知らなかった行き先
「編入、受けようと思ってる」
律の声は、思っていたより静かだった。
紙には、音響について学べる課程の名前があった。
列車を乗り継いで、何時間もかかる街だった。
僕は一番上の大学名を読んだあと、紙の下まで目を滑らせた。
3年次への編入。作品と制作意図の提出。選考面談。
提出の締め切りは12月の半ばだった。
いつか行けたらいい場所の話ではなかった。律の手帳にはもう、準備する日が書き込まれているはずだった。
「受かったら、来年の4月?」
「うん」
「こっちの授業は?」
「単位がどこまで認められるか、問い合わせた。足りん分は向こうで取る。全部そのまま持って行けるわけじゃない」
律は、紙の裏も見せた。
担当窓口の説明を写したメモがあった。科目名の横に丸がついていたり、確認中と書かれていたりした。
僕はその文字の量に、置いていかれた気がした。
律は同じ昼休みに同じ食堂に座りながら、僕の知らない準備をしていた。
「下宿するんだ」
「そのつもり。お金は家でも相談してる。バイトも続けるけど、向こうの時間割出てから探す」
僕が穴を見つけようとしていることに、律は気づいていたかもしれない。
遠すぎるとか、無理があるとか、今の場所で十分だとか。そう言える理由がひとつあれば、寂しいと言わずに引き止められる。
けれど律の計画には、分かっていることと、まだ決まらないことがきちんと分かれていた。
分からないことがあるから全部やめる、という顔はしていなかった。
「ここじゃ、できないの?」
最初に出てきたのは、その言葉だった。
応援の言葉より先に。
「今の大学でもできることはある。でも、ここの制作の授業受けたい。録る場所で音がどう変わるかとか、ちゃんと実習でやりたいねん」
律は指先で科目名を示した。
何度も読んだ紙らしく、折り目が白くなっていた。
「この授業、何するの?」
僕は、本当に分からない科目を指した。
律の声が少しだけ変わった。
「同じ演奏でも、聴く位置や録り方で印象変わるやろ。どこに何置いたらええか、自分で試して、ほかの人と比べる。音だけじゃなくて、どういう場所で聴いてもらうかも考えるらしい」
「動画の音とか?」
「それもある。展示とか、舞台とか。俺が今やってる録音も、その中のひとつやねん」
律はスマホを開き、保存していた授業紹介を見せた。
学生が椅子やスピーカーを動かしている写真だった。全員が同じ方向を向いていない。ひとりはノートを見て、ひとりは床にしゃがんでいる。
楽器を持っていない人たちが、音楽に関わっていた。
「今年の公開授業、見に行った?」
「夏に、一回だけ」
僕は顔を上げた。
律が大阪にいない週末があったことを思い出した。何をしに行くのか聞いたら、ちょっと見学、と答えていた。
僕は自分の練習が忙しく、へえ、と返しただけだった。
「言ってくれればよかったのに」
口にしてから、あのとき僕も続きを聞かなかったと気づいた。
律が話さなかったことと、僕が興味を持たなかったことは、同じではなかった。
「どうだった?」
今度は、そう聞いた。
律は少し迷い、それから話し始めた。
部屋の隅で録った音を、同じ部屋の中央で流す授業だったらしい。説明だけでは僕にはよく分からなかったが、律はそのときの違和感を、机に指で四角を描きながら教えてくれた。
失敗した録音も一緒に聴いた、と言った。
どこが悪かったかを当てるだけではなく、何を残したかったかを先に話す。それを聞いてから、別の方法を試していたという。
「俺、いつもひとりで正解探してたから。人に聞けるん、ええなって思って」
僕は、その言葉に少し驚いた。
律には僕がいた、と思いかけて、違うと気づいた。
僕が話せるのは主に弾く側のことで、律が考えているすべてを聞けるわけではなかった。
その当たり前が、今まで僕には見えていなかった。
「いつから考えてた?」
「夏ぐらい」
夏。
僕が選抜の曲を決めて、律に録音を聴いてもらったころ。
一緒にコンビニのアイスを食べた帰り道も、会館の予約が取れたと喜んだ日も、律は別の街へ行くことを考えていた。
「知らなかった」
「言うの、遅くなってごめん」
「謝ることじゃないでしょ」
謝ってほしかったくせに、そう言った。
律は紙から手を離した。
「選抜の前は、終わってからにしようと思った。結果出たあとは……今じゃないって思って。けど、そんなん言うてたら、ずっと言われへんなって」
「今日の録音は?」
「提出する作品の一部にしたい。会館の記録でもあるけど、出願用にも使いたかった」
喉の奥が冷えた。
録音が必要だと言われたときのことを思い出す。
僕には、それだけで十分だった。
でも律にとっては、その先があった。
「出願用って、初めて聞いた」
「うん。そこは、頼むときに言うべきやった」
「あの曲を指定したのも、それで?」
「それもある。響きの違いが分かるようにしたかった。でも、湊が弾きたくない曲やったら別のにするつもりやった」
「言われてないことは、分からないよ」
律は頷いた。
僕が同じ言葉をぶつけられたら、何と答えただろう。
受信文の最後を隠していることが、胸のどこかに引っかかった。でも今は、律に謝っていてほしかった。
「昨日まで録った分、もう誰かに送った?」
「送ってへん。手元と保存用のコピーだけ。応募するなら制作に協力した人の名前も書くから、その確認もまだやねん」
「僕の演奏って書くんだ」
「もちろん。俺が弾いたことにはせえへん」
それを疑っていたわけではなかった。
律は僕の音を盗もうとしているのではない。それは分かっていた。
でも提出作品の名前の下に、協力者として自分の名前があるところを想像すると、説明のつかない寂しさがあった。
今まで2人の間だけにあった録音が、律の新しい場所へ向かう資料になる。
僕はそこに名前を残しても、一緒に引っ越すわけではなかった。
律は紙を僕の側へ少し寄せた。
「今日、承諾してもらうために、火事の話と一緒に出したんちゃうで」
「分かってる」
本当に分かっているのか、自分でも怪しかった。
ただ、律が危ない目に遭わないことと、律の希望に僕がすべて頷くことを、同じ借りにはしたくなかった。
その点では、僕たちは同じものを守ろうとしていたのかもしれない。
律は言い訳を挟まなかった。
「録るのと提出するのは別やから、今日説明して、使ってええか聞くつもりやった。でも、先に説明せんと弾いてもらったのは、俺が悪い」
謝られるほど、僕は何に傷ついているのか分からなくなった。
勝手に録音を提出されるのが嫌なのか。
遠くへ行くための作品に、自分の音が使われるのが嫌なのか。
「合格したら、引っ越すんだ」
「そのつもり」
「僕は?」
言った瞬間、律の顔が変わった。
僕は慌てて言い直した。
「いや、録音とか。今までみたいには、できないよね」
「今までと同じには、できんと思う」
律は、簡単な嘘をついてくれなかった。
毎週帰ってくるとか、何も変わらないとか。
僕はそんな無理な約束を待っていたことに気づき、紙の上の知らない街から目を逸らした。




