第百二十話 縋る愛情冬劇詩
クリスがエクスに近づくと、エクスの体から黒い繊維が伸びる。
太い針金が何本も束になったようなそれは、うねりながらクリスに向かって迫ってきた。
「なんだこれ、気持ち悪ぃな」
繊維を踏みつけると、それは黒い煤となり、粉々に崩れる。
その瞬間、エクスが叫び声を上げた。
「あ゛あああああああああ!」
驚いたクリスは、思わず後ずさった。
それと同時に立ち上がるエクス。
目の焦点は合わず、頭からはだらだらと血が流れていた。
――が、彼は全身の筋肉を脈打たせながら、鬼のような形相でクリスの正面に立ちはだかった。
「オ…の、キン…肉は、脳でコントロールして、イタガ、そのりみったがhズレ…筋繊維がはかい、サイセイ、分裂を、繰り…カエし始めタ」
その言葉にクリスは鳥肌を立たせ、銃を構えた。
「オデを、…してくれ!人のママ、kロしてくれ!!!!!」
エクスが叫ぶと同時に、彼の体を赤黒い繊維が覆い始めた。
それは見る見るうちに醜い姿へと変貌し、成長を――いや、変態を遂げていく。
「こいつは、やばいいいいい!」
クリスはじりじりと後退するが、かつてエクスだった黒い塊は天井を突き破り、ついに警察庁の屋上からその巨体を世界に広げ始めた。
外で戦っていた革命軍や警官たちも戦いの手を止め、現れた異形の存在に唖然とする。
その姿はおぞましく、曇天の下、エクス本体を包む核を中心に無数の赤黒い触手と手足が蠢いていた。
真っ白に染まる雪景色の中、警察庁の屋上に横たわる、英雄のなれの果て。
一先ず、クリスはアンブリエルを鞘から抜き、目の前で茂っている触手を薙いだ。
ブチブチと言う音を立てて切れる触手だったが、切っても切ってもその触手が再生していく。
クリスがより深く切り込もうとすると、次は大きな手が迫ってきた。
クリスはそれを見て瞬時に身を翻し、間一髪でその攻撃をかわす。
地面に叩きつけられた手は、衝撃で周囲の瓦礫を巻き上げ、雪景色を一瞬で混乱の渦に変えた。
「再生するだけじゃなく、力も増し増しってわけですかい」
クリスは息を整えながら、アンブリエルを握り直した。
倒す方法はおそらくただ一つ。
そして触手や巨大な手を切り裂くだけでは埒が明かないと悟り、この筋肉の根源を狙うべきだと考えた。
「核を狙うしかない……!」
クリスは瓦礫の隙間を縫うように走り出し、エクスの中心部に向かって突進した。
しかし、エクスの触手が次々と襲いかかり、クリスの進路を阻む。
しかし素早い動きで触手をかわしながら、アンブリエルで次々と切り裂いていく。
――その時、エクスの声が響き渡った。
「だァス、ケテくれ!」
クリスはその言葉を聞きながら巨大な足を除け、アキレス健にアンブリエルを突き刺す。
その傷口からは真っ黒な液体が噴き出し、クリスにかかった。
「待ってろ長官様……俺が筋肉痛から解き放ってやるよ!!」
「……キンニクツウ、デハないヨ」
「例えで言ってんだよボケ!」
♢
サンダーとアレックスの戦闘力はほぼ互角だった。
完全に同じ体格、同じ腕力、同じセンス。
――ただし、感情の有無という点を除いて。
この差によって、サンダーの攻撃は異質ともいえるものだった。
自身の体が傷つこうとも動じず、むしろ傷を受けるごとに動きが激しくなる。
「やめろ!それ以上無茶な戦い方をすれば死ぬぞ!」
アレックスの叫びが虚しく戦場に響いた。
サンダーの目には焦点がなく、ただ本能のままに動き続けているかのようだった。
血で濡れたダガーを握るその手は、痛みを感じるそぶりも見せず、冷徹に振り下ろされるたびに鋭さを増していく。
しかし、サンダーから返ってくるのは無言の攻撃のみ。
その一撃一撃に、まるで感情が消え去ったかのような機械的な冷たさを感じた。
「弟よ!」
アレックスがサンダーの攻撃を紙一重で躱す。
その瞬間、隙を突くように一閃。
マスケット銃の先端に付けられた刃がサンダーに届いたそのとき、サンダーの胸から鮮血が噴き出した。
サンダーの動きが一瞬止まる。
痛みや動揺からではない静止。
増々アレックスを不安にさせる。
「哀れみとは、不便なものだ……」
ぽつりと呟き、サンダーが動こうとした時――アレックスが銃を捨て、彼に駆け寄った。
「僕は、君を救いたい!!」
アレックスに肩を掴まれたサンダーは、雪の積もった橋に膝を付いた。
アレックスも膝を付き、足元に滴る血が雪に混じる。
その血は暖かく、真っ白な雪を情熱的な赤で染め、溶かし続けていた。
アレックスがサンダーの肩を揺すり、語り掛ける。
「まだ間に合う!僕たちクロノスと一緒に、平穏な未来を――」
「……同じだ」
「へ?」
「同じだって言ってんだ!」
アレックスに対し、初めて声を荒げたサンダー。
「私には同じ血が流れているのに、何で、何でお前らはそんなに幸せそうなんだ!何でそんなに俺と違うんだ!」
頭を抱え、雪の中うずくまったサンダーは、嗚咽を漏らしながら続けた。
彼は感情のない機械ではなかった。
ただ、感情の動かし方を知らなかっただけだった。
「……俺は、俺は、生きるのが、辛い」
サンダーの声は震え、雪に吸い込まれるように消えていった。
アレックスはその言葉に息を呑む。
「かつては僕もそうだった。でも、シトラスやクリス達と出会って、変わった」
アレックスは呟くように問いかけたが、サンダーは答えない。
ただ、拳を握りしめ、地面に叩きつけるようにして叫ぶ。
「違う!お前は人間として成功作だ。失敗作は俺。もともとそういう仕様なんだろう。俺には痛みも、喜びも、憎しみもない!ただ、空っぽなんだ!お前たちが感じるものが、俺には何一つない!!」
その言葉に、アレックスは胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
彼は感情を動かせないがゆえに、痛みを恐れず、命を惜しまない。
だが、それは同時に、彼が何かを守るために戦っているわけでもないということを意味していた。
「……それでも、君は生きているんだ。君の存在には意味がある!」
アレックスは必死に訴えかけた。
「意味だと?そんなもの、どこにある!」
サンダーは顔を上げ、アレックスを睨みつけた。
その瞳には――憎しみという大きな感情しかない。
「俺が生きている意味を教えてくれ、アレックス。もしそれが本当にあるのなら……」
サンダーの声は次第に弱まり、最後には雪の中に崩れ落ちる。
それに対し、アレックスは彼の肩を支えた。
「一緒に探そう」
しかし、顔を上げたサンダーは、真っ黒な瞳で言った。
「お前に救えるものなど、ない。だってさ、お前は昔、俺を捨てて逃げた。そうじゃん?」
「逃げたんじゃない!……ほら、最初革命軍に入ろうと思ったのも君を救うため!!」
「違う、違う違う違う違う!俺は誰にも必要とされず、何の意味も持たず、俺は!!……憎しみの中に産み落とされ……戦いの中で憎しみという感情のみを知った」
そこまで言うと、サンダーはゆらりと立ち上がる。
アレックスも同じように立ち、彼の目を見た。
まだ昼頃だったが、暗く吹雪始めた中で、崩れたサンダーの前髪が緩やかに揺れている。
アレックスから、その目鼻は影になって見えない。
だが、口元を見れば彼女には分かった。
彼が憎しみと、悲しみを持ち合わせていることを。
――そして、愛情を知らないことを。
「お前を殺して、俺も死ぬ」
サンダーはそう一言、ぶっきらぼうに言い放つと、渾身の力を込めてアレックスの腹部へと拳を突き出した。
その瞬間、アレックスの背中に貫かれた真っ赤な拳。
鮮やかな赤は白雪の中に溶け込み、形容しがたい美しさと悲しみを刻み込む。
雪は容赦なく、二人を静かに。
血を隠すようにして降り続けた。




