残らなかった録音
「帰る?」
僕が聞くと、律は川を見たまま首を振った。
「今日は、もう少し一緒におる」
安心した自分が嫌だった。
人の大事なものを傷つけて、まだ一緒にいると言ってもらえたことに安心していた。
「メールのせい?」
「それもある」
それも、だった。
全部ではないと言われたのに、どれだけがメールのせいなのかを考えた。
削除する操作は、あっけなく終わった。
イヤホンには何も流れていない。それなのに僕は、片耳に入れたままのものをすぐに外せなかった。
律が手を差し出し、僕はようやくコードを返した。
昨日、僕たちは窓を閉める音が大きすぎると言って、何度もやり直した。
ドアの蝶番が鳴るから、出入りのたびに録音を止めた。僕が指を休めている間、律は椅子の脚の位置に小さな印をつけた。
消えたのは、演奏した数分だけではなかった。
「昨日の時間、無駄になったね」
僕が言うと、律はしばらく黙った。
「今、それを俺に慰めさせんといて」
僕は口を閉じた。
そんなことないよ、と言わせたかったのだと気づいた。
自分でしたことなのに、相手に軽くしてもらおうとしていた。
律は鞄のファスナーを閉めた。
「俺も説明せんかった。そこは変わらん。でも、録るために考えたことまで無駄って、今は言いたくない」
僕は頷いた。
頷いたからといって、律の気持ちが分かったわけではなかった。
僕なら、消してほしくなかったと怒鳴るかもしれない。相手が頼んだ曲を二度と弾かないと決めるかもしれない。
律は今、そのどれも言わず、ただ自分の鞄を足元へ置いていた。
それを優しさだけで済ませることも、僕の都合なのだろう。
怒っているまま隣にいる人に、怒っていない顔を求めてはいけない気がした。
律は再生機を鞄にしまった。
「湊、さっきのは、きつかった」
僕は膝の上の手を見た。
「説明せんかったのは俺が悪い。でも、学びたいことまで、そんなふうに言われるのは嫌や」
「……うん」
「音、消してって言うのは、お前が決めてええ。でも、それで俺の進路もなくなるわけちゃうから」
風が吹いて、川の表面に小さな筋ができた。
分かっている、と言いかけた。
分かっている人間は、あんな言い方をしなかったかもしれない。
「別の作品、作るの?」
「作る」
「僕なしで?」
律はしばらく黙った。
「今、その聞き方に、安心する返事はできん」
僕は頷いた。
頷くだけで精いっぱいだった。
川の向こうを自転車が走っていった。
赤い上着の子どもが先に進み、大人が後ろから何か声をかけていた。言葉までは聞こえなかった。
僕はそんな景色を見ている自分が不思議だった。
律と決定的に駄目になる瞬間は、もっと何も見えなくなるのだと思っていた。
実際には、どこかで鳩が鳴き、袖口に糸くずがついていて、それを指で摘まむ余裕まであった。
律が立ち上がった。
僕は反射的に顔を上げた。
「手、洗ってくる。あそこ」
少し先の公園の建物を指した。
「一緒に行く?」
「俺ひとりでええよ。すぐ戻る」
僕は座ったままでいた。
律が数歩離れると、呼び止めたくなった。帰らないよね、と聞きたくなった。
でも行き先は聞いた。姿も見えていた。
僕の不安をなくすために、ずっと同じベンチに座らせる理由はなかった。
膝に両手を置き、車道を渡っていないことを確かめるのもやめた。
すぐにまた見てしまった。
見ないと決めるだけでは、変わらなかった。
律が戻ってきたとき、僕は「ありがとう」と言いかけた。
戻ってきてくれたことに礼を言えば、少しは楽になれる気がした。
でも律は手を洗って戻っただけだった。
「寒くなってきたね」
僕は別のことを言った。
「せやな。日、陰ってきた」
律はベンチへ座り直した。
肩と肩の間には、少し隙間があった。
その隙間を埋めなくても、同じ場所に座ることはできた。
スマホが震え、僕は反射的に取り出した。
研究室から、施設点検が継続しているという短い連絡だった。原因についてはまだ確定していない。今日は会館へ近づかずに過ごしてほしい、とあった。
律にも同じ連絡が届いた。
2人で確認し、スマホをしまう。
命に関わることには、こんなに素直に同じ方を向ける。
それ以外では、僕は律がどちらを向いているかばかり気にしている。
「僕さ」
声が掠れた。
「選抜、落ちてから、練習してない」
律がこちらを見た。
「昨日、弾いてたやん」
「律に頼まれたところだけ。それ以外、ほとんど」
会館に行く理由がなければ、ピアノに触らない日もあった。
楽譜を開こうとすると、通知の丁寧な文章が頭に浮かんだ。評価を聞くのが怖くて、担当の先生からの面談案内にも返事をしていなかった。
落ちた翌日、僕は大学の練習室まで行った。
予約した番号の部屋へ入り、椅子の高さを調整した。楽譜を開き、最初の指を鍵盤へ置いた。
廊下の向こうから、選抜に通った学生の曲が聞こえた。
僕が選んだものとは違う曲だった。誰が弾いているかも見ていなかった。
それでも、自分より必要とされた人の音に聞こえた。
ひとつ音を出すと、今から何を直しても、あの日の結果は変わらないと思った。
それは当たり前だった。
練習は過去の結果を変えるためにするものではないと、いつもなら分かったはずだった。
僕は10分ほどで部屋を出た。
受付で鍵を返すと、もう終わりですかと聞かれ、少し用事ができて、と答えた。
用事はなかった。
帰りにコンビニへ寄り、何を買うか決められずに一周した。
律から録音の日程が届いたのは、その晩だった。
画面を見て、初めてその日、自分がやることを決められた。
「律からの頼みなら、落ちることないと思ってたのかも」
僕は言った。
「上手く弾けたら、ありがとうって言ってもらえる。知らない人に選んでもらわなくてもいい」
律はしばらく何も言わなかった。
「俺も、よかったところしか言わん日、あった」
「うん」
「励ますつもりやったけど、そう受け取ってたんやな」
慰めてもらったことまで間違いだったとは思いたくなかった。
でも、そこにしか行けなくなっているのなら、僕は別の場所にも戻らなければならないのだと思った。
律が頼んだ曲だけは、弾けた。
僕を待っている人がいると思えたから。
「言ってくれたらよかったのに」
「言ったら、もう頼んでもらえなくなると思った」
律は、そんなことない、とすぐには言わなかった。
その沈黙が、今は少しありがたかった。
僕はスマホをもう一度出した。
メールの全文を開いた。
最後の一文が、朝と変わらずそこにあった。
「見せてないところがある」
画面を握ったまま、僕は言った。




