第九話
その週の土曜日、香川は早起きをして、たまっていた洗濯物を片づけた。週末は常に昼過ぎまで寝ることを日課としていたので、これは異例の出来事だ。
なるべく清潔感のある服を選び、入念に髭を剃ってから家を出た。
仕事中に探しておいた花屋で花束を買い、病院へ向かう。
病院のロビーは、朝からにぎわっていた。ソファは大半が外来患者で埋まり、白衣の天使が忙しそうに動き回っている。
香川は、受付で真琴の入院している病室を訊ねた。
エレベーターが混み合っていたので、鉄製の重い扉を押し入って、階段を使った。
早く行きたい気持ちと、なるべく遅らせたい気持ちがない混ぜになって、足が重い。
どんな顔をすればいいのか。第一声は、何と言うべきか。どうでも良いことが頭の中を回り、緊張で口の中がカラカラに乾いていた。
病室のある三階に到着した。扉に手を伸ばすと、向こう側に扉が開き、書類の束を持ったナースが飛び込んできた。
「あら、ごめんなさい」
驚いて目を丸くしている香川を後目に、そのナースはパタパタとサンダルの音を響かせて、階段を下っていった。
外来ロビーに比べると、入院病棟は、物音をたてるのがためらわれるくらい静かだった。
まだ時間も早く、面会に来る家族も少ないようで、廊下を歩く人の姿もない。
香川は案内板を確認して、突き当たりを左に曲がった。休憩スペースで、テレビを見ながらお茶を飲んでいるパジャマ姿の中年女性がいた。見た目には健康そうだが、傍らには点滴パックのぶら下がったポールが立っていた。
病院は、いつも香川が生きている世界とは、まったく別の空間だ。ここには、外の世界よりさらに身近に、生と死の雰囲気が感じられる。
目指していた部屋についた。三〇三号室は、個室らしい。部屋番号の下に、「山口真琴」と書かれたプレートが設置してあった。
香川は三度深呼吸をして、シャツのシワを伸ばし、髪の毛を手ぐしで整えてから、満を持してドアをノックした。
「はい」
部屋の中から、確かに真琴の声が聞こえた。
「失礼しまーす」
香川はよそ行きの声で言って、ドアをゆっくりとスライドさせた。そっとのぞき込むようにして、首だけを部屋の中に入れる。
「あれ、香川くん?」
真琴はベッドの上に座っていた。今日はピンクのニット帽に、白いカーディガンを羽織っている。ベッドの向こう側にショートカットのナースが立ち、体温計を見ながら、書類に何事か書き込んでいた。
「やあ、まだ入っちゃまずかったかな?」
病室に入る時はこうしよう、こう言おうと前もって考えていたアイデアは、まったく役には立たなかった。真琴の顔を見ると、とたんに頭の中は真っ白になった。
「大丈夫よ。どうぞ、入って」
真琴は、両手で手招きをした。それに誘われるように、香川はふらふらと病室に足を踏み入れた。
大きさは八畳くらいだろうか。正面に窓があり、朝の光がぼんやりと射し込む。小さなベッドとサイドテーブル、左側にテーブルとパイプイスが二脚。ベッド脇にカラーボックスと冷蔵庫が備え付けられ、反対側の壁にはクローゼットと液晶テレビが並んでいた。
「あら、イケメンね。お友達?それとも、また新しい彼氏?」
作業を終えたナースが、不適な笑みを浮かべ、香川と真琴の間に視線を往復させた。
艶のある唇と目力のある切れ長の目が特徴的な、やけに色気があるナースだった。何となく、他のナースより白衣のスカートが短いような気もする。
「何言ってるの、宮崎さん。また新しい彼氏って、ものすごく誤解を生むわよ」
真琴が脇にあった枕で、宮崎ナースを叩く。叩かれた宮崎は楽しそうに「うふふ、冗談よ」と、これまた色っぽく微笑む。
「あの、これお見舞い」
香川は買ってきた花束を差し出した。お見舞いに花を買うのは初めてだったので、どうして良いのか分からず、店員の女性に「おまかせで」と頼んだら、これが出てきた。
「ありがとう。うれしい」
真琴は素直に喜んでくれた様子だった。
「あら、きれいね。じゃあ、私が生けてきてあげる」
宮崎が言った。
「ああ、僕がやりますよ。お仕事続けてください」
「これもナースのお仕事のうちよ。あなた、真琴ちゃんのお見舞いに来たんでしょ?花の心配より、彼女の心配しなさい」
宮崎は、さっさと花束を受け取り、サイドボードの上にあったガラスの花瓶を持ち出した。
「それじゃ、ごゆっくり」
宮崎は軽く会釈すると、スーパーモデルのようなエッジの効いた歩き方で、颯爽と病室を出ていった。
「かっこいい看護婦さんでしょ?ちょっと前まで、東京でモデルとかレースクイーンとかやっていたらしいのよね」
真琴は香川のスケベ心を見透かすように説明した。
「へえ、道理で様になっている訳だ」
「そんな所に立ってないで、座ったら?」
香川はパイプイスを引き寄せ、ベッドの脇に腰を下ろした。
「元気そうだね」
「うん。最近、わりと調子が良いの」
月曜日に会った時より、確かに肌の血色が良いように感じた。相変わらず痩せすぎているのは気になるが、笑顔にも力がある。
「あ、ジュース飲む?この前もらった、百パーセントが確かこの中に」
真琴は体をひねって、冷蔵庫の中を探っている。
「ああ、おかまいなく」
香川は立ち上がって、ベッドの反対側に回った。
カラーボックスの中に、いくつか本が並んでいた。ベストセラーになった小説と一緒に、「ガンは治る」や「乳ガンに勝つ二十の方法」、「私は生きる」といったタイトルが見えた。
「オレンジとグレープフルーツどっちがいい?」
真琴は両手にジュースの缶を一個ずつ持って訊いた。
「あっ、じゃあ、オレンジで」
「はい。じゃんじゃん飲んで。まだいっぱいあるから」
香川はジュースを受け取り、イスに戻った。プルトップを開けて、一口飲む。程良い酸味を帯びた冷たい液体が、乾燥した喉と食堂を通り、からっぽの胃に落ちた。
「よっと」
真琴はボールペンを使い、器用に缶のプルトップを開けた。
爪を長く伸ばしている女性が、時々こんな風にして缶を開けている姿を見るが、真琴の爪はきっちりと短く切られていた。
「んん、すっぱい!」
真琴はグレープフルーツジュースを飲んで、その酸味に顔をしかめた。昔から真琴は、柑橘系の酸味が苦手なくせに、よくレモンやグレープフルーツ味の飲み物やスイーツを飲んだり、食べたりしていたのを今になって思い出した。
「変わらないなあ、山口さんは」
「何よ、いきなり。しみじみと」
「だって、九年ぶりだよ。そりゃ、しみじみとした気分にもなるよ」
「そうかな?」
「そうだよ」
「うん、そうかもね」
ドアが開いて、宮崎が戻ってきた。
「ずいぶん奮発したわね」
宮崎は花を生けた花瓶をテーブルの上に置いた。
色とりどりの花びらが陽の光を受けて、きらきらと輝いているように見えた。




