第六話
風邪はすっかり良くなったものの、仕事はまったく進まなかった。つまらないミスもして、得意先の担当者にたっぷりと嫌みを言われた。
早々と帰社して、さっさと日報を書き、定時になると同時にオフィスを出た。
帰り道のコンビニで弁当とチューハイを買った。部屋にたどりつくと同時に、バックと弁当を放り出してベッドに倒れ込んだ。
「彼女の病名は、乳ガンです」
秋田の言葉がずっと頭の中でリピート再生されている。
真琴の乳ガンが最初に見つかったのは、三年前のことだそうだ。
たまたま東京に遊びに行った時、イベント会場で行われていた乳ガン撲滅キャンペーンのマンモグラフィー検診を受け、発覚した。
真琴は父親の友人のツテを頼り、乳腺外科のある総合医療福祉大学付属病院で治療を開始した。香川は、乳ガンの専門が婦人科ではなく、外科であることを初めて知った。
気になって事務所のパソコンで調べたところによると、乳ガンの病期は、極めて早期の〇期から、遠隔臓器に転移がある㈿期まであるらしい。 真琴の場合、病期で言えば㈼期のb。秋田の説明では、胸のしこりが五センチ程度で、わきの下のリンパ節に転移が四カ所あったそうだ。
真琴は、手術と抗ガン剤、放射線治療を行い、順調に快方へ向かった。一度は、職場復帰するまでに回復し、もう安心だと誰もが思っていた矢先、定期検診で再びリンパ節への転移が見つかった。それが三ヶ月前のことだそうだ。
真琴は再び休職し、入院した。現在は、抗ガン剤治療を行いながら、様子を見ている段階だという。
秋田は、真琴が「一生懸命がんばっている」と言った。
真琴の病気は、「がんばれば治る」ものなのか。香川は、そう訊きたかったが、とうとう口に出すことは出来なかった。
乳ガン治療に関するホームページに書かれていた乳ガン患者の五年生存率は真琴と同じステージ㈼で九一・五パーセント。その数値が何を意味するのか、香川には判断がつかなかった。
まるで恋人のように、寄り添うようにして歩いていく真琴と秋田の後ろ姿が、まぶたの裏で繰り返し再生される。
香川は意を決して立ち上がった。ネクタイを外し、スーツをハンガーに吊す。洗って干したままのスウェットを着て、電気ポットのスイッチを入れた。
弁当を電子レンジに放り込み、スタートボタンを押す。低い駆動音を発しながら、弁当の乗ったトレーが回り出した。
香川の母校だった中学校は、二つの小学校から生徒が入学してきた。真琴とは小学校が違ったので、初めて会ったのは入学式の日だった。
彼女と最初に会話を交わしたのは、入学して二日目のことだ。香川と真琴は、クラスの保険委員になり、翌日から始まる身体計測の準備にかり出された。
香川は、真琴の近くにいると、心臓がどうしようもないくらい早く脈打つことを自覚していた。これは何かの病気かと、本気で心配したくらいだ。ハーレークインみたいに甘っとろく言えば、それはきっと「恋の病」と呼ばれるものだったのだろう。
真琴に自分の気持ちを伝えるまで、半年かかった。その時のことは、しっかりと覚えているが、思い出すのも恥ずかしいので、いつも記憶の奥の底の底にしまってある。
「あたしたち、もし結婚したら、同じ名前になっちゃうね」
中学三年の夏休みだったと思う。受験勉強の息抜きという名目で、電車に乗り、少し遠くのテーマパークへ、一夏の冒険に出かけた帰り道だった。
拍子抜けするほどに空いた車内には、人の声はなく、ただ規則的な電車の走行音だけが響いていた。
窓の外には、地平線の向こう側へ沈む夕日が見える。肌が触れるか触れないかというギリギリの距離に並んで座った二人は、黙って電車の揺れに身を任せていた。
真琴が、その台詞を口にしたのは、そんな時だった。
「二人ともカガワマコトじゃ、ややこしいよね」
香川は、笑ってそう答えた。まだまだお子様の中学生にとって、「結婚」などという言葉に現実味はなかった。
「じゃあ、夫婦別姓にしようか?」
「ええ、やだよ。俺の奥さんになるんだから、香川にならなきゃダメ」
「そう?じゃあ、そうする」
今の自分が、電車の中でこんな会話をする子供をみかけたら、「なんてマセガキだ」と思うかも知れない。だが、少なくとも、この時の香川たちは「本気」だった。本気で、自分たちは将来、結婚するのだと、何の疑いもなく思っていた。あまりにも、純粋というか、世の中を知らなかった。
結局、真琴とは高校が分かれたことですれ違いになり、自然消滅のような形で交際は終わりを告げた。
電子レンジが、甲高い音で「早く開けろ」とわめく。どうやら、温め作業はかなり前に終わっていたらしい。
香川は弁当を取り出して、リビングに戻り、クッションの薄くなった座椅子に腰を下ろした。
チューハイで口を湿らせ、ボリュームとカロリーだけはたっぷり入っているチキン南蛮弁当を口に押し込んだ。
事務的に食事を終え、寝ころんでくだらないバラエティ番組をぼんやりと眺めていると、玄関のチャイムが鳴った。
「香川さん、宅配便です」
ドア越しに、男の声が聞こえた。
そういえば、ネット通販で古本のマンガセットを注文していたことを思い出した。
「はいはい、ちょっと待って」
香川が鍵を外すと同時に、勢い良くドアが開いた。
「はい、おばんです〜」
現れたのは、ニシキ沼で会った髭面の男だった。呆然とする香川を押し退けるようにして、さっさと部屋に上がり込む。
「ちょ、ちょっとあんた何やってんの?」
香川は髭面を捕まえようと手を伸ばしたが、するりと逃げられ、バランスを崩して転んだ。
顔を上げると、髭面は散らかった衣服や雑誌を足でどかし、テーブルを前にして座った。
「いい、部屋じゃないの。小じんまりとしてて」
髭面は首を回して、部屋の中を見回した。
「おい、なに勝手にくつろいでるんだよ」
香川は怒鳴った。普段、あまり感情を激しく表に出すタイプではないが、さすがに頭に血が上っていた。
「そうカリカリすんなよ。俺が何のために、お前の家を探してまで、ここに来たと思う?」
髭面は怒鳴り声にもまったく臆することなく、唇の端をいやらしく歪めてにやけた。
「そんなこと知るかよ」
何を言い出そうと知ったことではなかった。とにかく、この不気味な男を外に追い出したい。
「ほれ」
髭面が何か、小さなカードのようなものをテーブルに置いた。近づいてよく見ると、香川の名前と写真が入った運転免許証だった。
「えっ、嘘?」
部屋の隅に転がしてあったカバンの中を探り、財布を取り出した。確かに、いつも免許証を入れている場所に、何もない。
「んなとこにあるわきゃないだろう。ここにあるんだから」
髭面が香川の免許証をつまみ、顔の前でひらひらと振った。
香川は、それを取り返そうと手を伸ばしたが、髭面がさっと手を引いた。
「よく考えろ。俺は、おまえが落っことしていったこの免許証を拾い、わざわざご足労してここまで持ってきてやったんだ。俺に対して、何か言わなきゃならんことがあるだろ?人として」
髭面は、わざと神妙な顔つきを作り、無精ひげで覆われた顎をさすった。
どうも素直に納得できない「きな臭さ」を感じたが、この男の言い分に間違いはない。
「あ、ありがとうございました」
香川はしぶしぶながら、頭を下げた。
「いやいや、いーんだよ。いーんだよ。俺は人として当たり前のことをしたまでだから」
髭面は、免許証をテーブルの上に置き、香川の方へ滑らせた。香川はすぐにそれを財布の中にしまい、厳重にカバンの奥へしまった。。
「よし、これにて一件落着。飲もう!なっ、飲もう。酒と肴は用意してやったから、コップ持って来い。さあ、持って来い」
男は、持っていた袋からコルクで栓がされた陶器の入れ物と、柵のままのマグロを取り出した。
「ちょっと、勝手なことするなよ」
「いいだろ?俺はさ、お前の恩人だよ。ささやかなお礼にさ、さみしいおっさんのグチの一つくらい聞いてくれてもバチは当たんないんじゃないの?」
そう言われると、返す言葉がない。香川はしぶしぶながら台所に行って、ガラスのコップを持ってきた。
「二つね、二つ。あと醤油もよろしく」
後ろから、髭面の陽気な声が聞こえてくる。
「はい、かんばーい」
髭面は、勝手にグラスを合わせ、一気に酒を飲み干した。グラスの中には、カルピスのような白濁した液体が入っている。
「あの、何ですか、これ?」
「おう、自家製のマッコリ」
「マッコリ?自家製の?」
「いいから、黙って飲めって。騙されたと思って」
騙されると知っていて何かをする奴はいないと天の邪鬼なことを考えながら、恐る恐る白い液体に口をつけた。
「・・・うまい」
「だろ?」
独特のとろみがある不思議な風味だが、ほんのりとした甘みとさわやかな後味は、悪くない。
「ほれ、刺身も食え」
髭面はサバイバルナイフで器用にマグロを刺身にして、自分で持ってきた陶器の皿に盛りつけた。生わさびとおろし金まで用意しているのだから、驚きを通り越して呆れてしまった。
「では改めて。俺は千葉左近というものだ。ニシキ沼の近くで陶芸家をやっている。以後、お見知り置きを」
左近が、酒で満たされたコップを差し出す。
「香川、誠です」
仕方なく香川も自己紹介して、控えめにコップを合わせた。
「お前、何か悩み事があるだろ?」
ふいに左近に言われ、どきっとした。
「図星だな」
左近は酒をあおり、手酌で継ぎ足した。
「あんたには関係ない」
「そうか。じゃあ、俺の悩みを聞いてくれよ」
香川は、それを無視して酒を飲んだ。
「俺はよ、生きるのに飽きちまったんだな」
香川の態度など気にすることもなく、左近は勝手にしゃべり続ける。
「よく言うよ。たかだか五十年くらい生きただけで」
よくある中年男のグチだ。こういうオナジにはなりたくないと、香川は心から思った。
「バカ言うんじゃねえよ。俺はこれでも三百歳を越えてる」
「はは、もう酔っぱらったの?おじさん。その冗談、面白くない」
「残念ながら、冗談じゃない。俺は本当に、江戸時代から生きている」
左近は、獲物を見つけた蛇のように香川をねめつけ、自らの辿ってきた人生について語りはじめた。




