05 英邁
几の前には書簡が積まれており、劉曄は字を連ねていた。少年のころより背を伸ばし頬の線も引き締まったが、目の陰りは消えぬ。奥の寝所で握られた母の手とあの日見た血の色が、ときおり視の裏に浮かぶ。
門口で履の音が止まり、戸を叩く音が二度響いた。従僕が応じるのを聞きながらも、劉曄は筆を置かぬ。許子将の評を受けてからというもの、自らを試そうとして訪ねてくる若者も多い。言葉は立派でも、目に欲の色を隠せぬ者が多かった。
「成徳の魯子敬殿がお見えです」
声が廊を渡ると、ようやく筆先を払う。
「書斎に通せ」
劉曄は袖を正して室を出た。
書を集めた室には南向きの窓があり、その一隅に、客が端然と坐している。年は劉曄と同じくらいか。顔立ちは穏やかで、瞳の色は水に潜む玉のように深い。
「子揚殿とお見受けする。魯子敬と申す」
客が拱手する。声を張り上げようとする様子はない。
「遠路、ご苦労」
劉曄も礼を返したが、その眼差しは冷ややかであった。対坐しても、しばらく言葉を継がぬ。先に口を開く者の色を見るのも、ここ数年で身についた癖であった。
沈黙に耐えかねるそぶりも見せず、魯粛は室の隅の書の束に目をやる。表紙には春秋や諸子の名が混じっていた。
「許子将殿が、かねて子揚殿を高く評しておられた。今の世にあって、よく主を輔くる才ありと。その言葉にひかれ、参った次第です」
名を盾とするでも、隠すでもない口ぶりである。劉曄はわずかに眉を動かした。
「子将殿の名は、近ごろよく人の口に上る。その評を己の飾りとしたくてここを訪れる者も多い。子敬殿も、その一人と見てよいか」
冷たい問いにも、魯粛の顔色は変わらぬ。
「評は評、器は器でありましょう。名に寄る者は、名のあるうちだけ寄ってくる。世の色が変われば、また別の名のもとへ移る。その目は、いつも外ばかりを見ている」
言葉の一つ一つが地に根を張っている。劉曄は客の横顔を見た。言うべきことを飾らず、しかし刺の立て方を心得ている。
「では、何を見てここに来たのです」
「世の行く末と、その手前にある曲がり角です。いずれどこかで、人々が血を流し、国が割れましょう。その折に、どのような者が前に立つべきか」
血という言葉に、胸が鳴った。廊の灯。杜倫の記憶。劉曄はその影を顔に出さず、息を吐く。
「我が宅の客は言の軽い者が多いと思っていたが、そうでもないらしい」
室の気が、わずかにやわらいだ。外では、庭を渡る風が音を立てている。
それからの日々、魯粛はたびたび門をくぐった。時には朝のうち、時には陽が傾いてから訪れ、室の几をはさんで向かい合うのが常となる。几の上には史書や地図が並び、筆は脇へ寄せられたまま、言葉だけが往き来した。
「天下の流れは、すでに一筋ではありますまい」
ある日、魯粛が手を膝に置いたまま言った。
「漢室の徳は衰え、州郡の兵はそれぞれ別に動く。名を掲げる者は多いが、天下を一つに収めうる器はさていかほどか」
劉曄は几の端に指を添える。
「旗を挙げる胆のある者と天下を収める徳のある者とは、もとより同じではありますまい。兵を握る力、法を立てる知、恩を施す度量、そのいずれをも欠かぬ者でなければならぬ」
「子揚殿は、誰を推す」
魯粛の問いは素直であった。
「いま名を挙げるのは、いずれも乱を糧として立つ者たちです。私はまだ、天下の終わりの形を決めてはおりませぬ。ですが、終わりに立つ者はあらかじめ終わりを胸に描いているべきだとは思う」
「終わりを胸に描く、とは」
「人の血がどれほど地を赤く染めるか、そのあとの空腹が何年続くか。それを思い量らぬ者は、覇者の名を称しても賊と変わらぬ」
魯粛はしばらく黙し、やがてうなずく。
「民の腹を数えぬ者は、城の数をいかに増やしても、終わりには滅ぶのでしょうな」
目に同じ憂いが宿っていた。その色を見て、劉曄の胸のどこかが応える。
話題はやがて、名士と呼ばれる者たちの行く末に及んだ。
「州里には徳望ある士が少なからずおりますが、多くは名を傷つけぬことを第一とし、漢室に殉ずると口にしながら、実は誰の側にも立たぬ。子敬殿は、どこに身を置こうと考えておられる」
魯粛はわずかに目を伏せた。
「家は東城にあり、郡の事にも縁がある。兵を好むわけではないが、穀を蓄え、飢えた者を救うのは、時が来れば誰かがせねばならぬ務めです。名士と呼ばれる者こそ民の側に立つべきではありますまいか」
「民の側に立つと言いながら、自家の門を高くするためにのみ動く者も多い」
「それは名士というより豪家でしょう」
魯粛は穏やかに言い切った。その倨傲を見て、劉曄は口の端にわずかな笑みを浮かべる。
「子敬殿は、己の立つべき地を先に定めている。そのうえで、どの旗が立とうとも、民の腹を満たす道を考えている。そういう者は、世が乱れても、自らの足を見失わぬでしょう」
「子揚殿は、どこに立たれる」
問いに、劉曄はわずかに目を眇めた。
「私は……先に、血の行く末が見えるのです」
言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「ある者が権を握れば、誰が殺され、どの家の門に白帛が掛かるか。ある策が行われれば、どの地で兵が疲弊し、どの町で井戸に蓋がされるか。先を読むことをよしとする者もいるが、その先にあるものが血と火であると知りながら告げるのは、容易ではない」
魯粛は顔を上げた。
「それでも、語らねばならぬ折もありましょう」
室の中の光が、少し褪せて見える。魯粛は長く息を吐き、几の上に上げた指を強く組んだ。
「先を読む目を持たぬ者は、流れに押し流されるのみ。先を読む目を持ちながら何もせぬ者は、流れの上から笑うだけ。子揚殿は、そのどちらでもないとお見受けします」
「言えば血を呼び、黙れば血を見逃す。どちらを選んでも、心は安まらぬ。だからこそ、終わりを胸に描いた覇者でなければ、これを担うべきではないと思うのです」
長い沈黙が訪れ、庭のほうで、竹の葉が立てる涼やかな音が鳴った。
「子揚殿」
やがて魯粛が言った。
「世に先んじて見る目は、時に孤独を呼びましょうが、その孤独を抱えた者どうしなら、語り合えることもありましょう。私もまた、里で語るには早すぎることを胸にしまい込んでおります」
「例えば」
「例えば、この乱ののちに、漢の名がどのような形で残るべきかということです。いまそれを口にすれば、不敬の徒と笑われるでしょう」
劉曄はうなずく。
「早すぎる問いを抱える者は、同じ刻を生きる者の中では少ない。子敬殿と話していると胸が軽くなる」
魯粛もまた、わずかに目元をやわらげた。
「私も同じ思いです。成徳にこのような議を交わせる人があろうとは思いませんでした」
いつしか、二人のあいだの言葉は、友のそれに近いものとなっていった。世の行く末に名と実の隔たり。陽が昇り、傾き、灯がともるまで、論は幾度も往き来する。
数日を過ぎたころ、魯粛は帰り支度を始めた。まだ、庭の砂には夜露の跡が残っている。門前には小さな車が一台止められ、従僕が荷の縄を確かめていた。
「道は乱れようとしているが、行くべき地がある者は幸いだ」
劉曄は言う。
「子敬殿、身を惜しまれよ。世がどれほど変わろうとも、終わりを胸に描く者は、そうはいない。その数少ない者が、あまり早く倒れてはならぬ」
魯粛は一瞬目を見開き、やがて拱手した。
劉曄はそれきり言葉を継がぬ。
魯粛は門を出て、車に乗った。車輪が土を踏み、ゆっくりと路地へと消えていく。背の影が角を曲がって見えなくなるまで、劉曄は門の下に立っていた。
宅に戻ると、書斎の几の上に向かい合って置かれた二つの碗がそのまま残っていた。片方には昨夜の茶の跡が輪を描き、もう片方はきれいに乾いている。
劉曄は一つを取り上げ、指で縁をなぞった。
終わりを胸に描く者は、決して一人ではない。
声には出さずにそう思い、碗を元の位置に戻す。窓の外では雲がゆるやかに流れていた。




