第二話
ある条件を満たすと水の色が変わるから「二色沼」、巨大な錦鯉の主がいるから「錦沼」、村人を襲う二匹の鬼が住んでいたから「二死鬼沼」など、「ニシキ沼」の由来は諸説ある、らしい。
中之原町の北西、隣町との町境となっている山田山の中腹に、その沼はある。
人気のない森の中にたたずむ静かな沼だが、それを見下ろす高台にある展望台が自殺の名所と化しているらしい。
展望台から水面までは、およそ二十五メートル。沼の底には、粘着質の泥が数メートルの高さで堆積しているため、勢いよく沼に落ちた自殺志願者は、頭から泥につっこみ、抜けなくなってしまうそうだ。
かつては、知る人ぞ知る隠れ自殺スポットだったらしいが、昨今の大不況や高速道路の開通などで、ニシキ沼を終焉の地に選ぶ者が急増しているのだという。
自殺する気など毛頭ない。では、そんな気味の悪い場所に何の用があるのかと問われれば、「きっかけが欲しい」というのが理由になるのかも知れない。
大学の頃から小説を書き始め、何度か新人賞に応募した。良くて最終候補の一歩手前という地味な戦績だが、細々と続いている。小説執筆は、香川にとって、お金のかからない趣味であり、ささやかな夢といった存在だった。
応募しようと思っていたホラー系小説の新人賞の締め切りが、一ヶ月後に迫っていた。未だプロットはおろか、アイデアさえまとまっていない。正直、あせっていたところに、「ニシキ沼」の話を耳にした。怪奇スポットに行けば簡単に物語ができあがるなら楽で良いが、今は現状を少しでも変化させられる「きっかけ」が欲しかった。
そういう風に言い聞かせて家を出たが、実際のところは机の前で一向に進まない筆に思い悩むのが嫌だっただけなのかもしれない。
半分朽ち果てた案内板に書いてあった通り、そこから五分ほどで展望台に到着した。
色あせた東屋と木製のベンチが並んでいるだけの簡素な展望台だ。胸元くらいまでの鉄製の手すりがあり、その先は断崖絶壁だった。
正直、高いところは苦手だが、腰が引けながらも手すりを握った。
風もない穏やかな日だ。水面に動きはなく、晴れ渡った空と雲を映す鏡のようになっている。
この手すりを乗り越えて、何人もの悩める者が身を投げたのだ。
香川は霊感の類を、これっぽっちも持ち合わせていなかった。中学校の修学旅行では、同じ部屋にとまった全員が座敷童を目撃したと言っていたのに、香川だけは、その後ろ姿すら見られなかった。
少しだけ勇気を出して、手すりに寄りかかってみる。上半身を折って、首を伸ばし、真下をのぞき込む。
両足の膝の辺りを、何かに捕まれた。と思った瞬間、香川の体は宙を舞っていた。
何かを考える余地もなく、香川は水面を突き破って沼に落ちた。無数に生まれた水泡が、香川を包み込むようにして上昇していく。耳鳴りがして、鼻に水が入った。空気を求めてあえいだら、たらふく水を飲んだ。
わき出る涙に目をつむった。ああ、死ぬのかなと思った瞬間、襟首を捕まれ、ものすごい力で引っ張られた。
やがて、顔が水面に出た。日差しを真上から浴び、顔をしかめる。
体は勝手に水の中を進み、やがて岸に上がった。水揚げされたマグロのように、引きずられていく。頭が重かった。すべての知覚がぼんやりしていて、ひどく眠い。
「うおーい。生きてるか?」
遠くで声が聞こえた。野太い男の声だった。
薄目を開けると、目の前に黒い毛玉があった。だんだんと近づいてくる。唇に触れようかという間際で、それが「髭面」であることにはたと気がついた。
香川は身をよじって転がり、近づいてくる髭面を回避した。勢いそのままに立ち上がろうと上体を起こしたが、立ちくらみがして膝をついた。
「おっ、生き返った」
髭面は、日焼けした顔にしわを作って笑っていた。見事なM字型を作っている頭髪とたわしのように堅そうな髭。ぐっしょりと塗れた作務衣の胸元からは、ちぢれにちぢれた胸毛が飛び出している。体躯は小さく手足は短いが、がっしりとしていて安定感は抜群だった。
「いったい、何がどうなってるんですか?」
香川は絞り出すように言った。声を出すと、胸がつぶされるように痛んだ。
「何がって、お前。落ちたのさ、あそこから」
髭面は、にたにたとした笑みを貼り付けたまま、フランクフルトみたいな太い指で上を指した。
指先からずっと上を見ると、岩肌の露出した断崖が空へと続き、その先端に、さきほどまで自分が立っていたはずの展望台が見えた。今になって、背筋をじわじわと冷たいものが通り過ぎていく。
「俺、落ちたんですか?」
「ああ、落ちた。正確に言えば、落とされた」
「落とされた?誰に?」
「誰にって、俺に」
髭面は、今度は太い指で自分の丸い団子鼻を指した。
香川は、混乱した。髭面の男は、香川が展望台から「落とされた」と言い、落としたの自分だと言う。それは、いったいどういうことなのか?
だが確かに、沼に落ちる直前、自分の足をつかむ、あの毛むくじゃらの太い腕を見た記憶がある。
「な、なんでそんなことするんですか?」
話して分かるような常識人とも思えなかったが、他に言葉が出てこなかった。
「いいだろ?ちゃんと助けたんだから」
髭面は飄々と言って、犬のように体をふるわせ、体についた水分を飛ばした。
男は全身ずぶ濡れだった。よく考えてみれば、二十五メートルも上から香川を落とした張本人が、その人間を沼から引っ張りあげられる訳がない。出来るとしたら、それは「本人も一緒に飛び降りた場合」だろう。
「あんた、頭、おかしいんじゃないの?」
一刻も早くこの男から離れないと危険だと、本能が警鐘を鳴らしていた。香川は周囲を見回して帰り道を探したが、林が広がるばかりで抜け道すらない。
正面に向き直ると、すぐそこに髭面が立っていて、しっぽを踏まれた猫のように飛び上がった。
「どうだ、今の気分は?」
髭面がつぶやいた。
「は?何言ってんの?」
「死を間近に感じてこそ、生の重みが理解できるというものだ。お前の身体と心は、今、生を取り戻した喜びで満ちあふれているはずだ」
香川は、髭面の発する圧力に押されるように、後ずさった。踵で踏んだ枯れ枝が、パキンと場違いな軽い音を立てた。
「生が欲しいだろ?」
「いったい、何がしたいんですか?もしかして、健康食品のセールス?こんなところで?」
「売るんじゃない。お前にやろうって言ってるんだ」
「何をくれるんですか?いりませんよ何にも」
背中が巨大な岩にぶつかった。髭面の血走った目が、香川を正面から射ぬいた。
「お前にくれてやろうと言ってるんだ。永遠の命を」




