第八話
「おい、聞いてんのか?」
左近が、酔っぱらってうつらうつらし始めた香川の頭を平手で叩いた。
「いってーなあ。ちゃんと聞いてますよ。人魚になったんでしょ?すごいじゃないですか。はいはい」
「あっ、お前、ぜんぜん信じてないな」
「当たり前でしょうが。そんな子供だましの安い怪談」
香川が鼻で笑うと、左近は目つきの悪い達磨のような顔をした。
「あれ、怒ったの?」
左近は答えず、おもむろに刺身を切ったナイフを持つと、自分の左腕に突き刺した。
「ちょちょちょ、ちょっと何やってんの?」
突然の暴挙を目撃して、一気に酔いが醒めてしまった。
香川の狼狽をよそに、当の左近自身は涼しい顔で酒を飲んでいる。当然、ナイフは腕に刺さったままだ。
「い、痛くないの?」
香川は恐る恐る訊いてみた。
「蚊に刺された程度だな。力を込めていれば、血も流れない」
左近はナイフの柄を握り、ゆっくり引き抜いた。腕の真ん中にぽっかりと穴が開き、鮮やかな赤色の肉が見えた。
しかし、それもつかの間、ちぎれた肉の繊維がまるで独立した生き物のように蠢き出し、あっという間に傷口を塞いでしまった。
「ほれ、便利だろ」
左近はすっかり元通りになった腕を突き出して、香川に見せた。
「マジかよ」
香川は人生で初めて、「開いた口が塞がらない」という比喩を実体験した。
「俺は死なない。なぜなら、不老不死の人魚だからだ。それは理解したか?」
香川は黙って頷いた。あれを見せられては、頷くしかなかった。
「よし、じゃあ本題に入るぞ。俺は生き過ぎた。もう飽きるくらいに生きて、実際に飽きちまったんだ。ほれ、何かハマッた食べ物があると、そればっかり食べ過ぎて飽きることってよくあるだろ?それと同じだよ」
大声でしゃべって喉が乾いたのか、左近は、コップに残った酒を勢い良く飲み干した。
「幕末の動乱も体験した、大正デモクラシーもこの目で見た。日ロ戦争にも行ったし、満州鉄道にも乗った。太平洋戦争にも自主的に出征したんだ。南の島でばったばったと味方が死んでいく中で、俺だけは必ず生き残った。なんたって、不老不死だからな。灰と瓦礫の中から復興する日本人の力はすごかったぞ。高度経済成長期、バブル、平成大不況。俺は、それをみーんなこの目で見てきたんだ。もうお腹いっぱい。我が長すぎる人生に悔いなし。
もうやりたいことなんて、何にもない。だから、そろそろ静かに眠りたいんだよ。俺は、永遠の眠りが欲しい。だが、そのためには、この不老不死を誰かにゆずらないといけない」
そこまでノンストップでしゃべり、左近は値踏みするよに香川を見つめた。
「まさか、それが俺だっていうのか?」
「そう!まさにその通り!」
左近は、突然、膝立ちになり、香川の眉間を指さした。
「お前は、この間、沼に落とされた時、はっきりとその身に死を感じたはずだ。死を本当に間近に感じた時、人はもがくように、あえぐようにどん欲なまでに生を求める。人間てのは、そういう強欲な生き物なんだ」
「ふざけるなよ。あんたに俺の何が分かる」
「分かるさ、手に取るように。お前の欲しいもの。お前が手に入れたいもの」
左近は瞬きもせず、じっと香川を視界に捕らえている。左近の濁った両目の瞳に、香川の顔が映り込んでいた。
香川は左近の発する圧力に屈するように、視線をそらした。
「そもそも、そんな簡単に人が不老不死になってたまるかよ」
香川は吐き捨てるように言った。その瞬間、左近が乱喰い歯を剥き出しにして笑ったことに、香川は気がつかなかった。
「まあ、落ち着けよ」
左近は二人のコップに酒を満たし、あぐらをかいた。
香川は、並々と注がれた酒を一気に半分ほど飲み干した。いくら飲んでも、喉の乾きは収まらなかった。
「人魚になるためには条件がある。それを一生一殺の理という」
左近は、両手の人差し指を使って、二つの「一」を作った。
「生の真の意を知るために一人を生かし、死の真の意を知るために一人を死なす。つまり、一人の人間の命を救い、同時に一人の人間を殺す必要があるということだ」
左近は、言葉に併せて、一本ずつ指を引っ込めていった。
「一人を生かし、一人を殺す?」
殺すというのは、意味が分かる。しかし、「生かす」というのはどういうことなのか?
「そうだ。生かすには、人魚の生き血を飲ませれば良い。病気の人間はたちまち健康になり、もともと健康な人間も、その先百年は軽く生きるだろう。殺すとは文字通り、生きている人間をその手で抹殺するということだ。この世界で毎日、毎分、毎秒起こっている。日常茶飯事だよ」
「あんたも、そうやって永遠の命を手に入れたのか?」
「その通りだ。尼に懇願された俺は、彼女に代わって人魚になる決意をした。翌日、俺は里に降りて、殺しても差し支えない人間を探した。
見つけたのが、弱者を食い物にして金をため込んでいた悪名高い高利貸しのおやじだ。俺はそいつを斬った。そして、肺の病に伏せっていた町外れの茶屋の娘に、尼から預かった生き血を飲ませ、その命を救った。これで、一生一殺の完成だ。俺は晴れて、人魚になった。茶屋のおやじは、たいそう喜んでくれてな。ぜひ娘を嫁にと言われたんだが、残念ながら好みじゃなかった」
左近は、グハハと豪快に笑った。
「その人魚の生き血というのは、どんな病気でも治せるのかい?」
「ああ、もちろん。例えば、エイズとか白血病とか、直せない病はないだろう。もちろん、ガンもな」
左近は断言した。
香川は、決して左近には悟られぬように気をつかっていたが、胸の奥は煮えたぎるように熱くなっていた。
どんな病も治せる方法がある。ガンを治すことができる。香川は、欲すれば、その権利を我がものにできる立場にあった。
香川自身が、左近の申し出を受け入れて人魚になれば、真琴の病を治し、命を救ってやることが出来るのだ。
問題は、誰かをこの手で殺さなければならないということだった。
真っ先に浮かんだのは、人の良い白衣の男の笑顔だった。
病が治るのであれば、真琴にもう医者は必要ない。
香川が真琴を再び手に入れるためには、秋田は死んでくれた方が、いや殺してしまった方が都合が良いのは間違いなかった。




