第四話
「何年ぶりかしら?」
山口真琴は、そうつぶやいて、二人の間に横たわる歳月を指折り数えた。
「中学を卒業して以来だから、九年ぶりかな」
彼女の指は、鉛筆のように細かった。
「九年!もうそんなに経つのね」
真琴は、宝物でも見つけたみたいに、無邪気な笑顔を見せた。
ベンチに並んで座り、本当に久しぶりに、真琴の声を聞いた。
「香川くん、成人式に来なかったでしょ」
「ああ、そういえば。そうだね」
当時、香川には一生に一度の成人式より大事なものがあったのだろう。だが、今となっては、それが何かすら思い出せない。
「会えるの楽しみにしてたのになあ」
「ご、ごめん」
「もう五年も前の話よ。いいじゃない、今日こうやって再会できたんだから」
子供の頃も、痩せ気味の印象だったが、今の真琴は「痩せている」を通り越して「やつれている」様子だった。
笑顔を作るにも、いちいち「頑張っている」感じで、時折、深いため息のような吐息を漏らす。
「お仕事の途中?」
病院の中庭だと、場違いなスーツ姿は確かに目立つ。
「いや、ちょっと風邪ひいたみたいでね。仕事抜け出して診察に来たんだ」
薬を飲んでもいないのに、微熱も鼻水もなぜかすっかり改善されていた。
「そうなんだ。何のお仕事してるの?」
そう訊かれたものの、どうやって自分の仕事を簡潔に説明して良いやら分からなかった。
「あのね、オフィス設備のメンテナンスを担当するエンジニアをやってる、んだ、よ」
口をついて出たのは、自分でも聞いたことがない、意味不明な仕事だった。
「へえ、なんだか難しそうね。機械とかいじるの得意だったもんね」
確かに、中学の三年間、図画工作だけはオール5だったが、今の仕事にその特技はまるで活かされていない。
「山口さんは、何してるの?」
さっさと話題を変えるべく、会話の矛先を真琴に向けた。
「あたし?あたしは、ここに入院してるの」
「え、どこか悪いの?」
「ちょっとね。やっかいなのにつかまっちゃって」
彼女は、親指と人差し指でその「ちょっと」を表現した。
「入院する前は、保育士さんやってたのよ。あっ、別に辞めた訳じゃなくって、ちょっとお休みしているだけだけど」
「へえ、そうなんだ。じゃあ、中学の時の夢をかなえたって訳だね」
「えへへ、まあね」
真琴は得意げに、少しだけ胸を張った。
中学生の頃、彼女の夢は「幼稚園の保母さん」になることだった。時代が移り変わり、「保母さん」は「保育士さん」に変わったが、彼女の夢は変わらなかったようだ。
アップリケのついたエプロンを身にまとって、園児たちとお遊戯を踊る真琴の姿を想像してみた。
「何、にやけているの?」
真琴に言われて、はっと我に返る。
「いやいや、ちょっと妄想をね」
「うわあ、やらしい」
顔が熱い。恥ずかしさのあまり真っ赤になっていないかと心配だった。
「ホント、月日の流れるのなんて、あっと言う間よね」
真琴が空を見上げ、しみじみと言った。
「なに年寄りくさいこと言ってるんだよ。まだ、二十五だぞ、俺たち」
真琴が、ほんの一瞬、顔を強ばらせた。きゅっと唇を結び、目を閉じた。長いまつ毛が、小刻みに揺れる。何かを体内から絞り出すように、ゆっくりと長く息を吐いた。
「それはね、香川くん。明日も必ず太陽が昇ると確信している人の考え方だよ」
真琴が口にした言葉の意味が、香川にはよく分からなかった。
「えっ?それってどういう・・・」
「おーい、真琴ちゃん」
言い終わる前に、彼女を呼ぶ声が香川を遮った。
病棟の方から、白衣を着た男が小走りに近づいてくる。
色白でひょろりとした長身の男だった。フレームなしのメガネをかけていて、頭の左側が寝癖でぴょこんとはねている。
「あら、秋田先生。こんにちは」
真琴が胸の前で小さく手を振った。さっきまでの厳しい表情は、すっかり消え失せている。
「こんなところにいたの?」
医師は、真琴の前で立ち止まると、膝に手をついてぜーぜーと酸素をむさぼった。額には玉の汗が浮き出ている。
「ちょっと散歩って出ていったまま二時間も帰ってこないって、みんな探しているよ」
「あら、もうそんな時間?何か、予定あったっけ?」
「午後から検査だって、昨日言っておいただろ?」
「ああ、そういえば」
真琴は、わざとらしく、ぺろっと舌先を出した。
「まったく、これだもんなあ」
医師は言葉とは裏腹に、人の良さそうな笑顔を浮かべて、額の汗をぬぐった。
「先生。こちら、私の中学校の同級生で、香川誠さん」
「あっ、どうも。香川と申します」
真琴に紹介され、慌てて立ち上がりお辞儀をした。
「ああ、これはまたご丁寧に。私、真琴さんの担当医の秋田と申します」
秋田も深々と低頭する。背は高いが、腰は低いらしい。
「あれ?こちらもマコトさん、なんですか?」
秋田がお辞儀をしたまま、顔だけ正面を向いて言った。
「そうなのよ。彼は誠実の誠でマコト。同じ名前なの」
中学生時代は、それが大きな問題だった。お互い、名前で呼ぶと何だかややこしいので、他人行儀で嫌だったが、仕方なく名字で呼びあっていた。
「ああ、そうなんだ。へえ、面白いねえ」
元々の顔がそういう作りなのか、秋田の顔はいつまで経っても柔和な笑顔のままだった。
「ねえ、先生。検査行かないとでしょ?」
「ああ、そうだった。忘れるところだった」
真琴は、ベンチに手をついてゆっくりと立ち上がろうとした。香川が手を差し出そうとするより一瞬早く、秋田が真琴の身体を支えた。
「立てる?」
「うん、大丈夫」
真琴は、秋田の白衣をよじ登るようにして立ち上がると、「ふう」と大げさに息を吐いた。
「歩ける?」
秋田が前かがみになり、真琴の顔をのぞき込んだ。
「もーまんたいよ」
真琴はそう言って、サンダルを指にひっかけて歩き出した。
「じゃあ、香川くん。またゆっくりお話しましょうね」
真琴は、途中で思い出したように振り返り、骨ばった手を振った。
「うん、またね」
香川は立ち上がり、控えめに手を挙げて応えた。
真琴はまた歩き出す。秋田は一度会釈をして、真琴の横に寄り添い、支える様にして病棟の中に消えていった。
香川は、二人の関係が「患者と医者」以上のものであることを感覚的に悟った。
真琴のことは、よく分かっているつもりだった。
秋田に向けられた真琴の笑顔は、かつて自分に向けられていたものと同じ種類のものだった。
香川にとって真琴は、人生で初めての恋人だった。




