06 詐簡
成徳の町は、日ごとに顔を変えていた。市の通りには粗い袍を着た男たちが行き交い、口の端には笑いとも嘲りともつかぬ色が浮かんでいる。酒肆の戸口には大きな壺が並び、その脇には賭を打つ者が群れた。兵乱のあとは、土地を守るべき者よりも腕と胆の太い者の方が声を張る世である。
その中でも、名の挙がる者はいた。鄭宝、張多、許乾といずれも揚州のあらくれを束ね、それぞれに配下を抱えている。されど、成徳を行き交う者が真っ先に名を挙げるのは、いつも鄭宝であった。
騎にまたがれば矢のように駆け、軍を見れば陣の乱れを言い当てる。その上、財を集める術もにも詳しい。諸里の有力者を酒席に招き、あるいは脅し、あるいは褒めて人を使う。土地の者は、彼の機嫌を損ねまいと門の戸を固くして暮らしていた。
挙がる名の中には、ひそかに劉家の姓もあった。成徳の者は、光武帝の後裔と聞けば敬いの色を見せる。鄭宝は刃と財とで人を縛る。これに対して、劉氏は血筋と信義で人の心をつなぐ。その違いは、酒席で交わされる噂の中にも語られていた。ゆえに鄭宝が、いつかこの名家を利用しようと心積もりをしていることも、耳の早い者は察している。
ある日の午のころ、劉家の門前に緋の袍を着た男が二人立ち現れた。ひとりは酒壺を抱え、ひとりは書簡を持っている。戸番が名をただすと男は顎を上げた。
「巣湖の鄭将軍の使いである。成徳侯のお宅に、徳をお伝えしに参った」
この地で成徳侯といえば、今は劉普の名を指す。しかし、門の内で客を迎えたのは、その子の劉曄であった。若いながらも姿勢は正しく、声は落ち着いている。客は最初こそ年若さを見て軽んじたが、席に向き合ううちに自然と口調を改めた。
「子揚殿、鄭将軍の徳はすでにこの辺りにも響き渡っておりましょう。巣湖を拠として衆を集め、乱世にあって民を安んじておられる。まことに当代随一の英傑にておわします」
そう言いながら、男は酒壺の封を切り、酒を盃に満たした。言葉は親密さを現しているが、袖の間からのぞく手首は太く、腰に下げた剣の鞘はわずかに光を帯びている。
「将軍は、劉家のご威徳を常々仰ぎ聞いておられる。光武の後をつぐ高貴の家柄にして、また若くして名を知られた子揚殿がおられると。今、天下の形が定まらぬ折である。どうか鄭将軍のもとにお出ましになり、この大事の旗頭となられよと、かように仰せつかっております」
男は笑みを含んで盃をすすめ、同時に卓の脇へ腰の剣を軽く立てかけた。誘いであり、同時に命令であることを忘れさせまいとする響き。鞘が石床を打つ音は小さいが、その意は明らかである。
劉曄は盃を受け取り、酒をひと口含んだ。顔色ひとつ変えずに喉を潤して卓に戻す。
「鄭将軍のご厚意、ありがたく承りました。乱世にあって人を集め、民を安んずるは、まことに大きな徳でありましょう。ですが、これほどの大事を決するにあたり、私ひとりの胸で量るは軽率。かねて志を同じくする友が東城におりまして、その意もあわせて伺いたく存じます」
そう言って、劉曄は卓の脇の筆を取った。
「すぐに書簡をしたため、友に問いを送りましょう。その返書を持って、改めて鄭将軍のもとにうかがい、お目にかかるのがよろしかろうと存じます」
言葉は柔らかく、礼を欠くところもないが、その眼差しには、目の前の剣をも酒をもひとしく遠くから眺めているような冷たさがある。使いの男は一瞬ためらったが、すぐに笑いを取りつくろった。
「友をも誘い、共に鄭将軍のもとに帰せんとお考えか。まことに結構なこと。では、返書が届き次第またお迎えに上がろう」
声には満足げな響きが混じった。劉曄の言葉を、自らの功として鄭宝に報ずることを思い描いているのであろう。男たちは盃を干すと礼をして席を立った。腰の剣がふたたび鞘鳴りを立て、履の音が戸口から遠ざかっていく。
使いの姿が門の外に消えると、宅の内には静寂が戻った。几の上には、つい先ほどまで客に供していた盃がひとつ、輝きを失っている。劉曄はそれを脇へ寄せ、几の前にあらためて坐した。
鄭宝が自分の家の名を利用しようとしていることは、はじめから察していた。巣湖に衆を集める者が、わざわざ成徳の名士に敬語を尽くすはずもない。高貴な家柄の名を旗に掲げれば、人心は動く。
劉曄は硯の水を確かめ、筆を取り上げた。友の顔が脳裏に浮かぶ。東城にいる魯粛のことである。彼の耳には、今の成徳や淮南の事々も、まだ届いてはいないだろう。
『只今天下の英傑たちが各地に蜂起しておりますが、あなたの資質と才能はこうしたときにこそ相応しいものであります。急ぎ帰って年を取られた母上を迎えられますよう。東城にあって無為に過ごされるものではありません。
近くでは鄭宝なる者がただいま巣湖にあって、一万余の衆を擁しております。彼のおります土地は肥沃で、廬江の辺りの人々が大勢そのもとに身を寄せております。
我々も当然、彼に身を寄せるべきでしょう。その形勢を見ておりますに、さらに多くの人々が集まりそうです。
時を逸してはなりません。あなたも急がれますように。』
その文面は、鄭宝を推し、彼のもとに身を寄せることを勧める書簡にほかならぬ。成徳のあらくれ共が読めば、名士が自分たちの名を褒めたたえていると受け取るであろう。
だが、劉曄は知っていた。魯粛は行の間を読む男である。
天下の英傑が蜂起しているとわざわざ書き起こしたのは、今の世がただ事ではないという報せであり、急ぎ帰って母を迎えよと勧めたのは、今いる地を離れ、安全な所へ移れという意味を含んでいる。時を逸してはならぬと結んだのも、危急が近いというほかなかった。
もし途中で書簡が改められても、この文面であれば疑われる筋はない。名士が乱世の英雄を推し、友をそれに従わせようとしていると見えよう。そう読ませるために、劉曄は筆の一画ごとを慎重に揃えていた。
紐を結び封泥に印を押すと、急ぎ伝吏を呼ぶ。
「この文を東城の魯子敬のもとへ届けよ。道中、誰にとがめられても、劉家の書簡と胸を張って言え」
伝吏は拱手して受け取り、懐に納めた。履の音が廊に消えるのを劉曄は黙して聞く。筆を洗いながら、胸中で願う。魯粛がいつものように、文の裏まで読み取ってくれることを。
× × ×
数日を隔てて、その願いとは別のところで劉曄の読みは早くも試されることになった。
成徳から東へ向かう道の途中、小さな橋のたもとに人影があった。粗い袍に甲を重ねた男が三、四人、路傍に腰をおろし、行き来する者の顔をじろじろと見ている。その一人が荷を負った伝吏の姿を認めると、立ち上がって道に出た。
「どこから来た。何を運んでいる」
伝吏は額の汗を拭き、落ち着いて答える。
「成徳の劉家から、ご友人のもとへ書簡を届けるよう仰せつかりました」
劉の姓を聞くと、男の目の色が変わった。
「その書簡、少し見せてもらおう。乱世の折だ。通行の文は、確かめねばならぬ」
伝吏は抵抗しない。強く取り上げればかえって怪しみを招くと、送り出すときに言い含められていたからである。封泥は荒く割られ、文が引き出された。男たちは字の読める者を真ん中に据え、その肩ごしに行ごとに目を走らせる。
「ふむ……。鄭宝なる者がただいま巣湖にあって、一万余の衆を擁しております、か」
読み上げる声には、次第に喜色がまじっていく。
「見ろ。劉家の子が、俺たちの将軍を大いに褒めているぞ。土地は肥え、人は集まり、さらに多くの者が来ようと書いてある。我々も当然、彼に身を寄せるべきでしょう、ともな」
「名士の筆というものは立派なものだな」
「これを将軍がお聞きになれば、お喜びになろう」
彼らは満足げに笑い合い、書簡を丁寧に巻いた。名高い家の文を粗末に扱えば、自分たちの顔にも傷が付くと理解しているのだ。
「よし。怪しむところはない。劉家の者も、世の形をわきまえているということだ。封をし直してやれ」
簡単な封を施すと、男は書簡を伝吏に戻す。
「失礼した。早く行け。将軍の名を広めてくれるのだ、粗略には扱うまい」
伝吏は礼をして、その場を辞した。背に受ける視線が軽くなるのを感じつつ、歩を速める。




