03 血刃
六年のあいだに劉曄も劉渙も背を伸ばし、少年の面立ちは大人びてきている。
この日も、一室で二人は向かい合って坐っていた。几の上には碗が二つ、脇には書簡の束が積まれている。
「兄上、今朝も父上のお傍でしたね」
劉曄が言うと、劉渙は碗を几に戻して軽くうなずいた。
「客人が増えれば書簡も増えるのでなあ。字を誤っては家の名にかかわろう。人の顔と名を覚えるのにも骨が折れる。杜殿などは、誰がどこから来たかをよく覚えておられる。ああいう才はなかなか持てぬものだ」
杜倫の名が出ると、劉曄のまなざしが碗の中に移る。
「兄上」
劉曄は碗を置き、指先を揃えた。
「母上のお言葉を、そろそろ実行いたしましょう」
「母上のお言葉……」
劉渙は眉を寄せる。
「何を言っている、子揚」
「奥の寝所で、母上が兄上と私の手を取っておられたときのことです」
劉曄は、兄の顔をまっすぐに見た。
「あの者を取り除いておくれと、はっきり仰せでした」
「あれは、病のさなかの譫言であろう」
喉につかえながら、劉渙はようやく言葉を絞り出す。
「名家の奥方ともなれば不安が多かったのだ。人ひとりを取り除くなど、そう易く出来るものか。まして父上が頼みにしておられる者を」
「母上は、病の迷いで仰せになったと、兄上はお考えですか」
劉曄の声には、責める色はない。
「父上は今も杜殿を側に置いておられます。もし過ちがあれば、いずれは法の手が届くでしょう。ですが、母上はその前に、この家の倉がどうなるか、誰が泣くかを案じておられました」
「わたしたちが刃を取る筋合いではない」
劉渙は、顔を伏せたまま言った。劉曄はしばらく黙し、それから問いを重ねる。
「兄上は、なさいませぬか」
平らな問いであった。
「母上のお言葉を、忘れるおつもりですか」
「忘れはせぬ。が、私には出来ぬ」
劉曄は一度目を伏せ、それから立ち上がった。腰を上げたはずみに、石の床をこする音が小さく室に響く。
「よく分かりました」
彼は兄に背を向け、衣の裾を正す。
戸口へ歩き出しながら壁際の柱に立てかけられた稽古用の剣に目をやると、劉曄はその柄を取り、鞘ごと手に収めた。
「兄上。少し、外の風を吸ってまいります」
振り返った顔には、先ほどまでの柔らかさはない。劉渙は、その目に宿る色の意味を量りかねた。
劉曄は拱手してから戸を開け、陽の中に身を踏み出す。
廊の影は奥の棟へと続いていた。劉曄は足を止めず、その影を踏んで進む。手にした剣はなお鞘の中にあり、衣の袖に隠されてほとんど外からは見えぬ。
奥の室では杜倫が几に向かって坐っていた。窓の外の明るさとは隔てられ、室の内には墨と紙の香が濃く漂っている。杜倫は筆を走らせ、行のあいだを埋めていた。
戸の前に、人の気配が立った。
「お入りなさい」
杜倫は顔を上げずに言った。戸が開き、足音が一歩、二歩と近づいてくる。
「おお、子揚様でございましたか」
ようやく振り返ったとき、彼の目には、まだ幼さの残る少年の姿が映った。されどその眼差しは、年に似合わぬほど冷たい。
劉曄は言葉を返さず、戸を閉める。その音が室の空気をわずかに震わせた。
「何か、ご用でございますかな」
杜倫はいつもの調子で問うた。筆先からは、まだ墨が滴っている。
劉曄はゆっくりと几の背後へ回った。足音は軽く、衣擦れの音が杜倫の耳に届く。少年の影が簿の上に落ちた。
「母上のご用件です」
告げる声は、背中の方からした。
杜倫が振り返ろうとした刹那、鞘から鋼の音が走る。続いて、肉と布を断つ鈍い音が、室の奥でひそかに響いた。
痛みを覚えるより早く、杜倫の身体は前へと崩れ、握っていた筆が簿の上を走り、黒い線をむなしく引き散らす。硯の縁に腕が当たり、墨がこぼれて几の上に広がった。
声はほとんど出なかった。息が一度詰まり、喉の奥でかすかな音が途切れたきりである。血の色は衣の下で広がり、几の脚を伝って床に広がった。
劉曄は一太刀を振るったにすぎぬ。剣を引き抜き、刃についたものを杜倫の衣の裾でぬぐった。目の前の男が二度と立ち上がらぬことを確かめるような仕草さえない。
室の内には、墨と紙の香に血の生臭さが混ざった。格子窓を透かして入る陽射しは、先ほどと変わらぬ明るさで几の上を照らしている。
劉曄は剣を鞘に収め、手元を一度見やった。指先に、震えはない。彼は戸口に歩み寄り、ふたたび戸を開く。背後には、倒れた男とこぼれた墨だけが残された。
廊は明るく、さきほどの室の陰が嘘のようである。劉曄は足を止めずに進み、庭へ出た。井戸端では端女が桶を並べている。
彼女は水を汲もうとして振り向き、劉曄の姿を認めて慌てて身を正した。
「お出掛けでございますか、子揚様」
劉曄は歩を緩めず答える。
「母の墓参りに」
その言葉に、端女は頭を下げかけた。が、ふと目が劉曄の手元に吸い寄せられる。
袖の隙間から、鞘に収められた剣の柄がのぞいていた。握る指先には、ぬらぬらとした赤い筋が残っている。衣の裾にも、点々と同じ色が落ちていた。
端女はひっと息を呑み、桶の取っ手を握る手がわずかに震える。
「子、子揚様、そのお手は……」
言いかけた声は、喉の奥で途切れた。彼女の目は剣と衣のあいだを行き来し、顔から血の気が引いてゆく。
劉曄は足を止めた。束の間端女の方を見たが、何も言わなかった。視線には何の感情も浮かんでいない。
やがて彼は、そのまま庭の先へと目を移す。塀の外へ通じる門の向こうには、町はずれへ伸びる道があった。その道の先に、母の眠る墓所がある。
劉曄は、その方角を確かめるように一度長く見やった。
端女は桶を抱いたまま一歩退く。足元の砂が音を立てた。声を出そうにも舌が動かず、劉曄の横顔を見上げるばかりである。
「行って参ります」
劉曄はそう言うと、剣を持たぬ方の手で衣の前を正した。戸口から門までのあいだを、歩みを乱さずに進んでいく。
門柱の影が、彼の背を切り取った。外へ一歩踏み出すと、光はその背中をまっすぐに照らす。庭に残るのは、桶を抱えた端女の震えと砂の上に点々と落ちた血の跡のみであった。




