第百三話 異世界に呼び起こされたもの➀
それから約一年。
ハンスたちは再起の計画を進め、アダムとクリスの教育に力を注いでいた。
リリィはただ一人、吸血症の研究に没頭していたが――どれだけ探しても、治療法は見つからない。
その事実だけが、彼女の心を少しずつ、確実に削っていった。
♢
研究室の中で一人、シャーレの中の透明な塊を顕微鏡で覗くリリィ。
かつて細胞だったものが、冷凍室から出すと全て形を保てずに溶けていくのを見て絶望する。
もう何度も顕微鏡を覗いているが、その結果は同じだった。
「そんな……治療細胞も死滅している」
予想はしていたものの、二百年という時の流れには逆らえなかった。
リリィは顕微鏡を避け、そのまま机に突っ伏す。
机には大量のシャーレとタブレットが置いてあり、それぞれのタブレットには化学式や数式が書かれていた。
「……」
静まり返る研究室。
そうして思考を停止していた時、不意にタブレットから通知が鳴った。
気づいたリリィがそれを手に取ると、リリィによりロシア語設定された画面の上部に、“記憶反映治療の研究データが未更新です”と表示されている。
リリィはその療法に聞き覚えがあり、内容を記憶の底から掘り返した。
「これは確か――もし記憶喪失になった時のために自分の記憶をデータ化しておいて、記憶喪失後に脳へインプットさせる技術。まだ実用化には程遠く、日本では二例だけしか記憶をデータ化できなかったはずだけど」
彼女はその通知を押すと、二人の少年少女のデータが表示される。
脳細胞が人より強く、賢い少年。
英語を読み書きできる少女。
高校生で終わったその人生。
恐らくこのタブレットは二百年間、誰にも気づかれることなく淡々と通知を発し続けていたのだろう。
記憶データの最終更新日が2063年1月になっていた。
そこでリリィが一つの案を思いつく。
自分を治療できない今、ゼリク殺害の復讐を進めるべきでは?と。
この記憶を使えば、二百年前の知識が得られる。
古の本を集めれば、彼等はその言語が分かる。
冷戦時からずっと常にロシア語のみを使っていたリリィにとって、英語を使える人物は喉から手が出るほど欲しい者であった。
「――小瀧夏。彼女がそうなのね」
リリィはすぐさまデータを液体へ移し、それを注射器へ入れる。
記憶反映の方法は一つ。注射器を右耳の裏から打ち、脳に直接記憶を見せること。
成功例はゼロだったが、全てをこの研究へ掛けることにした。
一応、佐藤雄志の分も作り、机に二本並べて置く。
さらにその隣にノートを作り、古の知識が武器となりうること、注射器の使い方、小瀧夏と佐藤雄志の特徴。
その上、自分の医療知識と、記憶を反映されたものが吸収した兵器や化学の知識が合わされば、全てが上手くいくはずだと。
赤字で、第五紀言語で書いた。
そして、このメモが――。
♢
ふとランファンが廊下を歩いていた時、研究室から光が漏れているのが見えた。
研究室の中には誰の影もない。
机の上に置かれた不思議な光る板が気になって中へ入ると、そこには注射器二本と、雑に書き殴られたリリィのメモが置いてあった。
「何だこれは」
ランファンが注射器を手に取り、メモを横目にピストンを押し出すと、注射器の中の液体が少しこぼれてしまう。
その瞬間に開く部屋のドア。
部屋に入って来たのはリリィだった。
「何をしているのですか?」
睨む彼女にランファンは苦笑いし、注射器を体の後ろに隠して答える。
「いやぁ、これすごいなって。タブレットって言うのかぁ。ただ見ていただけだぜ」
ランファンはリリィの視線を請けながら、じりじりと壁を背にそのまま部屋を後にした。
足音が徐々に遠ざかり、部屋には静寂が戻った。
リリィはデスクの椅子に腰掛ける。
無機質な実験室。
壁には数々の古い図面や付箋が貼られ、過去の試行錯誤の痕跡が浮かび上がっている。
柔らかな光が部屋の中をさまよった。
リリィは、一人机の上の何かを探す。
「あれ……?ユウジ型の記憶反映剤を作らなかったかしら?」
彼女はパソコンを開き、もう一度雄志の方の記憶反映剤を生成し始めた。
♢
一方のランファンは、注射器を見つめながら無言で廊下を歩く。
頭の中ではメモに書いてあったことを復唱し、注射をどう使うか考えていた。
“第四紀の知識を使えれば古代兵器が使える、か。あの野郎……何を考えているんだ?“
彼女は腕を組み、窓から見えるジャングルを眺める。
“ともかく大事なのは、これを誰に打つかだ。最も良いのはライか?戦闘能力もある。でも、老い先の短いジジィが使ってもな“
ランファンは誰もいない廊下の角を曲がり、自分の部屋に入った。
ルバモシ残党一同は始め、中央棟にある大避難所で過ごしていたが、リリィが病室棟の鍵を見つけたことで、それぞれの個室に移っていった。
ランファンが手をかざすと自動でドアが開き、部屋に入ってしまうと勝手にドアが閉まる。
現代の技術では再現できないであろうこの建物は、いつになってもランファンには慣れなかった。
「おかえり!!」
部屋には丁度七歳になったアダムが来ており、今日の昼食をテーブルの上に置いているところだった。
そこでランファンは考えた。
――この将来有望な少年が、例の古代武器を身に付ければ、訓練次第でルバモシの戦力になるのではないか。
ランファンは扉の前に立ち、こちらを見つめるアダムに言う。
「アダム、もし、ルバモシのために戦う時が来たら、一緒に戦ってくれるか?」
ランファンがそう聞くと、アダムは乳歯の二本抜けた笑顔で、真剣に答えた。
「僕ね、あんまりね、王国には興味ないかも。王族だから命も狙われるしね、国王じゃないから好き放題もできないの」
アダムはそこで一度俯き、そしてもう一度話し出す。
「でも、ビサの国の王様は憎いよ。僕の故郷を滅茶苦茶にして、おばさんだって今生きてるかどうかわかんない。だから、そいつを倒すためなら、僕は戦いたい」
その目には、確かにゼリクへの憎しみが宿っていた。
ランファンはごくりと唾を飲み込む。
こいつなら、ルバモシ復興の一番槍となれるかもしれない。そう思った。
「アダム、少し後ろを向いてくれないか」
「うん?いいよ。どうかした?」
ランファンが注射器を取り出し、アダムの右耳の裏に針を当てる。
そしてランファンは躊躇うことなく、一気にその中身を注入した。
「ぎゃああああああああああああ!」
それと同時にアダムの叫び声が病院中に響く。
この一瞬に、アダムには何年もの記憶が脳内に流れ込んでいるのだろう。
アダムが苦しむさまを見て、ランファンはルバモシ復興へ一歩近づいたと、静かに興奮していた。




