今日を中止する
話し始める前に、律のスマホが鳴った。
研究室からだった。
受信した内容と現在地を確認するための連絡だった。律が喫茶店の名前を言い、僕も一緒にいると伝える。代わって出た僕には、未来の文章を読んで体調に変化がないかと尋ねられた。
「平気です」
答えてから、少し訂正した。
「怖いですけど、ここにいます。会館には行きません」
担当者は、怖いのは当然だと言った。
決められた聞き取りより先に、今の予定を一緒に確認してくれた。
担当者は、律と話を代わる前に、少し席を離して話したいことはあるかと聞いた。
僕は向かいに座る律を見た。
律は聞こえないふりをするように、窓の外へ目を向けていた。
「今は、大丈夫です」
答えると、あとからでも連絡してよいと言われた。
すぐ答えを出さなくてよい、ということを、僕は朝から何度も言われていた。そのたびに少し楽になり、そのたびに、そんなに決められない顔をしているのかと思った。
電話を律へ返すと、律は僕の方を見ずに何度か頷いた。
僕の知らない質問も受けているのだろう。
僕は注文票の裏の白いところを眺めた。
聞かなくてもいい会話のあいだ、何をしていればいいのか分からなかった。
昔は、律に言わないことなんてほとんどなかった気がする。
でも本当にそうだっただろうか。
僕は選抜に落ちた日の夜、練習室へ行ったふりをした。律に、今日はもう寝る、と送ってから、布団の中で何時間も起きていた。
秘密ができたのは律だけではなかった。
律が電話を切った。
「今日は、聞き取りのために大学へ来んでええって」
「そっか」
「落ち着いてから、都合の合う日を連絡する」
僕は頷いた。
研究にも、録音にも、今すぐ僕たちを必要とする用事がなくなった。
その空いた午後に、僕たちはまだ向かい合って座っていた。
通話を終えると、律が手帳を開いた。
今日のページには、鉛筆で時間割のような予定が書かれていた。
音楽室集合。マイク確認。録音。機材返却。
律は録音から返却まで、一本の線で消した。
紙の端に「返却は来週」と書き足す。
「消すんだ」
「中止になったから」
簡単なことだった。
中止になった予定を、中止と書く。
それだけで本当に違う日が始まるような気がして、僕は律の手元を見ていた。
律の手帳には、録音の予定の下に小さく「会館の外観」と書かれていた。
「写真も撮るつもりだった?」
「閉まる前に。一応、部屋と一緒に残しときたかった」
僕は、あの建物を外からきちんと見たことがほとんどなかった。
予約時間に遅れないよう入口へ向かい、弾き終わったら駅へ歩く。外壁が何色か尋ねられたら、少し迷うと思う。
「そんなに好きだったんだ、あそこ」
「好きやで。湊は?」
「ピアノ、少し重い」
「部屋の話してんねん」
律は笑った。
僕も笑い、それから少し考えた。
「冬、暖房がつくまで寒い」
「せやな」
「受付の時計、2分進んでる」
「知ってた?」
好きかと聞かれた返事にはなっていなかった。
それでも律は、ほかには、と目で促した。
「休憩するとき、廊下の自販機の前だけ暖かい。あと、3番の椅子、座ると絶対音がする」
「湊、あれ選ぶこと多いねん」
「そうだっけ」
「高さがちょうどええんやろ。毎回録音に入る」
なくなるものが、少しずつ形を持った。
会館に通うことを、いつでも替えのきく練習場所を借りることだと思っていた。でも大学の部屋では、受付の時計を見て律が歩調を緩めることも、自販機の前で指を温めることもない。
律はそれを、閉館すると決まる前から聴いていたのだろう。
僕が弾いていない時間にも、録音を続けていた。
「別の部屋で録ったら、同じにならないんだ」
「ならへん。けど、別の部屋には別の音がある」
律は手帳の端を撫でた。
線を引いて消した予定を、消しゴムでなくそうとはしなかった。
そこに行きたかったことは、残しておくのだと思った。
「何?」
「未来って、こんな感じで変えていいんだなって」
「危ないって分かって行く方が、変やろ」
もっともだった。
メールを受け取る前の僕なら、そう言ったはずだ。
担当研究員の説明を思い出した。
僕たちの行動は、送ってきた側の世界を直さない。
ここで火事を防げても、あちらの僕の右手が元どおりになるわけではない。
僕はもし昨日に戻れたら、とよく考える。
選抜の前にもっとゆっくり弾いておけばよかった。指が疲れた時点で練習をやめていればよかった。講評をすぐ聞きに行っていれば、こんなに引きずらなかったかもしれない。
そういうとき想像するのは、失敗をなかったことにした自分だった。
今回の実験は、そうではない。
説明会で聞いたときは、使い道の少ない仕組みだと思った。自分の昨日が変わらないなら、何の得になるのだろう、と。
今、助けられる側になって初めて、あちらには得がなくても、こちらには今日が残るのだと分かった。
僕は右手を開いた。
警告を送った手は、同じ形をしているだろうか。
明日の僕は、僕がここでコーヒーを飲んでいることを知らない。
知らせたくても、番号を知っている友達に電話をかけるようにはいかなかった。
目の前にいる律へなら、何か言える。
それなのに僕は、まだ文章の一部を隠している。
相手が遠すぎて伝わらないことと、近くにいるのに言えないことが、同じテーブルの上に並んでいた。
「向こうの僕は、今日をやり直せないんだよね」
律は手帳を閉じた。
「そう聞いた」
「それなのに送ってきたんだ」
僕はスマホの角を親指で擦った。
自分だけ痛い思いをしたまま、何も知らない自分を助ける。
そんなことができる人間だとは思っていなかった。
でも最後に、律を嫌いになれと付け足すところまで考えたら、急に他人とは思えなくなった。
「湊」
顔を上げると、律はすでに僕を見ていた。
「今日、録音がなくなったからって、俺、帰りたいわけちゃうで」
僕は何も言わなかった。
「弾いてもらわんでも、話したいことある」
律は鞄の中から、折り畳んだ紙を出した。
録音に使う楽譜ではなかった。
知らない大学の名前が、一番上に印刷されていた。




