていた。けれど、鞄を開ける手つきや、廊下へ出るタイミングが、普段とは違う。
湊は、自分の鞄の中を一度だけ確認した。
薄い袋の包みが一つと、小さな箱が一つある。
袋は牧瀬琴葉へ渡すものだった。暦が牧瀬へ渡す分と同じ袋に包んである。箱は、九条院エリカへ渡す分だ。
「確認、三回目」
隣の席で、暦が言った。
湊は鞄の口を閉じた。
「二回だろ」
「朝、家を出る前。駅。今」
「朝の分は、暦が見ろって言ったからだろ」
「見たのは湊」
暦は、机の横にかけた鞄へ視線を落とした。彼女の分は、きちんと別に収まっているはずだった。牧瀬へ渡す袋は湊の分と同じで、色も大きさも、必要以上に目立たない。
「牧瀬さんには朝に渡すのか?」
「混む前」
「分かった」
「湊も同じ時でいい」
「ああ」
教室の前方で、牧瀬琴葉が席についた。編み込みの入ったショートボブが、朝の光を受けて濃い茶色に見える。彼女は鞄から薄い手帳を出し、何かを確認してから、机の端に置いた。
暦は立ち上がった。
湊も、それに続いた。
暦は迷わず牧瀬の席の横で止まった。声は大きくない。周囲の会話に紛れる高さだった。
「牧瀬さん」
牧瀬が顔を上げる。
「影山さん。おはよう」
「この前のお返しです」
暦は、無地の小さな袋を差し出した。
牧瀬は暦の手元を見てから、両手で袋を受け取った。
「ありがとう。覚えていてくれたんですね」
「覚えています」
「影山さんらしいです」
牧瀬は小さく笑った。声は柔らかいが、弾ませすぎない。
暦は返す言葉を少し探したようだったが、結局、何も足さなかった。
湊は、持っていた同じ袋を差し出した。
「俺からも。この前、教室でくれたから」
「悠木くんまで。ありがとう」
牧瀬は同じように、丁寧に受け取った。袋をその場で開けることはせず、手帳の横に一度置いてから、鞄の内側の平らなところへしまった。
その仕草は自然だった。
「二人で同じものを?」
牧瀬が尋ねた。
「袋も中身も同じです」
暦が答える。
「そう。じゃあ、あとでいただきますね」
「今日中の方がいいと思います」
「うん。そうする」
牧瀬は、暦に言葉を足させようとはしなかった。
湊は、その距離の取り方をありがたいと思った。暦の言葉は、足りないように聞こえる時がある。だが牧瀬は、その足りないところを悪く受け取ったりはしない。
返したことで、かえって牧瀬に気を遣わせていなければいい。
そう思ったが、口には出さなかった。ここで言えば、牧瀬は大丈夫だと答えるしかなくなる。
牧瀬は二つの袋を鞄へ収め、手帳を閉じた。暦はそれを見届けてから、自分の席へ戻る。湊も続いた。
教室の中で、いくつかの小さな袋が移動していた。誰も大きな声を出さない。誰もからかわない。だが、見ていないふりをする人ほど、目の動きがわずかに早い。
暦は席に座ると、机の上に教科書を出した。
「牧瀬さんは、受け取るときも落ち着いていた」
「そうだな」
湊は鞄の中に残った、九条院エリカへの箱を思い出した。
こちらは、牧瀬の時とは違う。
その違いを、湊はまだうまく言葉にできなかった。
その日の放課後、新校舎の廊下には、春休み前の落ち着かなさがあった。
部活動へ向かう生徒、職員室へ提出物を持っていく生徒、委員会の連絡で足を止める生徒。年度末の校内は、授業が終わっても静かになりきらない。
湊は鞄の中の箱を確認しないようにしながら、廊下を歩いた。
確認すれば、余計に意識しているような気がした。
九条院エリカに返礼を渡す。
それ自体は、特別なことではないはずだった。二月に式典局の作業場所で菓子を受け取った。だから返す。湊にとっては、それだけの話だ。
ただ、九条院という名前は、教室で出るだけで空気を変える。
式典局の作業場所へ入り込んで呼び出すのも違う気がした。
湊は、廊下の途中で一度足を緩めた。
新校舎のこのあたりは、授業の移動や委員会の連絡で人が通る。だが、階段前ほど足は止まらない。掲示板の前ほど視線も集まらない。職員室へ向かう廊下のように、教師が続けて通る場所でもなかった。
曲がり角の内側は、柱の陰になる。人目につきにくいが、そこへ相手を呼び込めば、かえって隠しているように見える。反対側の窓際は明るいが、正面から来る生徒の視線を受けやすい。
話し声が響く壁と、足音が消える角。柱の陰や、人が見ていないつもりでも目につく場所。
だから湊は、新校舎の廊下の角で足を止めた。
式典局の作業場所へ出入りする生徒が通るが、足を止めて話し込むほど広くはない。完全に人目から外れるわけでもない。渡すなら、作業の切れ目に短く済ませられる。
曲がり角の向こうから、数人の生徒が歩いてきた。
その中に、エリカがいた。
淡い灰みを含んだブロンドの髪は、控えめに後ろで留められている。制服の着方に乱れはなく、手には資料を挟んだ薄いファイルを持っていた。隣には御厨紗良がいる。もう一人、式典局の生徒らしい女子が、資料の束を抱えていた。
エリカは湊に気づくと、足を止める前に表情を整えた。
笑みを作ったというより、相手が声をかけやすい表情に整えたように見えた。
「悠木さん」
「九条院さん。少しいいですか」
「はい」
エリカは隣の紗良へ視線を向けた。
紗良は、手元の資料を抱え直す。
「先に置いておきますね」
茶化す調子ではなかった。エリカの友人としてではなく、作業中の同級生として、場を空ける言い方だった。
「ありがとう、紗良さん」
エリカがそう返すと、紗良は軽く頷いて、もう一人の生徒と廊下の先へ進んだ。
完全に二人きりではない。
廊下には人がいる。遠くで扉の開く音がし、階段の方から足音も近づいてくる。そのくらいの場所の方が、かえって目立たない。
湊は鞄から小さな箱を出した。
「この前のお返しです」
言ってから、少し簡単すぎたかと思った。
だが、飾った言葉を足す方が不自然だった。
エリカは箱を見て、それから湊を見た。
一瞬だけ、受け取る手が遅れた。
それは迷いではなかった。廊下で、誰から、何を、どう受け取るかを整えるための間だった。
「ありがとうございます。いただいてもよろしいのですか」
「はい。二月にいただいたので」
「覚えていてくださったのですね」
「もらったものなので」
湊がそう言うと、エリカの瞳が和らいだ。
彼女は箱を両手で受け取った。大きく喜ぶわけではない。声を上げるわけでもない。ただ、箱の角を潰さないように持つ指先が丁寧だった。
エリカは箱の蓋元を見た。薄紙の端から、焼き菓子の色がわずかに見える。
「手作り、ですか」
「分かりますか」
「ええ。包み方が、とても丁寧ですから」
「家で作ったものなので。口に合うかは分かりませんけど」
「とてもきれいです」
「包む時に、形のいいものを選びました」
「ご自宅で作られたのですね」
確認するような声だった。
「はい。今年は返礼用も兼ねて」
湊は、そこで言葉を止めた。
誰と作ったかまで、ここで言う必要はないと思った。
エリカは箱を両手で持ち直した。
「ご自宅で作られたものを、分けてくださったのですね」
その言い方に、湊はすぐ返せなかった。
ただの菓子だ、と言えば簡単だった。
フィナンシェは昨日の夜、悠木家の台所で焼いたものだ。
焼き色を見て、袋と箱に分けた。余った分は、母が家用に分けた。特別な材料を使ったわけでも、格式のある店に頼んだわけでもない。
けれど、エリカはそこに、菓子以外のものを見たらしい。
「そこまでのものじゃないです」
湊は言った。
「でも、軽く扱うものではありません」
エリカの返事は静かだった。
廊下を通りかかった生徒が、二人を見て、すぐに視線を戻した。九条院エリカが誰かと話している。それだけで、本来なら目に留まる。けれど、エリカの立ち方が落ち着いているせいか、周囲の足は止まらなかった。
相手を巻き込まない受け取り方。
湊は、そう思った。
「ありがとうございます、悠木さん」
エリカは、控えめに礼をした。
深すぎない。廊下で同級生に向けるにはちょうどよく、それでいて受け取ったものを軽く扱わない角度だった。
「こちらこそ。この前はありがとうございました」
「式典局のものは、皆さんにお渡ししただけです」
「それでも、もらったので」
湊が言うと、エリカは一拍置いてから微笑んだ。
「悠木さんは、受け取ったことを曖昧にしないのですね」
「どうでしょう。忘れることもあります」
「そうは見えません」
「よく言われます」
エリカは笑いすぎないように、口元だけで受け止めた。
その反応が、普通の同級生に近く見えた。
廊下の先から、紗良がこちらを見た。急かす様子ではない。ただ、作業に戻る時間を知らせるような視線だった。
エリカもそれに気づいた。
「すみません。戻らないと」
「はい。作業中にすみません」
「いいえ。きちんと受け取りました」
きちんと、という言葉が、妙に残った。
エリカは箱をファイルの上に置かず、鞄の内側へ丁寧に収めた。それからもう一度、湊へ軽く礼をする。
「あとで、いただきます」
「はい」
湊は、それ以上言葉を足さなかった。
エリカも、話を引き延ばさなかった。
二人は同じ廊下に立っていたが、それぞれ戻る場所が違った。
エリカは式典局の作業場所へ向かい、湊は1年B組の教室へ戻るために反対側へ歩き出した。
曲がり角を過ぎる前に、湊は一度だけ振り返りそうになった。
振り返らなかった。
大きなことではない。
もらったものを返した。ただ、それだけだ。
そう思うことにして、湊は階段へ向かった。
放課後の教室に戻ると、暦は自分の席で本を開いていた。
湊が近づくと、顔を上げる。
「渡した?」
「渡した」
「受け取った?」
「受け取ってくれた」
暦は頁に指を挟んだまま、湊を見た。
「場所は?」
「新校舎の廊下。式典局の作業場所の近く」
「人は?」
「いた。けど、止まるほどじゃない」
「九条院さんは?」
「普通に、丁寧に受け取ってくれた」
湊がそう言うと、暦は少しだけ目を伏せた。
普通に。
丁寧に。
その二つが同じ意味ではないことを、暦はたぶん分かっている。
「手作りって、気づかれた」
「見れば分かる」
「そうか?」
「分かる人には分かる」
暦は本を閉じた。
「誰が作ったか、聞かれた?」
「家で作ったって言った。誰と作ったかまでは言ってない」
「そう」
責める声ではなかった。
暦は、ただ情報を置いたように頷いた。
「何か問題あったか?」
「ない」
「ならいいけど」
「九条院さんなら、受け取り方を間違えないと思う」
湊は、朝の牧瀬のことを思い出した。
「牧瀬さんも、落ち着いていた」
「見たから分かる」
「九条院さんは?」
「今の話なら、間違えていない」
「どう違う?」
暦はすぐには答えなかった。
窓の外では、校庭の端を歩く生徒たちが、春休み前の予定を話している。教室にはまだ数人が残っていて、誰かが机の中を片づける音がした。
「牧瀬さんは、渡されたものをそのまま収める」
「うん」
「九条院さんは、大きくなりそうなものを、その場に収める」
湊は、その違いを考えた。
分かるような気もした。
牧瀬は、教室の中の返礼を、そのまま受け取った。エリカは、九条院エリカが受け取ることで目立ちかねないものを、廊下の短いやり取りに収めた。
「東都院っぽいな」
「そう」
暦は本を鞄へしまった。
「湊は、その差に後で気づく」
「今、気づいた」
「今は後」
「厳しいな」
暦は答えなかった。
代わりに、湊の鞄を見た。
もう、返礼の袋も箱も残っていない。
昨日の夜、悠木家の台所で分けた菓子は、それぞれの宛先へ移った。牧瀬の鞄に、エリカの鞄に、そして家へ持ち帰る分として、影山家と悠木家に。
牧瀬には暦と揃えた袋で渡した。エリカには箱に入れて渡した。同じ焼き型で作ったものなのに、手元を離れた後の見え方は変わっていた。
湊は、それを面倒だと思った。
同時に、ぞんざいに済ませなくてよかったとも思った。
「帰る?」
湊が聞くと、暦は頷いた。
「帰る」
「図書室は?」
「今日はない」
「珍しいな」
「返礼の日だから、予定を入れていない」
「そこまで決めてたのか」
「決めていた」
暦は鞄を持った。
それ以上は説明しなかった。
湊も聞き返さなかった。
教室を出る時、廊下の向こうに式典局へ向かう生徒の姿が見えた。春休み前の校内は、まだ終わりきっていない。卒業式、入学式、その先にある春の行事。いくつもの準備が、同じ廊下を通っている。
湊と暦は、その流れを避けるように歩き出した。
暦は、隣で何も言わなかった。
ただ、今日のことを忘れるつもりはなさそうだった。




