↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
明日の僕から、君を嫌いになれと届いた  作者: きびだんご


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
6/18

知らなかった行き先

「編入、受けようと思ってる」


 律の声は、思っていたより静かだった。


 紙には、音響について学べる課程の名前があった。

 列車を乗り継いで、何時間もかかる街だった。


 僕は一番上の大学名を読んだあと、紙の下まで目を滑らせた。

 3年次への編入。作品と制作意図の提出。選考面談。

 提出の締め切りは12月の半ばだった。

 いつか行けたらいい場所の話ではなかった。律の手帳にはもう、準備する日が書き込まれているはずだった。


「受かったら、来年の4月?」

「うん」

「こっちの授業は?」

「単位がどこまで認められるか、問い合わせた。足りん分は向こうで取る。全部そのまま持って行けるわけじゃない」


 律は、紙の裏も見せた。

 担当窓口の説明を写したメモがあった。科目名の横に丸がついていたり、確認中と書かれていたりした。

 僕はその文字の量に、置いていかれた気がした。

 律は同じ昼休みに同じ食堂に座りながら、僕の知らない準備をしていた。


「下宿するんだ」

「そのつもり。お金は家でも相談してる。バイトも続けるけど、向こうの時間割出てから探す」


 僕が穴を見つけようとしていることに、律は気づいていたかもしれない。

 遠すぎるとか、無理があるとか、今の場所で十分だとか。そう言える理由がひとつあれば、寂しいと言わずに引き止められる。

 けれど律の計画には、分かっていることと、まだ決まらないことがきちんと分かれていた。

 分からないことがあるから全部やめる、という顔はしていなかった。


「ここじゃ、できないの?」


 最初に出てきたのは、その言葉だった。

 応援の言葉より先に。


「今の大学でもできることはある。でも、ここの制作の授業受けたい。録る場所で音がどう変わるかとか、ちゃんと実習でやりたいねん」


 律は指先で科目名を示した。

 何度も読んだ紙らしく、折り目が白くなっていた。


「この授業、何するの?」


 僕は、本当に分からない科目を指した。

 律の声が少しだけ変わった。


「同じ演奏でも、聴く位置や録り方で印象変わるやろ。どこに何置いたらええか、自分で試して、ほかの人と比べる。音だけじゃなくて、どういう場所で聴いてもらうかも考えるらしい」

「動画の音とか?」

「それもある。展示とか、舞台とか。俺が今やってる録音も、その中のひとつやねん」


 律はスマホを開き、保存していた授業紹介を見せた。

 学生が椅子やスピーカーを動かしている写真だった。全員が同じ方向を向いていない。ひとりはノートを見て、ひとりは床にしゃがんでいる。

 楽器を持っていない人たちが、音楽に関わっていた。


「今年の公開授業、見に行った?」

「夏に、一回だけ」


 僕は顔を上げた。

 律が大阪にいない週末があったことを思い出した。何をしに行くのか聞いたら、ちょっと見学、と答えていた。

 僕は自分の練習が忙しく、へえ、と返しただけだった。


「言ってくれればよかったのに」


 口にしてから、あのとき僕も続きを聞かなかったと気づいた。

 律が話さなかったことと、僕が興味を持たなかったことは、同じではなかった。


「どうだった?」


 今度は、そう聞いた。

 律は少し迷い、それから話し始めた。


 部屋の隅で録った音を、同じ部屋の中央で流す授業だったらしい。説明だけでは僕にはよく分からなかったが、律はそのときの違和感を、机に指で四角を描きながら教えてくれた。

 失敗した録音も一緒に聴いた、と言った。

 どこが悪かったかを当てるだけではなく、何を残したかったかを先に話す。それを聞いてから、別の方法を試していたという。


「俺、いつもひとりで正解探してたから。人に聞けるん、ええなって思って」


 僕は、その言葉に少し驚いた。

 律には僕がいた、と思いかけて、違うと気づいた。

 僕が話せるのは主に弾く側のことで、律が考えているすべてを聞けるわけではなかった。

 その当たり前が、今まで僕には見えていなかった。


「いつから考えてた?」

「夏ぐらい」


 夏。

 僕が選抜の曲を決めて、律に録音を聴いてもらったころ。

 一緒にコンビニのアイスを食べた帰り道も、会館の予約が取れたと喜んだ日も、律は別の街へ行くことを考えていた。


「知らなかった」

「言うの、遅くなってごめん」

「謝ることじゃないでしょ」


 謝ってほしかったくせに、そう言った。


 律は紙から手を離した。


「選抜の前は、終わってからにしようと思った。結果出たあとは……今じゃないって思って。けど、そんなん言うてたら、ずっと言われへんなって」

「今日の録音は?」

「提出する作品の一部にしたい。会館の記録でもあるけど、出願用にも使いたかった」


 喉の奥が冷えた。

 録音が必要だと言われたときのことを思い出す。

 僕には、それだけで十分だった。

 でも律にとっては、その先があった。


「出願用って、初めて聞いた」

「うん。そこは、頼むときに言うべきやった」


「あの曲を指定したのも、それで?」

「それもある。響きの違いが分かるようにしたかった。でも、湊が弾きたくない曲やったら別のにするつもりやった」

「言われてないことは、分からないよ」


 律は頷いた。

 僕が同じ言葉をぶつけられたら、何と答えただろう。

 受信文の最後を隠していることが、胸のどこかに引っかかった。でも今は、律に謝っていてほしかった。


「昨日まで録った分、もう誰かに送った?」

「送ってへん。手元と保存用のコピーだけ。応募するなら制作に協力した人の名前も書くから、その確認もまだやねん」

「僕の演奏って書くんだ」

「もちろん。俺が弾いたことにはせえへん」


 それを疑っていたわけではなかった。

 律は僕の音を盗もうとしているのではない。それは分かっていた。

 でも提出作品の名前の下に、協力者として自分の名前があるところを想像すると、説明のつかない寂しさがあった。

 今まで2人の間だけにあった録音が、律の新しい場所へ向かう資料になる。

 僕はそこに名前を残しても、一緒に引っ越すわけではなかった。


 律は紙を僕の側へ少し寄せた。


「今日、承諾してもらうために、火事の話と一緒に出したんちゃうで」

「分かってる」


 本当に分かっているのか、自分でも怪しかった。

 ただ、律が危ない目に遭わないことと、律の希望に僕がすべて頷くことを、同じ借りにはしたくなかった。

 その点では、僕たちは同じものを守ろうとしていたのかもしれない。


 律は言い訳を挟まなかった。


「録るのと提出するのは別やから、今日説明して、使ってええか聞くつもりやった。でも、先に説明せんと弾いてもらったのは、俺が悪い」


 謝られるほど、僕は何に傷ついているのか分からなくなった。

 勝手に録音を提出されるのが嫌なのか。

 遠くへ行くための作品に、自分の音が使われるのが嫌なのか。


「合格したら、引っ越すんだ」

「そのつもり」

「僕は?」


 言った瞬間、律の顔が変わった。

 僕は慌てて言い直した。


「いや、録音とか。今までみたいには、できないよね」

「今までと同じには、できんと思う」


 律は、簡単な嘘をついてくれなかった。

 毎週帰ってくるとか、何も変わらないとか。

 僕はそんな無理な約束を待っていたことに気づき、紙の上の知らない街から目を逸らした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。