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東都院物語  作者: 橘鉄真
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31/61

始業式の放課後

ホームルームの終わった教室は、同じ二年A組でも、朝とは別の場所のように見えた。

始業式の日は、授業がない。新しい机と名簿を確かめ、講堂で式を終え、教室に戻ってホームルームを受ければ、その日の予定はひとまず終わる。

ただし、全員がそのまま帰るわけではなかった。

委員会、生徒会、式典局、評議会に関わる生徒は、午後に会議が入る。正式な活動というより、新年度の顔合わせと連絡事項の確認に近い。式典局に関しては、入学式と卒業式が終わった以上、話題の中心は春季晩餐会へ移り始めていた。それでも、残る生徒と帰る生徒の差は、この時点ではっきり分かれ始めていた。

朝は、誰もが新しい机と名簿の位置を確かめていた。始業式の前は、並び方と見られ方に注意が向いていた。ホームルームでは、柏木の声と榊原の進行に教室全体が揃えられていた。

それが終わると、椅子の音、鞄の金具、プリントを折る音が一度に戻ってくる。午前中で帰る生徒は鞄を閉じ、残る生徒は配布物を机の上に残した。

湊は机の上に残った確認票を見た。提出期限、委員会、部活動、春季晩餐会補助。必要なことだけが並んでいる。けれど、放課後の教室で動き始めるものは、そこにはまだ書かれていなかった。

暦は、紙をしまわず、端を揃えて机の上に置いたまま、周囲を見ていた。

榊原叡志は、自分の席に戻ったばかりだった。戻ったことで周囲が動きやすくなったように見えた。近くの男子が二人、記入欄について声をかける。榊原は立ち上がらず、相手の紙面へ指先を添え、穏やかに欄を示した。


「部活動欄は、正式所属だけでいいよ。臨時協力を希望するならは備考に書いてくれたらいい」

「春季晩餐会で補助に回りたいんだけど」

「今日の時点で分かる範囲まで書いてくれ。あとで変更が出たら、柏木先生に申し出ればいいから」


声は大きくない。教室の前へ立っていた時より距離が近く、返事も早い。質問した生徒はそれ以上言い直さずに済み、近くで聞いていた生徒も自分の紙へ視線を戻した。榊原は、一人ずつ答えながら、教室全体の滞りも減らしていた。

前方では、御厨紗良が配布物をまとめたまま、九条院エリカの机の横に立っていた。

午前で終わる教室の中で、二人は帰る準備ではなく、残るための準備をしている。


「エリカ、このあと式典局へ寄るでしょう?」

「ええ。書類の確認だけ、先に済ませておきます」

「なら、私も生徒会室の方へ回ります。執行部の確認と、式典局から上がる分を合わせておいた方が早いわ」

「ありがとう」


エリカは小さく礼をした。友人相手ではあるが、教室の中で崩しすぎない返しだった。紗良はそれを受けて、小さく笑う。


「お礼を言うのは、終わってからでいいわ。始業式の日から、もう紙が増えているもの」

「本当に。去年より、早い気がします」

「去年より、見られる場面が増えたのよ」


紗良の声は明るかった。明るいのに、言っていることは軽くない。

湊は、そこに引っかかった。

見られる場面。

エリカは、それを聞いても困った顔をしなかった。微笑を崩さず、配布物の角をもう一度揃える。指先が迷わないのは、慣れているからだろう。慣れていることと、軽いことは違う。


「悠木さん」


名前を呼ばれて、湊は顔を上げた。

エリカが、こちらへ顔を向けていた。机の間を隔てた距離で、周囲の視線を越えない程度の声だった。


「このあと、残られますか」

「まだ分かりません。呼ばれたら、というくらいです」

「そうですか。では、その時はこちらにも分かるようにしておきます」

「ありがとうございます」


エリカは小さく頷いた。


「こちらこそ。式典局でもお見かけしていますから」


兵頭と一緒に動いた時のこと。

湊は一瞬だけ、講堂周辺の廊下や、控室表示を確かめた日のことを思い出した。去年の春に迷いかけた一度きりの出来事ではない。頼まれた範囲を確認し、兵頭の横で働いたことが、何度かあった。

それだけだった。

それ以上は続かない。エリカはすぐに紗良へ向き直り、紗良も別の配布物を差し出した。短いやり取りだったのに、近くの席の何人かが、何気ない顔でこちらを見ていた。

湊は今さらのように、自分の手元へ視線を戻した。

兵頭と一緒に動いていたことを、エリカは覚えている。

それ自体は不思議ではない。むしろ、エリカなら気づいていてもおかしくない。人の名前、作業場所、来賓の流れ、誰がどの範囲を手伝ったか。そういうものを、彼女はきちんと扱う。

それでも湊には、落ち着かなかった。

エリカは湊を、その側へ入れたわけではない。ただ、いるかもしれない人員として、頭に置いただけだ。

そのことは分かる。けれど、榊原のように説明し、エリカのように整え、紗良のように流れを作る側は、まだ少し遠く見えた。


「覚えていた」


暦が言った。

湊は横を見る。


「何を?」

「兵頭君と動いていたこと」

「まあ、九条院さんなら覚えてるだろ」

「そう」


暦は、それで終わらせた。続きを言わない時の暦は、たいてい何かを記憶している。

教室の後方で、兵頭匡平が椅子にもたれたまま、配布物をめくっていた。鞄にはまだしまっていない。手元の紙を一枚ずつ重ね、式典局の欄で指が止まる。

兵頭も、午前で帰る側ではなかった。式典局員はこのあと、新校舎側で短い確認があるらしい。

笹倉直純が、その横から覗き込んだ。

湊は、名前だけは知っていた。

笹倉直純。新興海運財閥の御曹司で、今年から同じA組になった生徒。これまでクラスは違い、廊下や式典準備の場で見かけたことはあっても、話したことはほとんどない。

兵頭の方は、そうではないらしい。

笹倉は遠慮なく兵頭の配布物を覗き、兵頭もそれを咎めなかった。二人の間には、前から続いている親しさがあった。

兵頭が、配布物から目を離さないまま言った。


「笹倉」

「何だ」

「悠木。前に話しただろ。会場周りを何度か手伝わせた」


急に名前を出され、湊は少しだけ姿勢を正した。


「悠木湊です」

「笹倉直純。名前くらいは知ってる」


笹倉は軽く片手を上げた。


「兵頭が、外から見られるやつが一人いると回しやすいって言ってた。君のことだな」

「便利に使われてるだけじゃないかな」

「それを分かってるなら、ひとまず大丈夫だな」


笹倉は笑った。兵頭は否定しなかった。

そのまま笹倉は、兵頭の手元へ視線を落とした。


「兵頭、まだ見てるのか」

「会場準備の人数を見てる」

「何の」

「会場準備に必要な数だ」


笹倉は軽く笑った。


「始業式の日から、そこまで見るんだな」

「午後の確認で話が出る。始業式の日だから、人数だけは見ておく」


兵頭は顔を上げずに答えた。


「春季晩餐会は、会場の準備が多い」

「それ、今から考えるんだな」

「今日のうちに、誰がどこをやるかは見ておく」


その言い方に、湊は笑いそうになった。兵頭らしい、と思ったからだ。華やかさや家名より、作業量と人の配置を先に考える。

笹倉は肩をすくめる。


「会計局の確認も、早めに来るな」

「予算か」

「備品と臨時費。まだ正式じゃないけどね。行事が重なると、どこから出すかで揉める」

「揉めるのか」

「揉める前に、先に数字を決めておくのさ」


笹倉の声は軽い。軽いのに、内容は妙に現実的だった。

湊は、笹倉の言葉を受け止める。以前なら、新興海運財閥の御曹司という肩書きを聞いても、漠然とした印象しか残らなかった。今は、それだけでは見えないものがある。

兵頭は現場を見る。笹倉は金の流れを読む。

どちらも、表舞台には立たないかもしれない。けれど、いなければ行事は動かない。


「悠木」


改めて、兵頭が呼んだ。


「何?」

「前に手伝った時、どの範囲まで見た」

「講堂の周辺と、控室のあたり。あとは、言われたところだけ」

「じゃあ、今度も似た場所を頼まれるだろうな」

「俺、正式な担当じゃないけど」

「だから見える場所もある」


笹倉が、そこで眉を上げた。


「兵頭、それは使う側の言い分だぞ」

「だから、頼まれたら断っていい」

「断っていいのか」


湊が言うと、兵頭はようやく顔を上げた。


「断る理由があるならな」


その答えは、真面目だった。堅苦しくはない。湊を役割に押し込むつもりもない。ただ、手伝うなら自分で決めろと言っているように聞こえた。

湊は備考欄へ目を落とした。

書けることはある。けれど、そこに書いたからといって、正式な担当になるわけではない。

兵頭に呼ばれれば手伝う。今の自分の位置は、そのくらいだった。

その時、教室のざわめきが一段だけ静かになった。

誰かが大きな声を出したわけではない。廊下側の扉の近くで、何人かが自然に道を空けただけだ。

鷹司澄礼が立ち上がっていた。

長く教室に残るつもりはないらしい。机の上はすでに片づいていて、鞄も手元にある。近くの生徒が軽く礼をする。澄礼はそれに、ほんの少し顎を引いて応じた。


「榊原さん」


澄礼が呼ぶと、榊原はすぐに立ち上がった。


「はい」

「配布物確認は、後日で構いませんか」

「はい。急ぎの提出ではありません。確認用紙だけ、期限までにお願いいたします」

「分かりました」


それだけだった。

澄礼は、誰かと長く話すことなく教室を出ていく。扉の閉まる音も、特別大きくはなかった。

湊は、澄礼がいた席の周辺へ目を向けた。

空いた席が目立つ、というほどではない。そこに人がいなくなった後も、周囲の姿勢だけが残っている。椅子を引く音が小さくなり、話し声が一度抑えられた。その後、また放課後の音が戻る。


「すごいな」


湊が小さく言うと、暦がこちらを見た。


「何が」

「出ていくだけで、空気が変わる」

「席で分かる」

「席?」

「誰の近くに誰がいるか。立った時に先に動く人。声をかけられる人と、待つ人」


暦は、教室全体へ視線を置いていた。


「名簿より、そっちの方が早い」


湊はすぐには返事をしなかった。

朝、自分の名前を見つけた時は、二年A組になったのだと思った。始業式では、A組が筆頭組として並ぶことを見た。ホームルームでは、役職と委員会が一つずつ決まっていった。

放課後になると、それらは紙の上の項目ではなく、人の動きとして見えてくる。

榊原の周りには、迷った生徒が集まる。

紗良はエリカの横に立ち、兵頭は配布物の向こうに作業量を読んでいる。

藤代と牧瀬は、同じ箇所を見ながら別の言葉を探していた。

澄礼が去った後も、周囲の姿勢だけが残っている。

そして暦は、その全部を見ていた。

湊は自分の席に座ったまま、教室の並びをもう一度確かめた。机の間隔は同じだ。椅子も同じ。黒板も、窓も、配布物も、普通の教室にあるものばかりだった。

それなのに、その並び方ひとつで、意味が変わる。


「湊」


暦が呼んだ。


「今日は帰る?」

「ああ、そうだな」

「部活は?」

「今日はない。始業式の日だから。暦は?」

「風紀委員の会議がある」

「そうだった」


言われてから、湊は思い出した。図書委員も午後に残るが、暦はもう風紀委員としてその側にいる。

湊は確認用紙を鞄にしまった。まだ提出しない。備考欄は空いたままだった。その空白の方が、今の自分にはしっくりきた。

教室の前では、榊原が最後の質問に答えている。紗良とエリカは配布物を持って、午後の確認へ向かう準備をしていた。兵頭は、紙を鞄にしまう前に、もう一度だけ式典局の欄を確かめた。

湊と暦が席を立つと、牧瀬がこちらに気づいて、小さく手を振った。


「また明日」

「また明日」


湊が返すと、暦も一拍遅れて軽く頷いた。

廊下へ出ると、新校舎の窓から春の明るさが差していた。午前で帰る生徒の声と、午後の確認へ向かう生徒の足音が重なっている。湊は帰る側で、暦は残る側だった。兵頭から声がかかれば別だが、今日はまだ、湊の名前はどの確認にも入っていない。けれど、二年A組の教室から出た後では、その差もただの予定の違いには見えなかった。


「席で分かるって、さっきの」


湊は、階段へ向かいながら言った。


「全部分かるわけじゃないだろ」

「全部は分からない」


暦は隣を歩く。歩幅はいつも通りだった。


「でも、見ないと分からない」

「兵頭みたいなことを言うな」

「兵頭君は、作業を見る。私が見るのは人の反応」

「俺は?」


暦は少し考えた。


「遅れて気づく」


湊は苦笑した。


「ひどくないか」

「間違ってない」

「まあ、否定しにくいけど」


廊下の先で、エリカと紗良が生徒会室の方へ曲がっていく。午後の確認へ向かう人の流れに、二人は自然に入っていた。エリカは一度だけ、こちらに気づいて会釈をした。湊も軽く頭を下げる。

暦は、その横顔を見ていた。


「風紀委員は?」


湊が聞くと、暦は視線を戻した。


「新校舎の会議室。先に場所を確認する」

「じゃあ、そこまで行く」

「帰らないの?」

「途中までなら同じ方向だろ」


暦は否定しなかった。

二人は階段へ向かった。

背後の教室では、まだ椅子の音と話し声が続いていた。二年A組は、新しいクラスというだけではない。今日初めて集まったように見えて、すでにそれぞれが立つ位置を取り、まだ名簿にない役割を読み始めていた。

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