02 呪詛
劉家の邸裏の廊では、薬草を刻む音がして、煮立つ湯の香が日ごとに濃くなっている。
奥の室では、脩が枕を高くして横になっていた。頬の線は細くなり、指先には血の色がない。煎じ薬をいくたび改めても病は胸から退かず、夜ごとに汗を奪い、朝ごとに力を削っていく。
戸の外を通る足音は、今では限られたものになった。かつて客の出入りを告げていた履の音も、いまは家人と従僕のそればかりである。劉普は朝な夕なに顔を見せるが、長く坐ることは少なく、印と書簡の待つ几へ戻って行く。劉渙は書簡を抱えて通い、劉曄は決まって母の枕元に座っていた。
脩は、ときおり戸口の方へ耳を澄ました。前の道から人の名を呼ぶ声が遠くから聞こえてくる。それは、この家がなお世と縁を保っている証でもあったが、今の彼女には倉の穀の減りと薬壺の底の浅さを告げる音のようにも思われた。
「曄。渙は?」
「兄上は父上のお側です。客人の書を読んでおられます」
「そうでしょうね」
脩は目を閉じ、息を吐いた。瞳には病とは別の決心の色が宿りはじめている。
「曄。渙とお前を、そろってここへ呼びたいのです。誰かをやって、兄を連れて来てもらえますか」
劉曄はうなずき、戸の外へ出て端女を呼び止めた。
「母上が、兄上をお招きです。父上の室におられるはずだから、お伝え下さい」
使いを送り出すと、彼は再び寝所に戻り枕元にひざまずいた。やがて、足音が二つ近づいてくる。
戸が開き、劉渙が入って来た。端女が戸を閉めると灯の火と薬草の香が室に残る。
「母上、お呼びと聞きました」
劉渙は敷居のところで頭を下げ、枕元へ進んだ。劉曄もその隣に腰を下ろす。
「お前たちも、いつのまにか大きくなったものですね。もっと先を見ることが出来ればよかったのだけれど」
劉渙は笑おうとして、すぐに顔を曇らせた。
「母上は、まだお若いではありませんか。病がお癒えになれば、きっと」
言いかけた言葉は、痩せた頬と手に遮られる。
「いいえ」
脩は首を振った。
「医と薬を尽くしたあとに残るのは、天の定めのみです。わたくしは、もう長くはこの世におられはしますまい」
劉渙の目に見る間に涙が浮かび、劉曄は母の手を見つめる。
「だからこそ、今のうちに申しておかねばならぬことがあります」
脩の声はそこで囁きとなった。
「お父上の側近、杜倫のことです。あの者は人に取り入り、己の利を先に量る性質を持っています。困った者を見れば、まず自分がどれほど得をするかを考える。あの者が取り持った縁のあとには、必ず誰かが泣いております」
「しかし杜殿は父上をよくお助けしていると……」
劉渙が思わず言うと、脩は笑った。
「人はみな、表に見える助けだけを見るのです。門を賑わせるかげで、倉の穀がいくつ減り誰の家に恨みが積もるかまでは、誰も数えません。このまま任せておけばいつか劉家の根を食い破るでしょう。……渙、曄」
脩は、二人の手を自分の上に重ねる。
「わたくしが死んだあと、あの者がこの家を滅ぼすのではないかと、夜ごとに案じてきました。お前たちが大きくなり世の理を知る年になれば、必ずあれを取り除くと誓ってくれませんか。それがかなえば、思い残すことはありません」
言葉の重さに、劉渙は顔を伏せた。
「それはつまり、杜殿を……」
脩は答えず、手を握り直す。
劉曄は、母の指の震えを掌の中で受け止めていた。杜倫の笑い方も廊の陰から見ている。母の言葉と己の目に映ったものとが、胸に重なってゆく。
「曄」
脩は、下の子の名を呼んだ。
「お前はよく人を見ておりますね。先の日にも、目が笑っていなかったと言っていた。あれのこともこれからは見ておくのですよ。そしていざという時には、父上と兄を正しい方へ導いておくれ」
劉曄はうなずく。そのうなずきは、幼い首には不釣り合いなほど、固いものであった。
その折、端女が戸口から身をかがめた。
「奥方様、お薬の刻限でございます」
脩が小さく笑みを浮かべる。
「では、今日はここまでにいたしましょう。渙も曄も、少し外の風を吸っていらっしゃい」
劉渙は袖で目を拭い、劉曄とともに拱手して立ち上がった。敷居で一度ふり返ると、枕の上の母は笑みをつくって二人を見送っていた。
× × ×
廊に出ると、劉渙は口を開かず歩を早め、劉曄はその後ろに黙ってついて行く。
曲がり角で、柱の陰から人影が現れた。
「おや、渙様、曄様」
杜倫である。彼は二人を見ると足を止めて眉を下げた。
「奥方様のご容体はいかがですかな。先ほど、端女が呼びに走るのを見ましてな」
その問いに劉渙の顔がこわばった。枕元の言葉がよみがえり、喉につかえる。
劉曄が半歩、前に出た。
「母上は、少しお話をなさりたかったのです」
穏やかな声である。
「長い病で弱っておられますから、今夜あたりが峠かもしれませぬ。そのせいで、兄上は気が乱れておられるのです。どうか、お気を悪くなさらないで下さい」
劉渙は驚いて弟を見たが、劉曄は兄を見ず杜倫だけを見ていた。
「そうでございましたか」
杜倫はうなずく。
「それは、お気の毒なこと」
さらに問う。
「先ほどは、どのようなことをお諭しであったのですかな」
劉曄はわずかに目を伏せた。
「父上のことと、この家のことを気にかけておられました」
そこまでは真実である。
「父上は人に頼られ、倉は減るばかり。兄上も、いずれは人の願いを受ける身になる。その時には、どうか家の内も忘れぬようにと」
そして、息を継いだ。
「それからは、昔話ばかりでした。兄上がまだ幼いころのことなどを。思い出話をしているうちに苦しくなられたので、今はお休みです」
杜倫の顔に安堵が浮かぶ。
「そうでございましたか。ならば、わたくしが出て行く幕ではありますまい」
彼は身を引き、道を開けた。
「今は奥方様のご回復を祈るばかり。何かあればいつでもお申し付け下さい」
劉曄は頭を下げる。
「お気遣い、ありがたく存じます」
その答えもまた、相手の耳に甘く響く形であった。杜倫はうなずき、前の棟の方へ去って行く。
背が見えなくなってから、劉渙はようやく息を吐いた。
「曄。今のは」
問いの続きは出てこない。
「母上は、父上とこの家を案じておられました」
劉曄が兄を見る。
「それは嘘ではありません」
劉渙はうなずいたが、さきほどの冷静さを思い返すと、幼い弟の顔がどこか遠く見えた。
陽が落ちると、邸のあちこちに灯がともり、厨では病人のための粥が煮える。
脩は、その夜のうちに息を引き取った。
劉曄は格子窓からじっと月を見上げていた。母の手の冷たさと枕元の言葉とが、胸でひとつに結びついている。成人の年はまだ遠い。それでもいつか来るその日まで、この約束は失わぬようにと幼い心に誓っていた。




