僕の音を持っていくな
喫茶店を出たのは、午後3時前だった。
長く座りすぎて、足が少し重かった。
駅とは反対側の川沿いへ歩いた。会館へは向かわない。研究室から連絡が来れば出る。互いのスマホを鳴るようにしておく。
それだけ決めた。
歩き出してすぐ、律の鞄から金具が鳴った。
いつもなら僕が持つ方を聞いた。今日は口を開く前に、律が自分で肩紐を直した。
断られたわけではなかった。
それなのに、持たせてもらえない、という言葉が頭に浮かんだ。
川までの道には、小さな楽器店があった。
ショーウィンドーの譜面台に、新しい曲集が並んでいた。律が足を緩め、僕も止まった。
「これ、小さいころ弾いたやつ入ってる」
律が表紙を指した。
連弾の曲集だった。
僕は少し覗き込んだ。手の届かないガラスの向こうで、見覚えのある題名が一列に並んでいた。
「律、最後、いつも先に終わってた」
「お前が速く弾くからやろ」
「僕のせい?」
「半分ぐらい」
昔のことで笑えた。
そのまま店へ入ってしまえば、今日の話をせずに済む気がした。
懐かしい曲を選び、昔の失敗を言い合い、暗くなるまで過ごす。未来の僕も、遠い大学も、ガラスの外へ置いていける。
律は店に入らなかった。
「そろそろ歩こか」
僕は頷いた。
昔の話ができることと、昔のままでいてもらえることは違った。
川沿いには、犬を連れた人が何人かいた。
飼い主の少し前を歩いていた犬が、地面の匂いを嗅ぐために止まった。人も止まった。急かさず、リードを引かず、手元の袋を直して待っていた。
僕は何となく、その2人を追い越すのをゆっくりにした。
律も隣で歩調を落とした。
遊歩道のベンチで、律は録音用の小さな機械を取り出した。
僕が見たので、律は説明した。
「昨日のデータ、こっちにもある。提出するなら、どんな形にするか聴いてもらおうと思って」
「今?」
「嫌やったら、やめる」
僕は少し迷ってから、差し出されたイヤホンの片方を受け取った。
会館の窓が閉まる音。
椅子を引く音。
僕が、いくよ、と言う声。
ピアノが始まると、その前の雑音が部屋の奥行きに変わった。
古い音楽室の少し乾いた響きが、イヤホンの中に残っていた。
演奏だけを聴いていた昨日とは違った。
僕は初め、自分の間違いを探していた。
3小節目の内声が弱い。低音が少し強い。録り直せば直せるところばかりが耳についた。
律は、そこではなく、最初の息を吸うところを指した。
「今の、部屋が静かになってから音が来るやろ」
「うん」
「そこを残したかった」
録音の中では、僕が椅子に座り直すと、廊下の足音が遠ざかっていった。
誰かが通り過ぎ、僕はその音が小さくなるまで待っていたらしい。
弾いている自分には覚えがなかった。
待ってから出した最初の音は、普段より少し柔らかかった。
「昨日、最初のところだけ何回もやったの、これ?」
「そう。一番上手く弾けた回と、部屋の感じが一番ええ回が違うねん。どっちにするか迷ってた」
律が制作のことで迷っている顔を、僕はよく知っていた。
でも僕の音以外にも選ぶものがあるのだと、ちゃんと考えたことはなかった。
「別の回をつなげれば?」
「できる。けど、この作品では、ひと続きでそこで鳴った時間をなるべく残したい。提出する説明にもそう書くつもり」
律は再生位置を戻した。
選んだ理由を説明する声が、いつもより明るかった。
録音の最後に、僕が鍵盤から手を上げる音が入っていた。
そのあとも、部屋は終わらなかった。廊下の誰かが笑い、空調が低く鳴り、遠くで扉が閉まった。
会館には僕たち以外の人もいた。当たり前なのに、自分の演奏だけを聴いていると消えてしまう人たちだった。
「残したいって、そういうことなんだ」
僕が言うと、律が少しだけこちらへ身体を向けた。
「そう。全部は残せんけど」
たぶん、そのまま話を聞いていればよかった。
律が見つけたものを、僕も見つけ始めていた。
けれど次の瞬間には、向こうの大学でこういう説明をする律を想像していた。僕の知らない人に、今の明るい声で。
「こういうの、作りたいんだ」
「うん」
律が嬉しそうに頷いた。
僕はその顔を見て、どうしようもなく寂しくなった。
僕が弾いたものなのに、もう僕の知らない作品になりかけていた。
「向こう行ったら、ほかの人にも弾いてもらうんだよね」
「そら、そういう機会はあると思う」
「僕じゃなくても、いいんだ」
音楽がまだ流れていた。
昨日の僕は、今の僕よりずっと迷いなく弾いていた。
律は再生を止めた。
「この録音は、湊に頼みたかった」
「でも、次は違うんでしょ」
「湊も、俺に録ってもらうためだけに弾いてるわけちゃうやろ」
答えられなかった。
そのつもりだった。少なくとも選抜の結果が来る前は。
「こんなのに使うって分かってたら、弾かなかった」
言葉が出たあとで、律の手が止まった。
「こんなの?」
僕は言い直せなかった。
律はイヤホンをゆっくり巻いた。
「分かった。このデータは提出せえへん」
「そういうことじゃなくて」
「使用の同意は、そういうことやから」
律の声は震えていなかった。
それが余計に怖かった。
「消して」
気づいたら、言っていた。
「僕の音、全部」
律は僕を見た。
どうして、とは聞かなかった。
「提出用に渡した分は、まだない。俺の持ってる録音とコピーは消せる」
確認する言葉の丁寧さが、距離に聞こえた。
律は削除画面をすぐには開かなかった。
「一回、使用を止めるだけにすることもできるで。今日決めずに、しばらく置いとくとか」
僕には逃げ道をくれたのだと思う。
取り返しのつくところで止まれるように。
それを、録音を手放したくないから交渉しているのだと受け取った。
「そんなに必要なんだ」
「大事に録ったから、消す前に確認してる」
律の眉が寄った。
「湊が嫌なら提出せえへん。それはもう決めた。残すのも嫌なのか、そこを聞いてる」
僕は、必要だと言ってほしかった。
録音ではなく、僕が。
そんな答えを出させるために、相手の作品を人質みたいに扱っていると、まだ認めたくなかった。
「残すのも嫌」
律は視線を落とした。
「分かった。今ここにある分を消す。家のパソコンに置いた保存用の分は、帰ってから消す。誰かに渡した分はない」
具体的に説明されると、急に本当になる気がした。
やめて、と言うなら、そのときだった。
僕は言わなかった。
僕はここでやめればよかった。
それでも頷いた。
律は画面を操作した。
昨日の波形が、一覧から消えた。
引き止めるために言ったはずなのに、律の手の中から自分がいなくなった。




