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明日の僕から、君を嫌いになれと届いた  作者: きびだんご


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9/18

残らなかった録音

「帰る?」


 僕が聞くと、律は川を見たまま首を振った。


「今日は、もう少し一緒におる」


 安心した自分が嫌だった。

 人の大事なものを傷つけて、まだ一緒にいると言ってもらえたことに安心していた。


「メールのせい?」

「それもある」


 それも、だった。

 全部ではないと言われたのに、どれだけがメールのせいなのかを考えた。


 削除する操作は、あっけなく終わった。

 イヤホンには何も流れていない。それなのに僕は、片耳に入れたままのものをすぐに外せなかった。

 律が手を差し出し、僕はようやくコードを返した。


 昨日、僕たちは窓を閉める音が大きすぎると言って、何度もやり直した。

 ドアの蝶番が鳴るから、出入りのたびに録音を止めた。僕が指を休めている間、律は椅子の脚の位置に小さな印をつけた。

 消えたのは、演奏した数分だけではなかった。


「昨日の時間、無駄になったね」


 僕が言うと、律はしばらく黙った。


「今、それを俺に慰めさせんといて」


 僕は口を閉じた。

 そんなことないよ、と言わせたかったのだと気づいた。

 自分でしたことなのに、相手に軽くしてもらおうとしていた。


 律は鞄のファスナーを閉めた。


「俺も説明せんかった。そこは変わらん。でも、録るために考えたことまで無駄って、今は言いたくない」


 僕は頷いた。

 頷いたからといって、律の気持ちが分かったわけではなかった。

 僕なら、消してほしくなかったと怒鳴るかもしれない。相手が頼んだ曲を二度と弾かないと決めるかもしれない。

 律は今、そのどれも言わず、ただ自分の鞄を足元へ置いていた。


 それを優しさだけで済ませることも、僕の都合なのだろう。

 怒っているまま隣にいる人に、怒っていない顔を求めてはいけない気がした。


 律は再生機を鞄にしまった。


「湊、さっきのは、きつかった」


 僕は膝の上の手を見た。


「説明せんかったのは俺が悪い。でも、学びたいことまで、そんなふうに言われるのは嫌や」

「……うん」

「音、消してって言うのは、お前が決めてええ。でも、それで俺の進路もなくなるわけちゃうから」


 風が吹いて、川の表面に小さな筋ができた。


 分かっている、と言いかけた。

 分かっている人間は、あんな言い方をしなかったかもしれない。


「別の作品、作るの?」

「作る」

「僕なしで?」


 律はしばらく黙った。


「今、その聞き方に、安心する返事はできん」


 僕は頷いた。

 頷くだけで精いっぱいだった。


 川の向こうを自転車が走っていった。

 赤い上着の子どもが先に進み、大人が後ろから何か声をかけていた。言葉までは聞こえなかった。

 僕はそんな景色を見ている自分が不思議だった。

 律と決定的に駄目になる瞬間は、もっと何も見えなくなるのだと思っていた。

 実際には、どこかで鳩が鳴き、袖口に糸くずがついていて、それを指で摘まむ余裕まであった。


 律が立ち上がった。

 僕は反射的に顔を上げた。


「手、洗ってくる。あそこ」


 少し先の公園の建物を指した。


「一緒に行く?」

「俺ひとりでええよ。すぐ戻る」


 僕は座ったままでいた。

 律が数歩離れると、呼び止めたくなった。帰らないよね、と聞きたくなった。

 でも行き先は聞いた。姿も見えていた。

 僕の不安をなくすために、ずっと同じベンチに座らせる理由はなかった。


 膝に両手を置き、車道を渡っていないことを確かめるのもやめた。

 すぐにまた見てしまった。

 見ないと決めるだけでは、変わらなかった。


 律が戻ってきたとき、僕は「ありがとう」と言いかけた。

 戻ってきてくれたことに礼を言えば、少しは楽になれる気がした。

 でも律は手を洗って戻っただけだった。


「寒くなってきたね」


 僕は別のことを言った。


「せやな。日、陰ってきた」


 律はベンチへ座り直した。

 肩と肩の間には、少し隙間があった。

 その隙間を埋めなくても、同じ場所に座ることはできた。


 スマホが震え、僕は反射的に取り出した。

 研究室から、施設点検が継続しているという短い連絡だった。原因についてはまだ確定していない。今日は会館へ近づかずに過ごしてほしい、とあった。

 律にも同じ連絡が届いた。


 2人で確認し、スマホをしまう。

 命に関わることには、こんなに素直に同じ方を向ける。

 それ以外では、僕は律がどちらを向いているかばかり気にしている。


「僕さ」


 声が掠れた。


「選抜、落ちてから、練習してない」


 律がこちらを見た。


「昨日、弾いてたやん」

「律に頼まれたところだけ。それ以外、ほとんど」


 会館に行く理由がなければ、ピアノに触らない日もあった。

 楽譜を開こうとすると、通知の丁寧な文章が頭に浮かんだ。評価を聞くのが怖くて、担当の先生からの面談案内にも返事をしていなかった。


 落ちた翌日、僕は大学の練習室まで行った。

 予約した番号の部屋へ入り、椅子の高さを調整した。楽譜を開き、最初の指を鍵盤へ置いた。

 廊下の向こうから、選抜に通った学生の曲が聞こえた。

 僕が選んだものとは違う曲だった。誰が弾いているかも見ていなかった。

 それでも、自分より必要とされた人の音に聞こえた。


 ひとつ音を出すと、今から何を直しても、あの日の結果は変わらないと思った。

 それは当たり前だった。

 練習は過去の結果を変えるためにするものではないと、いつもなら分かったはずだった。


 僕は10分ほどで部屋を出た。

 受付で鍵を返すと、もう終わりですかと聞かれ、少し用事ができて、と答えた。

 用事はなかった。

 帰りにコンビニへ寄り、何を買うか決められずに一周した。


 律から録音の日程が届いたのは、その晩だった。

 画面を見て、初めてその日、自分がやることを決められた。


「律からの頼みなら、落ちることないと思ってたのかも」


 僕は言った。


「上手く弾けたら、ありがとうって言ってもらえる。知らない人に選んでもらわなくてもいい」


 律はしばらく何も言わなかった。


「俺も、よかったところしか言わん日、あった」

「うん」

「励ますつもりやったけど、そう受け取ってたんやな」


 慰めてもらったことまで間違いだったとは思いたくなかった。

 でも、そこにしか行けなくなっているのなら、僕は別の場所にも戻らなければならないのだと思った。


 律が頼んだ曲だけは、弾けた。

 僕を待っている人がいると思えたから。


「言ってくれたらよかったのに」

「言ったら、もう頼んでもらえなくなると思った」


 律は、そんなことない、とすぐには言わなかった。

 その沈黙が、今は少しありがたかった。


 僕はスマホをもう一度出した。

 メールの全文を開いた。

 最後の一文が、朝と変わらずそこにあった。


「見せてないところがある」


 画面を握ったまま、僕は言った。

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