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東都院物語  作者: 橘鉄真
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23/61

考査明けの教室

「そこまで。筆記用具を置いて解答を終了してください」


教師の言葉を受けて、生徒が一斉に手を止めた。後ろから順番に回された答案用紙が回収されたあと、教室の空気は遅れて緩んだ。

誰かが大きく息を吐いた。別の誰かが机に額を伏せ、隣の席から「終わった」と小さな声が上がる。窓際では、筆箱を閉じる音がいくつも重なっていた。

学年末考査の最終日だった。

三月の光は、冬の名残をまだ机の端に残している。窓の外の中庭には、剪定された枝が細く伸び、そこに新しい芽がつくには、まだ時間がいるように見えた。

湊はシャープペンシルを筆箱に戻した。

解放感がないわけではない。けれど、胸の底から軽くなるほどではなかった。考査が終わっても、考査の結果が消えるわけではないからだ。


「数学、最後の大問まで行けた?」


前の方の席で男子が聞いた。


「行っただけ。解けたとは言ってない」

「俺、途中式で力尽きた」

「途中式があるならまだいいだろ」


笑いが起きた。考査中には許されなかった声量が戻ってくる。教師がまだ教卓の前にいるので、騒ぎすぎる者はいない。それでも、いつもの東都院の教室よりは、机の上も声も少し緩んでいた。

答案用紙を封筒に入れていた教師は、その笑いを咎めなかった。


「採点は順次行います。返却日は掲示を確認すること。春休みに入る前に、必要な課題や面談がある者には個別に連絡します」


その一言で、笑いの輪郭が薄くなった。

春休み。

その言葉だけなら、もっと明るく受け取られていいはずだった。けれど、春休みの前にはいくつか決まるものがある。進級そのものから、委員会や部活動の扱いまで。

教師は封筒の口を閉じ、出席簿を脇に抱えた。


「浮かれるなとは言いません。学年が変わる前に、必要なものは各自で確認しておくように」


それだけ言って、教室を出ていった。

扉が閉まった瞬間、教室の声は一段上がった。


「終わった!」

「春休みまであと少しだな」

「まだ答案返却あるだろ」

「それを言うな」


湊は鞄を机の横から引き寄せた。筆箱をしまう手は、周囲より遅れた。考査が終わった直後の教室は、誰もが自分の点数だけを気にしているようで、実際にはそうでもない。


「悠木はどうだった?」


斜め前の男子が振り返った。


「普通かな」

「普通って言えるのが羨ましい」

「採点されるまでは分からない」

「出た。教師みたいな返事」


湊は小さく笑った。

学年上位にいることは、自分でも分かっている。授業についていけないと思ったことはないし、考査で大きく落とした記憶もない。ただ、東都院の上には上がいる。全教科で隙のない生徒もいれば、論述で教師を黙らせるような答案を書く生徒もいる。

湊は自分がその一番上にいるとは思っていなかった。


「影山さんは?」


別の女子の声がした。

暦は机の上に置いた試験範囲表を折り畳んでいた。余白には、考査後に提出する課題と返却予定日が小さく書き込まれている。


「大きく外してはいないと思います」

「影山さん、試験終わった直後にもう提出物の確認してるんだ」

「残っていると、あとで確認が増えますから」

「その発想がもう普通と違うんだって」


暦は返事をしなかった。否定するほどのことではない、と判断したのだろう。

湊はその横顔を見た。

考査が終わっても、暦の手元はあまり乱れない。試験範囲表、筆記具、返却予定のプリント、図書委員の確認メモ。それらは机の上に一度広げられ、順番を確かめられてから鞄に入っていく。

点数を誇るためではない。終わったものと、まだ残っているものを分けているだけだった。


「図書委員って、年度末も何かあるの?」


湊が聞くと、暦は視線を手元に落としたまま答えた。


「蔵書点検の補助。返却遅れの確認。新年度貸出設定の確認。私は担当分だけ」

「考査明けの頭で聞く話じゃなかった」

「聞いたのは湊」

「そうだった」


暦は最後の一枚を鞄に入れた。


「提出物は?」

「俺?」

「湊」

「残ってないと思う」

「思う、は弱い」

「残ってない」

「ならいい」


その短いやり取りで、湊の中の余計な緊張がほどけた。暦はいつも通りだった。教室の空気が浮ついても、暦の確認は変わらない。その変わらなさで、湊は少しだけ息をつけた。

後ろの方では、別の話題が始まっていた。


「来年、A組どうなるんだろうな」

「その話をいまする?」

「いや、考査終わったらそこだろ」

「A組って、成績順だけじゃないんだっけ」

「だけじゃないらしい。委員会とか行事とか、教師の評価とか」

「じゃあ俺は無理じゃん」

「諦めるの早すぎるだろ」


笑いが起きたが、今度はどこか硬かった。

湊は鞄の留め具を閉じる手を止めた。

A組。

その言葉が、この時期だけ少し違う響きになる。

一年のA組は、筆頭組ではある。成績のよい生徒が多く、教師から何かを任される場面も多い。けれど、そこだけに有望な生徒が集められているわけではなかった。C組にもD組にも、名前を聞いただけで周囲の声が変わる生徒はいる。

来年度のA組は、それとは違う。

一年間を見たうえで決定される二年のクラス替え。皆が気にしているのは、その中でもA組の内容だった。湊にも、二年A組だけが別の重さで語られていることは分かった。


「C組の九条院さんは行くんじゃない?」


女子の一人が声を落として言った。


「それは行くだろ。式典の時も目立ってたし」

「C組なら藤代さんも成績すごいって聞いた」

「特待の人でしょ。論述も強いっていう」

「でも、A組って成績だけじゃないなら、余計に分からなくない?」


九条院。

その名前だけで、教室の雰囲気が変わる。本人がここにいるわけではない。それでも、あの令嬢の姿を思い出すには十分だった。

湊は、式典局の作業場所で受け取った小さな菓子のことを思い出した。

あれは、ただ配られただけのものだった。そう言ってしまえばそれまでだ。けれど、東都院では、ただ配るだけのことにも、受け取る側の立場や、返す時の距離感がついてくる。

考査の話から、来年度のクラスへ。クラスの話から、委員会や式典へ。教室の会話はあちこちへ移るようで、結局、同じ場所へ戻っていく。

誰が、どこに置かれるか。


「兵頭は?」


三崎悠真が呼ぶと、兵頭匡平は椅子にもたれたまま顔を上げた。


「何が」

「来年。A組とか」

「知らん」

「気にならないの?」

「俺が決めることじゃない」


兵頭はそう言ってから、黒板の横に貼られた掲示に目を向けた。


「それより、来週の掲示、増えるぞ」

「何の?」

「卒業式と入学式の準備がある。年度末は行事が重なるから、人を振り分けるだろ」

「考査明けに考えるところ、そこなんだ」

「試験の点数はもう変えられない。準備と計画ならこれからだ」


兵頭の言い方に、何人かが笑った。

湊もつられて笑いかけて、途中で止まった。

兵頭は冗談のように言っただけかもしれない。けれど、その視線はすでに考査から離れていた。春休み前の掲示、式典の準備、誰がどこへ呼ばれるか。人の流れと手の足りなさを、点数より先に見ている。


「兵頭、式典局行くの?」

「正式に所属してるわけじゃない。手伝いの依頼が来たら行く」

「またそれか」

「またそれだ」


兵頭は、面倒そうにしながらも否定しなかった。

東都院では、正式な役職だけで人が動くわけではない。

頼まれた時に返せるか。手が足りない場所へ入れるか。乱れそうなところを、先に押さえられるか。

そういうものも、無関係ではないのだろう。

湊はそう思ってから、自分の考えに引っかかった。

考査後の教室にある何でもない会話まで、どこかで見られているような気がした。

もちろん、教室の天井に視線があるわけではない。教師が一人ひとりの言葉を記録しているわけでもない。

それでも、一年間の癖のようなものは、どこかに残る。

期限を守るか。頼まれた時に返せるか。人の多い場所で、余計な乱れを作らないか。

点数は紙に出る。

紙に出ないものも、消えるわけではない。


「湊」


暦が呼んだ。


「何?」

「掲示、見てから帰る」

「今日?」

「考査返却日と委員会予定。あと、個別連絡の出方」

「個別連絡?」

「課題、補習、面談。対象があるなら掲示か担任経由」

「俺たちに関係ある?」

「可能性は低い」

「低いならいいだろ」

「低いことと、確認しなくていいことは違う」


暦は当然のように言った。

湊は返事をする前に、黒板横の掲示を見た。兵頭が見ていたものと同じ紙だ。考査の終わりを告げる紙ではなく、その先に残るものを並べた紙。


「そうだな。見ていこう」

「湊は、見落とす」

「そこまでじゃない」

「たまに」

「たまに、なら否定できない」


暦はそれ以上言わなかった。

教室では、まだ点数の話が続いていた。英語の長文、数学の最後の大問、古典の記述、資料読み取りの設問。明るい声と、沈んだ声が混ざっている。

その中に、来年度の話が何度も挟まる。

誰がA組へ行くのか。誰が委員会に残るのか。誰が表に出るのか。誰が裏に回るのか。

湊は椅子を引いた。

考査は終わった。

その事実だけなら、教室はもっと軽くなってよかったはずだった。けれど、東都院の三月は、終わったものの上に次の判断が重なる。

廊下へ出ると、ほかのクラスからも声が流れてきた。

廊下の共用掲示板の前に、A組やC組の生徒が何人か立ち止まっていた。声の大きさも、紙を見る距離も、それぞれ少しずつ違う。

湊はその差を言葉にしなかった。

言葉にするほど大きな違いではない。けれど、来年度の話が出ると、どの教室にも次の配置を待つ空気があるように思えた。

暦は掲示板の前で足を止めた。


「返却は三日後。委員会予定は放課後。図書委員は別紙」

「本当に読むの早いな」

「必要なところだけ」

「俺には全部同じ紙に見える」

「それは困る」

「困るってほどじゃないだろ」


暦は掲示の下段に目を移した。


「春季行事補助、希望者と指名者。詳細は担任から」

「希望するのか?」

「違う。指名があるか見る。帰る前に、担任から連絡が出ていないか確認する」

「また確認か」

「指名があれば、まだ終わっていない」


その言葉に、湊はもう一度掲示を見た。

卒業式、入学式、春季晩餐会準備。

すぐ先の行事と、まだ先の準備が、同じ紙面に並んでいた。


「兵頭の言ってた通りだな」


湊が言うと、暦は短く頷いた。


「人手が必要」

「そこまで分かる?」

「行事が重なる。場所も違う。人は足りない」


暦の言い方は淡々としていた。その淡々とした言葉の中に、湊は別のものも聞いた気がした。

暦もまた、点数だけを見ているわけではない。

暦は、そういうずれを見落とさない。

人の動きも、紙の場所も、予定の変化も、騒がずに拾う。

湊はそこまで考えてから口を閉じた。

それをそのまま言うと、暦をどこかへ押し出す言葉になりそうだった。

湊は掲示板から視線を外した。

廊下の向こうでは、考査を終えた生徒たちが、いつもより早い足取りで階段へ向かっている。笑い声もある。軽さもある。春休みを待つ空気も確かにある。

それでも、完全には軽くならない。

考査は終わった。

けれど、評価はまだ終わっていない。

湊はそのことを、掲示板の前でようやく受け取った。

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