始業式の放課後
ホームルームの終わった教室は、同じ二年A組でも、朝とは別の場所のように見えた。
始業式の日は、授業がない。新しい机と名簿を確かめ、講堂で式を終え、教室に戻ってホームルームを受ければ、その日の予定はひとまず終わる。
ただし、全員がそのまま帰るわけではなかった。
委員会、生徒会、式典局、評議会に関わる生徒は、午後に会議が入る。正式な活動というより、新年度の顔合わせと連絡事項の確認に近い。式典局に関しては、入学式と卒業式が終わった以上、話題の中心は春季晩餐会へ移り始めていた。それでも、残る生徒と帰る生徒の差は、この時点ではっきり分かれ始めていた。
朝は、誰もが新しい机と名簿の位置を確かめていた。始業式の前は、並び方と見られ方に注意が向いていた。ホームルームでは、柏木の声と榊原の進行に教室全体が揃えられていた。
それが終わると、椅子の音、鞄の金具、プリントを折る音が一度に戻ってくる。午前中で帰る生徒は鞄を閉じ、残る生徒は配布物を机の上に残した。
湊は机の上に残った確認票を見た。提出期限、委員会、部活動、春季晩餐会補助。必要なことだけが並んでいる。けれど、放課後の教室で動き始めるものは、そこにはまだ書かれていなかった。
暦は、紙をしまわず、端を揃えて机の上に置いたまま、周囲を見ていた。
榊原叡志は、自分の席に戻ったばかりだった。戻ったことで周囲が動きやすくなったように見えた。近くの男子が二人、記入欄について声をかける。榊原は立ち上がらず、相手の紙面へ指先を添え、穏やかに欄を示した。
「部活動欄は、正式所属だけでいいよ。臨時協力を希望するならは備考に書いてくれたらいい」
「春季晩餐会で補助に回りたいんだけど」
「今日の時点で分かる範囲まで書いてくれ。あとで変更が出たら、柏木先生に申し出ればいいから」
声は大きくない。教室の前へ立っていた時より距離が近く、返事も早い。質問した生徒はそれ以上言い直さずに済み、近くで聞いていた生徒も自分の紙へ視線を戻した。榊原は、一人ずつ答えながら、教室全体の滞りも減らしていた。
前方では、御厨紗良が配布物をまとめたまま、九条院エリカの机の横に立っていた。
午前で終わる教室の中で、二人は帰る準備ではなく、残るための準備をしている。
「エリカ、このあと式典局へ寄るでしょう?」
「ええ。書類の確認だけ、先に済ませておきます」
「なら、私も生徒会室の方へ回ります。執行部の確認と、式典局から上がる分を合わせておいた方が早いわ」
「ありがとう」
エリカは小さく礼をした。友人相手ではあるが、教室の中で崩しすぎない返しだった。紗良はそれを受けて、小さく笑う。
「お礼を言うのは、終わってからでいいわ。始業式の日から、もう紙が増えているもの」
「本当に。去年より、早い気がします」
「去年より、見られる場面が増えたのよ」
紗良の声は明るかった。明るいのに、言っていることは軽くない。
湊は、そこに引っかかった。
見られる場面。
エリカは、それを聞いても困った顔をしなかった。微笑を崩さず、配布物の角をもう一度揃える。指先が迷わないのは、慣れているからだろう。慣れていることと、軽いことは違う。
「悠木さん」
名前を呼ばれて、湊は顔を上げた。
エリカが、こちらへ顔を向けていた。机の間を隔てた距離で、周囲の視線を越えない程度の声だった。
「このあと、残られますか」
「まだ分かりません。呼ばれたら、というくらいです」
「そうですか。では、その時はこちらにも分かるようにしておきます」
「ありがとうございます」
エリカは小さく頷いた。
「こちらこそ。式典局でもお見かけしていますから」
兵頭と一緒に動いた時のこと。
湊は一瞬だけ、講堂周辺の廊下や、控室表示を確かめた日のことを思い出した。去年の春に迷いかけた一度きりの出来事ではない。頼まれた範囲を確認し、兵頭の横で働いたことが、何度かあった。
それだけだった。
それ以上は続かない。エリカはすぐに紗良へ向き直り、紗良も別の配布物を差し出した。短いやり取りだったのに、近くの席の何人かが、何気ない顔でこちらを見ていた。
湊は今さらのように、自分の手元へ視線を戻した。
兵頭と一緒に動いていたことを、エリカは覚えている。
それ自体は不思議ではない。むしろ、エリカなら気づいていてもおかしくない。人の名前、作業場所、来賓の流れ、誰がどの範囲を手伝ったか。そういうものを、彼女はきちんと扱う。
それでも湊には、落ち着かなかった。
エリカは湊を、その側へ入れたわけではない。ただ、いるかもしれない人員として、頭に置いただけだ。
そのことは分かる。けれど、榊原のように説明し、エリカのように整え、紗良のように流れを作る側は、まだ少し遠く見えた。
「覚えていた」
暦が言った。
湊は横を見る。
「何を?」
「兵頭君と動いていたこと」
「まあ、九条院さんなら覚えてるだろ」
「そう」
暦は、それで終わらせた。続きを言わない時の暦は、たいてい何かを記憶している。
教室の後方で、兵頭匡平が椅子にもたれたまま、配布物をめくっていた。鞄にはまだしまっていない。手元の紙を一枚ずつ重ね、式典局の欄で指が止まる。
兵頭も、午前で帰る側ではなかった。式典局員はこのあと、新校舎側で短い確認があるらしい。
笹倉直純が、その横から覗き込んだ。
湊は、名前だけは知っていた。
笹倉直純。新興海運財閥の御曹司で、今年から同じA組になった生徒。これまでクラスは違い、廊下や式典準備の場で見かけたことはあっても、話したことはほとんどない。
兵頭の方は、そうではないらしい。
笹倉は遠慮なく兵頭の配布物を覗き、兵頭もそれを咎めなかった。二人の間には、前から続いている親しさがあった。
兵頭が、配布物から目を離さないまま言った。
「笹倉」
「何だ」
「悠木。前に話しただろ。会場周りを何度か手伝わせた」
急に名前を出され、湊は少しだけ姿勢を正した。
「悠木湊です」
「笹倉直純。名前くらいは知ってる」
笹倉は軽く片手を上げた。
「兵頭が、外から見られるやつが一人いると回しやすいって言ってた。君のことだな」
「便利に使われてるだけじゃないかな」
「それを分かってるなら、ひとまず大丈夫だな」
笹倉は笑った。兵頭は否定しなかった。
そのまま笹倉は、兵頭の手元へ視線を落とした。
「兵頭、まだ見てるのか」
「会場準備の人数を見てる」
「何の」
「会場準備に必要な数だ」
笹倉は軽く笑った。
「始業式の日から、そこまで見るんだな」
「午後の確認で話が出る。始業式の日だから、人数だけは見ておく」
兵頭は顔を上げずに答えた。
「春季晩餐会は、会場の準備が多い」
「それ、今から考えるんだな」
「今日のうちに、誰がどこをやるかは見ておく」
その言い方に、湊は笑いそうになった。兵頭らしい、と思ったからだ。華やかさや家名より、作業量と人の配置を先に考える。
笹倉は肩をすくめる。
「会計局の確認も、早めに来るな」
「予算か」
「備品と臨時費。まだ正式じゃないけどね。行事が重なると、どこから出すかで揉める」
「揉めるのか」
「揉める前に、先に数字を決めておくのさ」
笹倉の声は軽い。軽いのに、内容は妙に現実的だった。
湊は、笹倉の言葉を受け止める。以前なら、新興海運財閥の御曹司という肩書きを聞いても、漠然とした印象しか残らなかった。今は、それだけでは見えないものがある。
兵頭は現場を見る。笹倉は金の流れを読む。
どちらも、表舞台には立たないかもしれない。けれど、いなければ行事は動かない。
「悠木」
改めて、兵頭が呼んだ。
「何?」
「前に手伝った時、どの範囲まで見た」
「講堂の周辺と、控室のあたり。あとは、言われたところだけ」
「じゃあ、今度も似た場所を頼まれるだろうな」
「俺、正式な担当じゃないけど」
「だから見える場所もある」
笹倉が、そこで眉を上げた。
「兵頭、それは使う側の言い分だぞ」
「だから、頼まれたら断っていい」
「断っていいのか」
湊が言うと、兵頭はようやく顔を上げた。
「断る理由があるならな」
その答えは、真面目だった。堅苦しくはない。湊を役割に押し込むつもりもない。ただ、手伝うなら自分で決めろと言っているように聞こえた。
湊は備考欄へ目を落とした。
書けることはある。けれど、そこに書いたからといって、正式な担当になるわけではない。
兵頭に呼ばれれば手伝う。今の自分の位置は、そのくらいだった。
その時、教室のざわめきが一段だけ静かになった。
誰かが大きな声を出したわけではない。廊下側の扉の近くで、何人かが自然に道を空けただけだ。
鷹司澄礼が立ち上がっていた。
長く教室に残るつもりはないらしい。机の上はすでに片づいていて、鞄も手元にある。近くの生徒が軽く礼をする。澄礼はそれに、ほんの少し顎を引いて応じた。
「榊原さん」
澄礼が呼ぶと、榊原はすぐに立ち上がった。
「はい」
「配布物確認は、後日で構いませんか」
「はい。急ぎの提出ではありません。確認用紙だけ、期限までにお願いいたします」
「分かりました」
それだけだった。
澄礼は、誰かと長く話すことなく教室を出ていく。扉の閉まる音も、特別大きくはなかった。
湊は、澄礼がいた席の周辺へ目を向けた。
空いた席が目立つ、というほどではない。そこに人がいなくなった後も、周囲の姿勢だけが残っている。椅子を引く音が小さくなり、話し声が一度抑えられた。その後、また放課後の音が戻る。
「すごいな」
湊が小さく言うと、暦がこちらを見た。
「何が」
「出ていくだけで、空気が変わる」
「席で分かる」
「席?」
「誰の近くに誰がいるか。立った時に先に動く人。声をかけられる人と、待つ人」
暦は、教室全体へ視線を置いていた。
「名簿より、そっちの方が早い」
湊はすぐには返事をしなかった。
朝、自分の名前を見つけた時は、二年A組になったのだと思った。始業式では、A組が筆頭組として並ぶことを見た。ホームルームでは、役職と委員会が一つずつ決まっていった。
放課後になると、それらは紙の上の項目ではなく、人の動きとして見えてくる。
榊原の周りには、迷った生徒が集まる。
紗良はエリカの横に立ち、兵頭は配布物の向こうに作業量を読んでいる。
藤代と牧瀬は、同じ箇所を見ながら別の言葉を探していた。
澄礼が去った後も、周囲の姿勢だけが残っている。
そして暦は、その全部を見ていた。
湊は自分の席に座ったまま、教室の並びをもう一度確かめた。机の間隔は同じだ。椅子も同じ。黒板も、窓も、配布物も、普通の教室にあるものばかりだった。
それなのに、その並び方ひとつで、意味が変わる。
「湊」
暦が呼んだ。
「今日は帰る?」
「ああ、そうだな」
「部活は?」
「今日はない。始業式の日だから。暦は?」
「風紀委員の会議がある」
「そうだった」
言われてから、湊は思い出した。図書委員も午後に残るが、暦はもう風紀委員としてその側にいる。
湊は確認用紙を鞄にしまった。まだ提出しない。備考欄は空いたままだった。その空白の方が、今の自分にはしっくりきた。
教室の前では、榊原が最後の質問に答えている。紗良とエリカは配布物を持って、午後の確認へ向かう準備をしていた。兵頭は、紙を鞄にしまう前に、もう一度だけ式典局の欄を確かめた。
湊と暦が席を立つと、牧瀬がこちらに気づいて、小さく手を振った。
「また明日」
「また明日」
湊が返すと、暦も一拍遅れて軽く頷いた。
廊下へ出ると、新校舎の窓から春の明るさが差していた。午前で帰る生徒の声と、午後の確認へ向かう生徒の足音が重なっている。湊は帰る側で、暦は残る側だった。兵頭から声がかかれば別だが、今日はまだ、湊の名前はどの確認にも入っていない。けれど、二年A組の教室から出た後では、その差もただの予定の違いには見えなかった。
「席で分かるって、さっきの」
湊は、階段へ向かいながら言った。
「全部分かるわけじゃないだろ」
「全部は分からない」
暦は隣を歩く。歩幅はいつも通りだった。
「でも、見ないと分からない」
「兵頭みたいなことを言うな」
「兵頭君は、作業を見る。私が見るのは人の反応」
「俺は?」
暦は少し考えた。
「遅れて気づく」
湊は苦笑した。
「ひどくないか」
「間違ってない」
「まあ、否定しにくいけど」
廊下の先で、エリカと紗良が生徒会室の方へ曲がっていく。午後の確認へ向かう人の流れに、二人は自然に入っていた。エリカは一度だけ、こちらに気づいて会釈をした。湊も軽く頭を下げる。
暦は、その横顔を見ていた。
「風紀委員は?」
湊が聞くと、暦は視線を戻した。
「新校舎の会議室。先に場所を確認する」
「じゃあ、そこまで行く」
「帰らないの?」
「途中までなら同じ方向だろ」
暦は否定しなかった。
二人は階段へ向かった。
背後の教室では、まだ椅子の音と話し声が続いていた。二年A組は、新しいクラスというだけではない。今日初めて集まったように見えて、すでにそれぞれが立つ位置を取り、まだ名簿にない役割を読み始めていた。




