04 遺言
門を出てからの足どりは、まっすぐであった。劉曄は袖の中で剣の柄を握り、町はずれの小高い丘を見上げる。
墓所には並んだ標が風の中に立っていた。その一角に、よく手入れされた墳がある。草は少なく、土の色も他と違っていた。
劉曄はそこへ進み、剣を脇に置いて膝を折った。両の掌を土に付ける。
「母上」
額を下げたまま、名を呼んだ。
「お言葉どおりにいたしました」
奥の寝所で握られた手の温度と、耳もとに囁かれた言葉を劉曄はたぐり寄せる。七つの年から今まで、母の遺言が脳裏に浮かんでは沈むことをくり返していた。
「あの者を除いておくれと仰せでしたね。今日、それを果たしました」
土の上の掌には、血の赤が残っている。劉曄はそれを見て、指を軽く握り込んだ。血の生臭さがまだ鼻に残っている。
「父上には、まだ申し上げておりません」
息をひとつ置き、続ける。
「この身が罰を受けることになりましても、母上のお心には背かぬつもりです」
それきり、しばらく言葉を絶った。墓所の風が衣の裾をなでて過ぎる。
やがて劉曄は身を起こすと、掌の土を払った。剣を取って袖で鞘口を覆い、もう一度墳の前に立つ。
「子として出来ることは、ここまでです」
そう告げて、背を向けたときである。丘の下から、駆け上がる足音がした。若い従僕が姿を現し、息を切らして膝をつく。
「子揚様、こちらにおいででしたか」
劉曄は立ち位置を変えず、その顔を見下ろした。
「何の用か」
「邸が騒がしゅうございます。杜殿が室で亡くなられ、端女が、奥からお出でになった子揚様のお姿を見たと申しております」
従僕の声は上ずっている。
「父上は、何と」
「お怒りでございます。すぐに子揚様を召せと。今も人を重ねてお出しになるところでございました」
肩の震えに、宅の荒立ちが現れていた。
「そうか」
劉曄は丘の上から町を見下ろす。屋根の連なりの向こうに、自らの家の棟が見えた。
「案内は不要。すぐに帰る」
そう告げて、劉曄は歩き出した。従僕は道の端によけ、その背を見送る。
× × ×
宅に戻ると、門前には人が群れていた。劉曄の姿を認めると、みないっせいに道をあける。
「父上は」
問うと、年長の家人が廊の奥を指さした。
「お待ちでございます、子揚様」
その目は袖と剣先に触れたが、誰も何も言わぬ。戸の前に立ち、劉曄は一礼して戸を開く。
室の奥には劉普が坐し、その脇に劉渙が控えていた。几の上には開きかけた書簡が重なり、筆は硯の縁に置かれている。空気はどこか淀んでいた。
「曄」
名を呼ぶ声は、怒りを抑えて低い。劉曄は一歩進み、頭を下げる。
「母上の遺言を、父上にお伺いもせず勝手に実行いたしました。その罰は、いかようにもお受けいたします」
「遺言とは、何のことだ」
劉普の声は、石のようであった。
「母上が病の床に臥しておられた日のことにございます」
劉曄は顔を上げ、まっすぐ父を見る。
「あの日、奥の寝所で、兄上と私の手を取られ、あの者を取り除いておくれとはっきり仰せでした」
「あの者とは、誰のことだ」
「杜倫にございます」
室の風がわずかに動いた。香の煙が乱れ、すぐ元に戻る。
「渙」
劉普は、兄の名を呼んだ。劉渙は背を正し、目を伏せたままうなずく。
「母上は、あの者は人に取り入り悪事を重ねる。やがて家の倉を食い、誰かを泣かせよう、とまで仰せでした。私もそれを聞いておりました」
声には自らを責める色が混じっている。
「そうであったか……」
劉普は、それ以上兄を咎めなかった。視線をふたたび弟へと戻す。
「曄。お前は、いくつであったか」
「十三にございます」
「六年、か」
劉普は息を長く吐いた。卓の端に置いた指が、かすかに震える。
「そのあいだ、誰にも告げずにいたのか」
「はい」
「なぜ、わしに言わなんだ」
「父上は杜殿を頼みにしておられました。母上のお言葉をそのまま申し上げれば、父上を責める形ともなりましょう。子のすることではないと考えました」
その返答に、室の静寂はいっそう深まった。劉渙は顔を上げられず、拳を握りしめている。
劉普は眼を閉じ、胸に引っかかっていたものを探った。杜倫の筆は確かであり、客の名や出自を誤ったことはないとはいえ、簿の端に重なる不自然な数や、酒席で耳にしたわずかな噂が、全くなかったわけでもない。名家の面目と長く使ってきた手前とが、疑いの目を覆っていた。
怒りと共に、自らへの恥が胸にあった。子が六年ものあいだ遺言を抱き、ついに刃を取るまでに至ったことを思うと、その思いを軽く扱うことは出来ぬ。
「曄」
やがて、眼を開いて言った。
「お前の心は、分かった。しかし、二度とこのような事を起こしてはならぬ。家の者が刃を取って人を裁けば、その家は外からの信を失う。今日のことは、本来なら父であるわしがすべきことであった」
声には悔いが現れていたが、厳しさは失われていない。
「肝に銘じます」
劉曄がうなずく。
「このことは、家の内だけのこととせよ」
劉普は続けた。
「外へ言い広めるな。杜倫の罪がいかほどであったか、世が論ずるところではなかろう。わが家の倉をどう守るかは、わが家の恥としてわが家で収める」
苦みを含んだ言葉である。
「よいか、渙」
「承知いたしました」
劉渙はかろうじて答えた。
「曄」
父はもう一度、劉曄を見る。
「今日のことは、これで終いとする。罰を与えれば、お前の胸に宿ったものまで折ってしまうやもしれぬが、忘れるな。人を斬る刃は、一度抜けば、お前自身の行く末をも定める」
「はい。理解しております」
そう答えて、劉曄は身を退いた。
「下がってよい」
その言葉に、劉曄は剣を取り立ち上がる。
戸を閉じると、灯の火に三人の影が揺れた。廊では従僕たちが遠巻きに息を潜めている。誰も声をかけず、少年の足音が石の上に一定の拍を刻んだ。
庭には、光がまだ残っていた。杜倫の室の方角からは、ぴちゃりぴちゃりと布から滴る水音が漏れ聞こえてくる。




