第三話
身体の節々が痛い。その原因が風邪なのか、それとも沼に落ちた時の打ち身なのかが判然としない。
休み明けの月曜日、なんとか会社には出勤したものの、微熱と鼻水が止まらない。どうにもこうにも仕事にならず、長野にも露骨に嫌な顔をされるので、昼前に所長に中抜けを願い出た。
「新天地の生活で疲れが出たんだろう」と所長は優しい声をかけてくれたが、原因が「頭のおかしい髭面のおっさんに、二十五メートルの高さから沼に落とされたこと」だとは言えない。
マイカーに乗って、近くの病院に向かった。
かつて水田だったという広大な土地に、白亜の要塞が如く、近代的な建物が建ち並んでいる。
私立総合医療福祉大学が、中之原にやってきたのは5年前だそうだ。広大で安価な敷地を求める新興私立大学と、過疎化や産業、雇用の減退に歯止めをかけたい自治体の思惑が一致した。
様々な分野を網羅した医療系の総合大学が出来たことで、学生が大量に町へ流入し、それに伴って雇用が大幅に増え、放置されていた土地は学生用アパートに姿を変えた。また、先進医療を備えた付属病院が併設されたことで、地域住民の医療環境も充実した。
中之原の「大学誘致で町おこし政策」は、一時、メディアでも取り上げられて話題になったらしい。
広々とした吹き抜けのロビーには、多くの老若男女がひしめき合っていた。まるでベルトコンベアに乗せられて、流れ作業のように診察を受け、結局「風邪ですね」と予想通りの診断をされた。
診察を受け、薬をもらうと、少し元気になったような気がした。となると急にタバコが吸いたくなり、喫煙所を探して院内をさまよった。
どうやら、隣の棟に移動しなければならないらしく、ぶつぶつと文句を言いながら、いったん外に出た。
そこは、四方を建物に囲まれた中庭だった。芝生広場の中を流れるように道が延びている。ところどころにベンチやパラソルがあり、その下で患者やその家族が談笑していた。パジャマ姿の女の子が、ピンク色の風船を追いかけて遊んでいる。
人の群れから少し離れた芝生の真ん中にベンチがあった。そこに一人の若い女性が座っていた。白いカーディガンと灰色のニットキャップ、ひざには花柄のブランケットをかけて、目を閉じている。
なぜか、そこだけが周囲より明るく見えた。まるで舞台の上で一人、カクテルライトを浴びるヒロインのようだ。
香川は、彼女を横目に見ながら、芝生を踏みしめて歩いた。ゆっくり、だが確実に、香川の足は、その女性に向かって行った。
何かに引きつけられるように、香川は彼女の前に立った。距離は十メートルもないだろう。
香川は、頭の奥の方がムズムズと動き出すのを感じていた。記憶の中に埋没した1枚の断片が、そこから這い出そうともがいている。
パン、と破裂音が響いた。風船で遊んでいた女の子が、破れたゴムの欠片を持って、泣いていた。
ふいに、柔らかい風が吹いた。
「香川、くん?」
名前を呼ばれた。声の方を向くと、ベンチの彼女がどんぐり型の目を大きく開いて、こちらを見ていた。
頭の中に、ピリッと電気が走った。脳からの指令は、いわゆる電気信号なのだという。香川の頭の中で、今まで使われていなかった回線に電気が通ったのかも知れない。
「もしかして、山口さん?」
香川は、声が震えないよう、喉に無駄な力を入れて言った。
彼女は、十年前と変わらない位置にえくぼを作って、「久しぶりね」とささやくように言った。




