第五話
味も分からないまま、ぼんやりとタバコを二本吸ってから、病院を出た。
敷地が広いので、駐車場へ戻るのにも一苦労だ。その道すがら、また二人のことを考えた。
医者と患者が、そういう仲になるということはあるのだろうか。よく、入院患者と看護士が入院をきっかけにつきあうようになり、結婚したなんて話を聞いたことがある。要するに、それの医師版だ。決して、あり得ないことではない。
「だから、何なんだ」
香川は立ち止まり、つぶやいた。近くを通りかかったおばさんが、怪訝そうな顔をして足早に立ち去っていく。
香川にとって、真琴は「ただの」古い友人だ。彼女が今、どんな男とつき合おうと、香川には関係がない。まったくない。
「香川さん!ちょっと香川さん!」
自分の名前を呼ぶ声がする。後ろに振り向くと、見覚えのあるノッポが走ってくるところだった。
「良かった、間に合った」
秋田は、また膝に両手をついて前かがみになり、ぜいぜいと荒い息を吐いた。
「どうしたんですか?先生」
秋田は、右手の平をこちらに向けた。「ちょっと待ってくれ」と言いたいらしい。言うとおり、秋田の息が整うまで、その場に突っ立って待った。
「ああ、もう大丈夫。すいませんね、気を使ってもらって」
「いや、別に良いですけど。僕に何かご用ですか?」
何となく、突き放したような言い方になっていることに気がついたが、自分でもそれをコントロールすることが出来なかった。
「さっきは、簡単な挨拶しか出来なくて、すいませんでした」
秋田は、両手で名刺を差し出した。
「ああ、これはどうも」
香川もスーツのポケットから慌てて名刺ケースを取り出した。秋田の名刺を受け取ってから、自分の名刺も渡した。
お互いに、しばしの間、お互いの名刺を確認する。
秋田修一。それが、彼の名前だった。
肩書きは、総合医療福祉大学医学部の準教授にして、外科医だった。
香川は、自分が渡した名刺をひったくってでも取り返したい気持ちになったが、秋田はそれを白衣の胸ポケットに入れてしまった。
「今日は、ありがとうございました」
秋田はそう言って、また頭を下げた。つくづく、腰の低い男だ。
「いや、別に何もやってませんけど」
「あんな楽しそうにしている真琴ちゃん、久しぶりに見ましたよ。さっきも病室に戻るまで、ずっとあなたのこと話していました」
「えっ、俺のこと?山口さんが?」
「はい。よっぽどうれしかったんでしょうね。何だか、中学生の頃の記憶がどんどん蘇って来ちゃったらしくてね。いやあ、良かった」
秋田はしきりに「良かった」を連発し、香川の手をとってブンブンと振った。
こう持ち上げられると、何か本当に良いことをしたように思えてくる。悪い気分ではない。
「実は、香川さんにお願いがあるんです」
「何ですか?」
秋田は急にあらたまった様子で、眉間に皺を寄せた。
「お忙しいとは思うのですが、何とかお時間を作っていただいてですね。時々で良いんです。真琴ちゃんのお見舞いに来ていただけませんでしょうか?」
予想外のお願いに、香川は面食らった。
「お見舞いですか?それはもう、僕で良ければいくらでも」
秋田に言われるまでもなく、見舞いには来るつもりだった。つもりではいたが、いざ病室を訪ねる段になれば、ためらっていたのは間違いないだろう。
「本当ですか?良かった。彼女も喜びますよ。本当に良かった」
秋田は、まるで宝くじでも当たったみたいな喜びようで、また「良かった」を連発した。
「あの、一つお伺いしてもよろしいですか?」
「はい、何でもどうぞ」
「あの、彼女。山口さんの病気のことなんですけど、どんな症状なんですか?」
「ああ、それはまだ彼女からは?」
「ええ、聞いてません」
「そうですか」
秋田は何事か思案するように、細い顎に手を当てた。
「これは真琴ちゃんも知っていることなので、話しても問題ないと思います。それに、今後、香川さんが彼女と接する上で、知らなければならないことでもあるでしょうからね」
「はあ」
嫌な予感がした。秋田は人差し指でメガネを押し上げると、香川の顔を正面から見据えた。
「彼女の病名は、乳ガンです」




