先に言えなかったこと
「引き止めてほしい?」
言ってから、違う、と自分で思った。
引き止めたいのは僕の方だった。
律はカップを置いた。
「ほしくない」
即答だった。
その強さに、僕は少しだけ腹が立った。
「じゃあ、決まってから言えばよかったじゃん」
「決まってから言ったら、相談してほしかったって思わん?」
図星だった。
僕は窓の外を見た。人は普通に歩いていた。17時すぎに会館が燃えるかもしれないことも、律がこの街からいなくなるかもしれないことも、知らない足取りだった。
店の入口で、学生らしい2人が待っていた。
片方がスマホを見せると、もう片方が笑って肩をぶつけた。
僕たちも外から見たら、あんなふうだったのだろうか。
次に何を話すか考えなくても、相手がそこにいると思っていた。
「ずっとこっちにおるって、約束してへんやろ」
律が言った。
僕は窓から目を戻した。
「分かってるよ」
「でも、今、破ったみたいな顔してる」
返せる言葉がなかった。
紙に書いたことも、口にしたこともない約束を、僕は律と結んだつもりになっていた。
来月も同じ会館に行く。来年も同じ駅で会う。僕が落ちたら話を聞いてもらう。律が録りたくなったら僕が弾く。
それが続くことを、一度も確認していなかった。
「卒業したら、別々になるとは思ってた」
「うん」
「でも、まだ2年あると思ってた」
初めて言った、言い訳ではない言葉だった。
律は紙の端から指を離した。
「早いと思うよな」
僕は頷いた。
いつか終わると分かっているものでも、今日終わる準備はできていない。
まして律は、僕が気づく前から準備していた。
同じ場所から一緒に歩き始めたと思っていたのに、律の方がずっと先で荷物を整えていたような気がした。
「許可がほしいんやないねん」
律は言った。
「でも、湊に黙って準備進めてるの、嫌やった」
「進めてたじゃん」
「うん。やから今、話してる」
沈黙した。
律は言葉を探していた。今度は僕にも、それが分かった。
「嫌われたくなかったんやと思う」
心臓が一度、大きく打った。
「僕に?」
「ほかに誰おるねん」
律は笑おうとして、やめた。
「お前が落ち込んでるときに、自分だけ次の話するの、薄情かなって。でも結局、怒られるのを先延ばしにしただけやった」
「僕が落ちたこと、そんなに気を遣わせてた?」
律はすぐには答えなかった。
「いつもより、大丈夫って言うの早かったから」
僕はカップへ目を落とした。
「湊、嫌なことあると、先にこっちの用事聞くやろ。録音どうなったとか、課題終わったとか。聞いたら助かる返事をしてくれるんやけど、お前の話に戻る前に終わる」
覚えがあった。
訊かれたことに答えるより、相手に必要なものを渡す方が楽だった。
役に立っている間は、落選した僕について話さなくて済む。
「そんなん、言えばよかったじゃん」
「言おうとしたことはある。でも、俺も助かる方に乗った」
律は自分の手を見た。
「頼んだらやってくれるから、頼んだ。お前が無理してへんって言ったら、それ以上聞かんかった。だから俺だけ何も知らんかった顔はできん」
僕は否定しかけた。
僕が隠していたのだから律は悪くない、と言えば、この話を閉じられる。
でも律は、自分を責めてほしいのではなく、自分がしたことも話そうとしていた。
僕たちはお互いに、相手が言いやすい方へ少しずつずれていた。
それで仲良くやれていると思っていた。
ずれたまま歩いていた距離が、今日、知らない大学の名前になって目の前へ出てきた。
「怒ったら、嫌われると思った?」
「俺が?」
「うん」
律は考えた。
「思った。湊に嫌やって言うより、自分で何とかする方が早いときもあった」
僕は聞きたくないのに、続きを聞いた。
「例えば?」
「録音止めるタイミング。まだ部屋の音欲しいのに、お前が先に喋り始めるとき。あとで切ればええかって、言わんかった」
僕には細かすぎることに思えた。
でも律にとって大事な数秒を、僕は何度も知らずに終わらせていた。
言わなくても分かる仲だという思い込みは、分からないままにしてきたことの別の呼び方かもしれなかった。
もう律を嫌いになれ。
未来の僕は、この話を聞いたのだろうか。
遠くへ行くのを止められなくて、それでも火の中へ戻ったのだろうか。
僕の知らない昨日と明日が、目の前の律に重なった。
「律は、僕が止めると思ったんだ」
「分からん。俺が勝手に怖がった」
「止めないよ」
律が顔を上げた。
僕はその目を見て言った。
「律が決めることだし」
正しいことを言ったつもりだった。
言ったあとの胸が少しも軽くならなかったのは、それで話を終わらせようとしたからかもしれない。
僕は一度、洗面所へ立った。
冷たい水で手を洗い、鏡を見た。いつもの顔だった。朝から何度も手を見ているのに、顔を見るのは初めてだった。
目の下が少し暗かった。
戻る前に、スマホを開いた。
「嫌いになれ」という文字を、わざと画面の外へ送った。上の部分だけなら、ただの事故の警告だった。
その画面を律に見せれば、嘘はついていないことにできる。
そこまで考えて、僕はスマホをしまった。
席へ戻ると、律は手帳に何か書いていた。
僕に気づいて閉じたので、何を書いたのか聞きかけた。
今からの予定かもしれない。提出までに必要なものかもしれない。僕への不満かもしれない。
それを全部知っていないと友達でいられないのなら、僕はずいぶん難しい条件を律に出している。
「戻った」
当たり前のことを言うと、律が頷いた。
「おかえり」
僕は座った。
まだ話が終わっていないことが、嫌で、少し安心した。
律は折り畳んだ紙を、すぐにはしまわなかった。
「録音のことも、ちゃんと決めたい。提出に使ってええか、今日答えんでええから」
「別に、使えば」
「その言い方やったら、まだ使わん」
僕は律を睨んだ。
「いいって言ってるのに」
「ほんまにええと思ってるように聞こえへんから」
僕の投げた言葉を、律は拾って持ち帰ってくれなかった。
テーブルの上に置き直されたそれを、僕は自分で見なければならなかった。




