総合評価
廊下を歩く生徒たちは、考査が終わった後の軽さをまとっていた。
鞄を肩にかけ直す音。友人を呼ぶ声。帰りにどこへ寄るかを相談する声。いつもの東都院より、普通の学校に近く見えた。
その中で、教師の動きだけが違っていた。
職員室へ向かう廊下の角で、湊は足を緩めた。
扉は閉じている。けれど、出入りする教師の数がいつもより多い。抱えられているのは、答案用紙だけではなかった。薄いファイル、出席簿らしい冊子、委員会名の入った封筒、部活動報告の綴じられた紙束。
考査が終わったから忙しい。
それだけなら、湊にも分かる。
けれど、答案だけを返すための忙しさとは違って見えた。
「見る?」
隣で暦が言った。
「何を」
「職員室」
湊は職員室の入口近くに貼られた連絡紙を見た。
考査後の個別確認は急ぎのものを除き、教室掲示と配布物で確認するように、と書かれている。中では、教師が職員用の掲示板の前で何かを確認し、別の教師がファイルを抱えて奥へ戻っていくところだった。
「やめておこう。今、聞きに行く空気じゃない」
「そう」
暦はそれ以上、踏み込まなかった。湊も、足を止めきることはしなかった。
ただ、すれ違った教師の一人が、湊たちに気づいて短く会釈を返した。その目が、ほんの一瞬だけ、暦の方へ移る。
湊はそれに気づいた。
暦も気づいているはずだった。けれど、顔には出さない。いつも通り、廊下の端を歩いているだけに見える。
職員室の隣にある小会議室の扉が開いた。
中から、低い声が漏れた。
「一年は、学力資料だけでは判断しません。提出遅れ、委員会、行事補助、対外場面での反応まで含めてください」
別の教師が答える。
「生活態度に大きな問題はなし。ただ、役職候補に回すかは、担任所見も確認したいところです」
湊は、聞いてはいけないものを聞いた気がして、目を前に戻した。
暦は歩調を変えない。
会議室の扉は、すぐに閉じた。
湊が聞いたのは、そこまでだった。
音が途切れる。
けれど、言葉だけは廊下に薄く残った。
学力資料だけでは判断しない。
さっき掲示板で見た「希望者と指名者」という文字が、別の意味を持って戻ってくる。
湊は、その広がりをまだうまく掴めなかった。
閉じた扉の向こうでは、長机の上に数枚の資料が並んでいた。
一年生の名簿。
成績一覧。
提出物記録。
委員会と部活動の報告。
行事補助に関する短い所見。
そこに、成績の順位だけで生徒を並べる空気はなかった。
「九条院さんは、式典補佐と接遇で評価されています。成績も落としていません」
「負担は見てください。春の準備にも入っています」
資料が一枚、横へ送られる。
「影山さんは、図書委員の記録が正確です。風紀委員会からも名前が上がっています」
「本人の負担は?」
「大きくは見えません。場の変化にはよく気づきます」
次の資料が開かれる。
「兵頭くんは、行事補助でよく動いていますね」
「現場で詰まりそうなところへ先に回る。式典局からも、臨時補助としては信頼できます」
その言い方には、褒めすぎない慎重さがあった。けれど、低く見る声でもなかった。
最後に、別の資料が開かれる。
「悠木くんは、役職欄だけでは目立ちません」
湊の名前は、淡々と読み上げられた。
「ですが、頼んだことを乱さず返してきます。上位の生徒と同じ場所に置いても、悪目立ちしません」
「式典局周辺で何度か臨時に関わっていますね」
「ええ。前に出す必要はありません。ただ、任せた範囲を乱しません」
その言葉の後、誰かが名簿に小さく印をつけた。
決定ではない。
内定でもない。
けれど、紙の上では、すでにいくつかの名前が同じ場所へ寄せられ始めていた。
廊下では、湊が窓の外を見ていた。
中庭の木々は、まだ冬の色を残している。枝の先だけが、ほんのわずかに明るい。春が来ると言うには早く、冬のままだと言うには違う。
「今の、聞こえた?」
湊が小さく尋ねると、暦は前を向いたまま答えた。
「一部」
「聞いていい話じゃないよな」
「扉が開いていた。こちらから近づいていない」
「理屈はそうだけど」
「だから、話さない」
暦の答えは短かった。
聞いたことを使わない。暦なりの線引きなのだろうと、湊は思った。
「でも、何か分かった?」
「点数だけではない」
「行事補助の指名のことか?」
「違う」
暦は一度だけ、職員室の方を見た。
「点数以外も、残されている」
湊はすぐに返事をしなかった。
提出物を誰が遅らせたか。
委員会で誰が動いたか。
行事の場で、誰が何を見ていたか。
それらは紙に残り、別の紙と重ねられる。
東都院では、人はいつの間にか見られている。
それは監視というほど露骨ではない。むしろ、丁寧で、静かで、整っている。
だから余計に、湊には扱いにくかった。
「暦は、嫌じゃないのか」
「何が」
「見られてる感じ」
暦はすぐには答えなかった。
「見られない方が困ることもある」
「そういうものかな?」
「正しく見られるなら」
その答えは、暦らしかった。
湊は、正しく見られる、という言葉を頭の中で繰り返した。
誰かを正しく見ること。
誰かに正しく見られること。
東都院は、それを制度として持っているのかもしれない。けれど、制度が正しくても、そこに置かれる人間が楽になるとは限らない。
廊下の向こうから、兵頭が歩いてきた。
片手に鞄を持ち、もう片方の手で折り畳まれたプリントを掴んでいる。
「お前ら、まだいたのか」
「職員室の前を通っただけ」
湊が答えると、兵頭は一度だけ職員室の方を見た。
「今日は近づかない方がいいぞ」
「忙しいから?」
「それもあるが、見る目が普段と違う。確認は配布物で済ませろと言われた」
「兵頭もそう思うのか」
「考査明けだからな。点を返して終わりじゃない」
兵頭はそれだけ言って、折り畳まれたプリントを鞄にしまった。
暦の視線が、そのプリントへ移る。
「指名者も載っていますか」
「ああ。今出ている分だけだが、影山さんの名前はない。悠木もない」
「分かりました」
それで、職員室へ来た用件はひとまず片づいたらしかった。暦はそれ以上、扉の方を見なかった。
「それ、春季行事の連絡か?」
湊が尋ねると、兵頭は肩をすくめた。
「卒業式と入学式が先だ。春季晩餐会は、その後に来る面倒なやつ」
「面倒なんだ」
「面倒じゃない行事は、だいたい誰かが先に面倒を片づけてる」
兵頭の言葉は乱暴ではなかった。ただ、きれいな行事の裏にある手間を、当たり前のものとして見ている響きがあった。
暦が短く頷く。
「人が足りませんね」
「分かっているなら、影山さんも手伝ってもらえると回しやすい」
「指名があれば、手伝います」
「そういうところは、徹底しているな」
兵頭は呆れたように言ったが、本気で責めている声ではなかった。
三人で廊下を歩き出す。
職員室の前から離れるにつれて、声はまた軽くなった。春休みの予定を話す生徒、答案の出来を笑い合う生徒、部活の片づけへ向かう生徒。そこにあるのは、考査が終わった後の普通の放課後だった。
けれど、湊にはもう、完全に同じ景色には見えなかった。
教室へ戻る途中、掲示板の前にはまだ何人かの生徒が残っていた。掲示を見上げる者。隣の友人に何かを確認する者。興味がないふりをして、下段だけを目で追う者。
誰も、大きな声では言わない。
それでも、次の一年に向けて、紙の上では名前が動き始めている。
湊は、その動き方をまだ知らない。
知らないまま、廊下を歩いている。
そのことだけが、掲示板の前にいた時よりも、はっきりしていた。




