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明日の僕から、君を嫌いになれと届いた  作者: きびだんご


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8/18

僕の音を持っていくな

 喫茶店を出たのは、午後3時前だった。

 長く座りすぎて、足が少し重かった。


 駅とは反対側の川沿いへ歩いた。会館へは向かわない。研究室から連絡が来れば出る。互いのスマホを鳴るようにしておく。

 それだけ決めた。


 歩き出してすぐ、律の鞄から金具が鳴った。

 いつもなら僕が持つ方を聞いた。今日は口を開く前に、律が自分で肩紐を直した。

 断られたわけではなかった。

 それなのに、持たせてもらえない、という言葉が頭に浮かんだ。


 川までの道には、小さな楽器店があった。

 ショーウィンドーの譜面台に、新しい曲集が並んでいた。律が足を緩め、僕も止まった。


「これ、小さいころ弾いたやつ入ってる」


 律が表紙を指した。

 連弾の曲集だった。

 僕は少し覗き込んだ。手の届かないガラスの向こうで、見覚えのある題名が一列に並んでいた。


「律、最後、いつも先に終わってた」

「お前が速く弾くからやろ」

「僕のせい?」

「半分ぐらい」


 昔のことで笑えた。

 そのまま店へ入ってしまえば、今日の話をせずに済む気がした。

 懐かしい曲を選び、昔の失敗を言い合い、暗くなるまで過ごす。未来の僕も、遠い大学も、ガラスの外へ置いていける。


 律は店に入らなかった。


「そろそろ歩こか」


 僕は頷いた。

 昔の話ができることと、昔のままでいてもらえることは違った。


 川沿いには、犬を連れた人が何人かいた。

 飼い主の少し前を歩いていた犬が、地面の匂いを嗅ぐために止まった。人も止まった。急かさず、リードを引かず、手元の袋を直して待っていた。

 僕は何となく、その2人を追い越すのをゆっくりにした。

 律も隣で歩調を落とした。


 遊歩道のベンチで、律は録音用の小さな機械を取り出した。

 僕が見たので、律は説明した。


「昨日のデータ、こっちにもある。提出するなら、どんな形にするか聴いてもらおうと思って」

「今?」

「嫌やったら、やめる」


 僕は少し迷ってから、差し出されたイヤホンの片方を受け取った。


 会館の窓が閉まる音。

 椅子を引く音。

 僕が、いくよ、と言う声。


 ピアノが始まると、その前の雑音が部屋の奥行きに変わった。

 古い音楽室の少し乾いた響きが、イヤホンの中に残っていた。

 演奏だけを聴いていた昨日とは違った。


 僕は初め、自分の間違いを探していた。

 3小節目の内声が弱い。低音が少し強い。録り直せば直せるところばかりが耳についた。

 律は、そこではなく、最初の息を吸うところを指した。


「今の、部屋が静かになってから音が来るやろ」

「うん」

「そこを残したかった」


 録音の中では、僕が椅子に座り直すと、廊下の足音が遠ざかっていった。

 誰かが通り過ぎ、僕はその音が小さくなるまで待っていたらしい。

 弾いている自分には覚えがなかった。

 待ってから出した最初の音は、普段より少し柔らかかった。


「昨日、最初のところだけ何回もやったの、これ?」

「そう。一番上手く弾けた回と、部屋の感じが一番ええ回が違うねん。どっちにするか迷ってた」


 律が制作のことで迷っている顔を、僕はよく知っていた。

 でも僕の音以外にも選ぶものがあるのだと、ちゃんと考えたことはなかった。


「別の回をつなげれば?」

「できる。けど、この作品では、ひと続きでそこで鳴った時間をなるべく残したい。提出する説明にもそう書くつもり」


 律は再生位置を戻した。

 選んだ理由を説明する声が、いつもより明るかった。


 録音の最後に、僕が鍵盤から手を上げる音が入っていた。

 そのあとも、部屋は終わらなかった。廊下の誰かが笑い、空調が低く鳴り、遠くで扉が閉まった。

 会館には僕たち以外の人もいた。当たり前なのに、自分の演奏だけを聴いていると消えてしまう人たちだった。


「残したいって、そういうことなんだ」


 僕が言うと、律が少しだけこちらへ身体を向けた。


「そう。全部は残せんけど」


 たぶん、そのまま話を聞いていればよかった。

 律が見つけたものを、僕も見つけ始めていた。

 けれど次の瞬間には、向こうの大学でこういう説明をする律を想像していた。僕の知らない人に、今の明るい声で。


「こういうの、作りたいんだ」

「うん」


 律が嬉しそうに頷いた。

 僕はその顔を見て、どうしようもなく寂しくなった。

 僕が弾いたものなのに、もう僕の知らない作品になりかけていた。


「向こう行ったら、ほかの人にも弾いてもらうんだよね」

「そら、そういう機会はあると思う」

「僕じゃなくても、いいんだ」


 音楽がまだ流れていた。

 昨日の僕は、今の僕よりずっと迷いなく弾いていた。


 律は再生を止めた。


「この録音は、湊に頼みたかった」

「でも、次は違うんでしょ」

「湊も、俺に録ってもらうためだけに弾いてるわけちゃうやろ」


 答えられなかった。

 そのつもりだった。少なくとも選抜の結果が来る前は。


「こんなのに使うって分かってたら、弾かなかった」


 言葉が出たあとで、律の手が止まった。


「こんなの?」


 僕は言い直せなかった。

 律はイヤホンをゆっくり巻いた。


「分かった。このデータは提出せえへん」

「そういうことじゃなくて」

「使用の同意は、そういうことやから」


 律の声は震えていなかった。

 それが余計に怖かった。


「消して」


 気づいたら、言っていた。


「僕の音、全部」


 律は僕を見た。

 どうして、とは聞かなかった。


「提出用に渡した分は、まだない。俺の持ってる録音とコピーは消せる」


 確認する言葉の丁寧さが、距離に聞こえた。


 律は削除画面をすぐには開かなかった。


「一回、使用を止めるだけにすることもできるで。今日決めずに、しばらく置いとくとか」


 僕には逃げ道をくれたのだと思う。

 取り返しのつくところで止まれるように。

 それを、録音を手放したくないから交渉しているのだと受け取った。


「そんなに必要なんだ」

「大事に録ったから、消す前に確認してる」


 律の眉が寄った。


「湊が嫌なら提出せえへん。それはもう決めた。残すのも嫌なのか、そこを聞いてる」


 僕は、必要だと言ってほしかった。

 録音ではなく、僕が。

 そんな答えを出させるために、相手の作品を人質みたいに扱っていると、まだ認めたくなかった。


「残すのも嫌」


 律は視線を落とした。


「分かった。今ここにある分を消す。家のパソコンに置いた保存用の分は、帰ってから消す。誰かに渡した分はない」


 具体的に説明されると、急に本当になる気がした。

 やめて、と言うなら、そのときだった。

 僕は言わなかった。

 僕はここでやめればよかった。

 それでも頷いた。


 律は画面を操作した。

 昨日の波形が、一覧から消えた。


 引き止めるために言ったはずなのに、律の手の中から自分がいなくなった。

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