第百二十一話 Kingdom Come➀
クリスの全身にまとわりついた黒い液体が乾いていく。
「ハァ……ハァ……キリねぇぞ、これ」
雪の中、既に擦り切れて血の滲むアンブリエルを振り続けた。
目の前のエクスはもう人間ではない。
叫び声も悲痛な懇願も聞こえなくなり、その巨体を覆う赤黒い繊維は、無機質な脈動を繰り返すだけとなった。
「治療は無理そうだし……」
迫りくる触手を薙ぎ、手を、足を、硬質化した筋肉を切り裂いていく。
そして遂に、目前に迫る核。
「――ッ!!」
しかし、どうあがいてもここで阻まれるのだ。
斬った触手や手足が復活し、クリスを銀白の地面へと叩きつける。
クリスは足を地面にめり込ませながらも、ボロボロになった手でその攻撃を凌ぐ。
しかし結局壁まで吹き飛ばされ、最初にいた位置まで戻る。
「もう、五回目から数えてねぇよ!!」
クリスは口から血の塊を吐き出し、アンブリエルにもたれながら、ゆっくりと立ち上がる。
この戦いに知恵や作戦は無い。
クリスはそれを分かっていた。
そんな小賢しい戦いで倒せる相手じゃない。
純粋な力が圧倒的に相手の方が強く、能力や作戦、根性でその差を埋められないとき。
それを埋められるのが、これまで積み重ねてきた努力に裏付けられる「自信」と、狂気的な「執念」だけであることを。
彼は知っていた。
自信と執念は、相手を飲み込む。
「こっからは気持ちだぜ、クリス!」
彼は自分に言い聞かせると、もう一度足を前に出そうとする。
しかし、そこで腰に掛けていた無線機が音を立てた。
「これは、全員に聞こえているのか?まぁいい。俺は、アレクサンダーは、きょうだいを殺し、俺もこの命を全うする」
シトラスは自分の持つ無線機から聞こえてくる声で目を覚ます。
近くに倒れていたはずのアオイはいつの間にか消え、警察庁の中には彼女一人になっていた。
「俺は、このまま生きていても、意味がない。だから死ぬ。すごく論理的だろう?そして、姉を殺した。こいつがいるだけで、俺の今までの人生が!人生が!」
頭の中を金槌で殴られている様な頭痛の中、憎しみに満ちた声が無理やり耳へ入り込む。
虫が寄生する場所を探しているように。
「まぁいい。もういい……橋から落ちる。全部終わらせる。俺達に感情は無かった。その人生は――死のみが救済である」
言い終えると同時に無線機から激しい雑音が鳴り響く。
クリスとシトラスは同時に耳を覆った。
彼の言葉は狂気と自己否定、そして絶望に満ちていたが、その奥底には何かを求める必死の叫びがあった。
呆然とするクリスとシトラス。
しかし、彼らの元へは、サンダーの悲痛な叫びはほとんど届いていなかった。
聞こえていたのはたった一言だけ。
――“姉を殺した”
「「アレック―――――ス!!!」」
クリスとシトラスの叫びが、寒空を突き抜けるように響き渡った。
だが、その声は届くべき場所へと届かない。
「俺だ!また俺だ!俺のせいだ!」
クリスがそう叫び、警察庁の壁を殴った。
「俺があそこで殺しておけば……サンダーを殺して、アレックスに彼のことを知らせなければ」
苦悩するクリスの心をどす黒い闇が覆っていく。
ラオ虐殺の後や、エマ融解の時と同じように、一つの感情が頭の中で暴れ出した。
サンダーへの怒り、ゼリクへの怒り、カシムへの怒り、そして何より自分への怒り。
クリスの胸を痛みが締め付け、呼吸が浅くなっていく。
――しかし、クリスはあれから変わってきた。成長してきた。
失ったものが帰ってくることが、過去について悩み続ける意味が、無いことを知った。
怒りは執念に、そして執念はやがて、使命に。
クリスは深呼吸し、正面でうねる黒い怪物へと目線を向けた。
そして首の骨を鳴らし、両手の拳に力を入れる。
冷静になったかと思われたクリスは、目を瞑ると一瞬で吸血族の力を覚醒させた。
それまで短かった犬歯が伸び始め、手には欠陥が浮き出て、肌は不気味に青白く変化していく。
「ありがとう、アレックス。君のおかげで、やっと向き合えたよ――王と言う立場と」
クリスは瞳孔を燃えるような赤に染め上げ、アンブリエルの切っ先をエクスに向けて宣言した。
「俺は、今から王として全ての責任を負う。そして、俺が全てを変える。運命も、俺が全てを変える。運命も、未来も、この世界の在り方さえも――俺が背負う!」
クリスはアンブリエルを高く掲げ、その刃に宿る青い輝きを曇天に向けた。
その光は、あたかも沈黙する空へ挑むように広がり、灰色の雲を切り裂くようだった。
「過去の過ちも、失ったものも、全て俺の中に刻み込む」
彼の声は、吹雪く風を切り裂き、周囲に響き渡る。
「俺がルバモシの王、クリストファー・ブレイブハートだ」
クリスは全速力でエクスの元へと走り、迫りくる触手を断ち切る。
巨大な手も、足も、全てはクリスの前に次々と砕け散った。
再生速度よりも、生成速度よりも早く。
アンブリエルを振り抜くたびに、赤黒い繊維が焼け焦げ、空間に青い光の軌跡を描いた。
圧倒的な再生能力に苦戦しながらも、彼はわずかずつエクスの核へと迫っていく。
クリスが巨大な二対の手を断ち切ると、血飛沫のような液体が辺りに飛び散り、触手のうごめく音が耳をつんざく。
彼は迷うことなくその中に飛び込み、触手が蛇のように彼の体に巻き付いていく。
筋肉が締め付ける感覚に息が詰まりそうになるが、クリスの目は鋭く、剣を振りかざしながら一歩一歩前進する。
「ここだろォ!」
と叫ぶ声は、触手のざわめきにかき消されることなく響き渡った。
中央で蠢く筋肉の塊に剣を突き立てた瞬間、鈍い音と共に筋繊維が裂け、内部から現れるエクスの姿。
クリスの目がそれを捉えた瞬間、彼の表情には勝利の確信が浮かんだ。
「見つけたぜ、英雄さんよォ!」
彼の声には疲労と同時に高揚感が混じる。
しかし、退路を塞ぐように触手が押し寄せ、クリスの体を怪物の中へと飲み込もうとする。
触手が彼の周囲を覆い尽くし、暗闇が視界を奪った。
だが、クリスの感情は、思考は揺るがなかった。
静かに、アダムから受け取ったピストルを核のあった方向へと構える。
「アレックスに捧げる。俺からの誓い――」
周囲の音が遠のき、五感が研ぎ澄まされる。
世界がスローモーションに包まれ、触手の動きが一瞬止まった。
「俺は君の為にこの国の王になる。そして仲間たちの為に――死んでいった、たくさんの仲間達の為に!!王になる!!」
その静寂の中で、クリスは冷静に引き金を引いた。
軽い発砲音が響き、銃弾が筋肉の塊に着弾する音が続く。
触手が再び動き出し、クリスを完全に飲み込もうとした、その瞬間――。
警察庁全体がまばゆい光に包まれた。
ドカァアアアアアアアアア!!!!!!
その後すぐに、爆音と衝撃波が辺りを揺るがし、エクスの巨体が突如爆発と共に燃え上がった。
爆音と共に弾け飛んだ触手の残骸は、まるで血の雨のように四方に飛び散り、地面へと降り注いでいく。
その中には燃え盛る破片も混じり、黒煙が空を覆い始める。
崩れ落ちる巨大な手は鈍い音を立てながら地面に叩きつけられ、瓦礫と共に粉々に砕け散った。
その光景は、まさに世界の終焉を思わせるような凄惨さであった。
高熱を伴った爆風が人々の肌を刺し、辺り一帯が炎のオレンジ色の光に包まれる中で、誰もがただ唖然とし、その場に立ち尽くす。
風が吹くたびに、灰が宙に舞い上がり、まるで神話に語られる光景の一幕のようだった。
そんな中、炎の中心から一つの人影が現れた。
触手は塵となり、黒い煤が舞い上がってパチパチと燃える業火の中で、只コートを靡かせて静かに佇む青年が、そこにはいた。
彼の姿が炎の熱気で揺れる。
それはまるで神話に出てくる英雄のようだった。
革命軍、警察、カシムの軍――すべての者が彼を見上げ、その姿に息を呑む。
「かっこいい」や「勇ましい」を超えた、「美しい」という印象が人々の心に深く刻まれる。
彼の姿を見つめる民衆の中から、かすかに「救世主だ……」という声が聞こえた。
それは誰の言葉かも分からないほど小さいものであった。
だが、その言葉が一瞬の静寂の中で広がり、人々の心にじわじわと浸透していく。
クリスの存在は、もはやただの一人の戦士を超え、神話的な象徴として刻まれようとしている。
周囲に残ったのは燃え落ちる瓦礫と、熱気に包まれた風。
それでも、彼を見上げる無数の瞳の中に浮かぶのは畏怖と敬意、そして希望の光だった。
クリスはただ一言も発することなく、その場に立ち尽くす。
背後の炎の中で、民衆へと静かに英雄としての姿を刻み続けた。
――新しき王の、誕生である。




