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東都院物語  作者: 橘鉄真
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悠木家の菓子作り

三月の午後は、冬ほど冷たく張りつめていなかった。

台所の窓から入る光も、白く冷えたものではなく、薄く広がって、流し台の縁や作業台の上に静かに乗っている。湊は戸棚からボウルを出し、粉ふるいと泡立て器を並べた。

悠木家の台所は、日々の生活が見える場所だった。

戸棚の取っ手には小さな傷があり、計量カップの目盛りは何度も使われて曇っている。冷蔵庫の横には、母が買い足すものを書いたメモが貼られていた。

そこに暦がいることも、特別なことではなかった。


「卵白、足りる」


暦は冷蔵庫の前で、保存容器の数を確認していた。制服ではなく、淡い色のカーディガンを着ている。東都院で見る時より、肩の力が抜けていた。


「足りなかったら買いに行く」

「足りる。余る」

「余るならいいだろ」

「作りすぎるのも、よくない」


暦はそう言って、容器を作業台に置いた。

湊はエプロンの紐を結びながら、軽く息を吐いた。


「日持ちはするんだし、食べたらいいんじゃないか」

「数は守る」

「はいはい」


暦は返事をしなかった。代わりに、手元のメモを見た。そこには、椿子が朝のうちに書いてくれた材料の量と、暦が追加したらしい小さな数字が並んでいる。

二月に影山家で作った時とは、違っていた。

あの日は、バレンタインの後だった。例年より順番が後になり、暦が東都院での様子を見てからにしたいと言った。作ったものは、影山家と悠木家で食べる分だった。季節の菓子として、両家で分ける。それで足りていた。

今日は、返礼用だった。

同じフィナンシェでも、持つ意味が違う。


「牧瀬さんの分は?」


湊が聞くと、暦はメモの端を指で押さえた。


「私から一つ。湊から一つ」

「分けておいた方がいいな」

「数は同じでいい」


暦の答えは短かった。そこに迷いはない。

牧瀬琴葉からもらった菓子は、高級すぎるものではなかった。教室で渡されたそれは、控えめで丁寧なものだった。暦がそれをきちんと覚えていることは、驚くことではない。


「牧瀬さんなら、教室で渡しても目立たないように受け取ってくれそうだな」

「受け取る。だから渡しやすい」

「それは分かる」

「包みは揃える」

「差をつけない方がいいか」

「つける理由がない」


湊は笑った。


「そこは合理的だな」

「返礼は、相手が困らないことも含む」

「東都院っぽい」

「東都院でなくてもそう」


言われてみれば、その通りだった。

高価すぎれば相手に負担をかける。軽すぎれば、もらったものを軽く扱ったように見える。

東都院では、そこに家名や席の位置まで重なる。それでも、もともとの礼儀が消えるわけではない。

湊は計量器の表示を見ながら、砂糖をボウルに入れた。

その時、居間の方から足音がした。


「二人とも、始めた?」


椿子が台所をのぞいた。袖を軽くまくり、手には畳んだ布巾を持っている。


「今から」

「暦ちゃん、今日もよろしくね」

「こちらこそ、お邪魔しています」


暦の声は、湊と話す時より整った。無理をしているほどではない。椿子に対しては、いつもこのくらいの距離を保つ。


「お邪魔なんて、いまさらね。湊より材料の場所に詳しいでしょう」

「砂糖は左の棚、薄力粉は下の棚ですね」

「ほら」


椿子が笑う。

湊は不服そうに戸棚を見た。


「俺も分かってる」

「分かっているなら、先に出せるわね」

「はい」


椿子は布巾を作業台の端に置いた。


「お父さんは夕方まで戻らないけれど、帰ったらきっと食べるから、家の分も少し多めにね」

「父さんの分も確保しておく」

「お願いね。影山のおうちの分も、いつも通りでいいのよね」

「はい」


暦が頷いた。

椿子は、それ以上踏み込まなかった。誰に渡すのかを細かく聞くことも、二人で作ることを茶化すこともしない。ただ、今年は数が増えるのだと受け止めて、必要な場所を空けてくれる。

そういう距離が、悠木家にはあった。


「包み紙は居間に出しておいたわ。足りなかったら、下の引き出しに予備があるから」

「ありがとう、母さん」

「焦がさないようにね」

「前よりは大丈夫」


湊が言うと、暦が横から口を挟んだ。


「前よりは」

「そこは繰り返さなくていい」


椿子は小さく笑って、台所を出ていった。

残ったのは、粉とバターの匂いが混ざる前の静けさだった。

湊は鍋にバターを入れ、火を弱くした。暦は型を並べる。ひとつひとつの間隔が揃っている。湊がやると、たぶん曲がる。それを暦は直す。昔からそうだった。


「家の分」


暦が言う。


「悠木家、影山家」

「うん」

「牧瀬さん」

「うん」


暦の指が、メモの下へ動いた。


「九条院さん」


その名前だけ、台所の空気から離れて聞こえた。

湊は鍋の中を見たまま、すぐには返事をしなかった。バターが溶けて、底の方から小さな泡が出始めている。

九条院エリカ。

式典局の作業場所で、湊と兵頭に菓子をくれた少女。渡し方に無理がなく、受け取る側に余計な緊張を残さなかった人。

返礼するのは、自然なことだった。

それでも、牧瀬への返礼と同じようには、湊の中で片づかなかった。


「九条院さんの分は、俺からだな」

「そう。湊がもらったものだから」

「うん」


暦は顔を上げなかった。型の向きを揃えながら、淡々と続ける。


「私は、数を間違えないようにする」


それだけだった。

湊は、鍋を火から下ろした。

暦がエリカに対して何を思っているのか、湊には全部は分からない。分からないまま、勝手に言葉にするのも違う気がした。

暦はいつも、必要なものを先に数える。

忘れないため。足りなくならないため。余計な乱れを作らないため。

その中に、九条院エリカの名前が入った。

ただそれだけのことなのに、湊は手元を見る時間が長くなった。


「箱、別にする?」


暦が聞いた。


「別にした方がいいと思う」

「理由」

「九条院さんに渡すなら、鞄の中で崩れないようにしたい」

「牧瀬さんも崩れない方がいい」

「それはそう」

「差は?」


暦の問いは責めるものではなかった。ただ、分類のために必要な情報を求めている。

湊は考えた。


「牧瀬さんには、教室で渡せると思う。九条院さんは、たぶん式典局の方で渡すことになる。持ち歩く時間が長い」

「それなら箱」

「うん」

「理由として足りる」


湊は、そこでようやく笑った。


「審査みたいだな」

「湊が変に迷うから」

「迷ってるように見える?」

「見える」


暦は、すぐに答えた。

湊は反論しかけて、やめた。実際、迷っていた。

九条院エリカに渡す返礼を、どの程度きちんとすればいいのか。

手作りで重く見えないか。店で買ったものだけでは、距離を置きすぎたように見えないか。

東都院では、何でもないものが何でもなく済まないことがある。湊には、その加減がまだ分からなかった。


「家で作ったものって言えばいいか」

「言いすぎない」

「どこまで?」

「この前のお返し。家で作ったものだから、口に合えば。くらい」

「暦、渡し方まで決めてるのか」

「そのほうがいい」


暦は卵白をボウルに入れた。湊が混ぜ、暦が粉を加える。会話はそこで途切れ、泡立て器がボウルの底をなぞる音だけが残った。

料理の手順は、もう二人とも覚えている。

昔は椿子や理沙が横に立ち、火の扱いと分量だけを何度も確認した。今は、間違えそうなところだけ声をかければ済む。焦がしすぎない。混ぜすぎない。型に入れすぎない。フルーツは水気をよく取り、長めに焼きあげる。

それでも、二人で作ること自体は変わらなかった。

湊が雑に置いたへらを、暦が無言で向きを直す。

暦が型の端についた生地を拭き取る。

湊がオーブンを開ける。

熱が台所に広がる。

そういう手順の間に、学校で考えていたことは遠ざかった。

ただ、完全には消えない。

焼き上がったフィナンシェを冷ましている間、居間の卓上に包み紙と箱を並べた。椿子が用意してくれたものは、派手ではない。薄い紙と細いリボン、透明な袋、小さなシール。家で食べる分は密閉容器に入れればいい。

返礼用だけ、形を整える。


「悠木家」


暦が言った。

湊は容器にフィナンシェを入れた。


「影山家」


別の容器に分ける。


「牧瀬さん」


袋を二つ作る。

数も包みも、揃える。

リボンの長さまで、暦はきちんと見ていた。


「私から。湊から」

「間違えないように、印つける?」

「つける」


暦は小さな付箋を二枚取り、片方に自分の字で「影山」、もう片方に「悠木」と書いた。


「苗字だけだと、提出物みたいだな」

「間違えない」

「まぁ、そうだな」


湊は、箱を一つ手に取った。

残ったフィナンシェの中から、形のいいものを選ぶ。選んでいる自分に気づいて、手が止まった。

別に、特別な意味を込めたいわけではない。

割れていないもの。焼き色がきれいなもの。持ち歩いても崩れにくそうなもの。返礼として渡すなら、そのくらいは普通のことだ。

そう思うのに、手はすぐに動かなかった。


「それ」


暦が言った。

湊は顔を上げた。


「何?」

「九条院さん」

「まだ何も言ってないだろ」

「選び方が違う」


湊は、手元のフィナンシェを見た。

確かに、時間をかけていた。


「変か?」

「変ではない」

「ならいいな」


暦はそれ以上言わなかった。

湊は箱の底に薄紙を敷き、フィナンシェを入れた。隙間を埋めるように紙を軽く寄せ、蓋を閉じる。リボンは暦が結んだ。きつすぎず、ほどけにくい。

最後に、小さな袋へ入れる。

箱が一つ、卓上の端に置かれた。

それは、悠木家の分でも、影山家の分でもない。牧瀬への返礼とも違う。


「明日、持っていく」


湊が言うと、暦は頷いた。


「鞄の底に入れない」

「分かってる」

「弓道の道具と一緒にしない」

「さすがにしない」

「教室に置きっぱなしにしない」

「俺、そんなに信用ないか」

「湊は覚えていても、置く場所までは決めない」


湊は否定できなかった。

暦は、九条院さん、と書かなかった。

ただ、箱の横に何も貼らずに置いた。牧瀬の分には付箋がある。家の分は容器が違う。箱は一つだけで、間違えようがない。

それでも暦は、一度だけその箱を見た。

長い視線ではない。

確認のための視線だった。

湊はそれを見て、箱を自分の鞄に入れた。教科書とは別の、上の方に置く。鞄の口を閉じる前に、もう一度だけ中を確かめた。

暦は何も言わなかった。

居間の外から、椿子の声が聞こえた。


「お茶入れる?」

「入れる」


湊が答えると、暦も小さく頷いた。

台所には、焼き菓子の匂いがまだ残っている。

いつもの行事だった。

ただ、今年はその中に、いつもとは違う宛先が一つ混ざっていた。

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