火のない朝
会館は、午前中のうちに臨時休館になった。
僕たちの話だけで決まったわけではなかった。
研究室から施設へ連絡が入り、管理者が設備業者に点検を依頼した。施設には前から、照明が瞬間的に落ちるという報告もあったらしい。
原因を確認するまで貸室を止める、と会館のホームページに告知が出た。
その告知を、僕は何度も開き直した。
未来の僕が知っている会館にも、このお知らせは出ていたのだろうか。出ていても、僕は戻ったのだろうか。
考え始めると、どの情報も怖い方へつながった。
研究室へ、会館が閉まったなら火事は起きないのか、と問い合わせた。
担当者は、今分かっていることだけを答えた。利用者の入館は止まっている。現場の安全確認は管理者と専門の業者が進める。何も起きないと保証はできないが、危険を減らすためにできる対応を取っている。
僕が現場へ確認に行く必要はない、とも言った。
「僕たちが連絡したせいで、点検の人が巻き込まれませんか」
「危険の可能性と時刻は、対応する方にも伝えています。具体的な作業方法は現場で判断します。あなたが建物に入り、安全を確かめる役割ではありません」
僕は、分かりました、と答えた。
電話を切っても、何か忘れている気がした。
何もしないことが怖い。だから近くへ行きたくなる。
その気持ちが、メールの「戻るな」と結びついた。
駅前へ行くとき、会館のある通りを避けた。
遠回りになるのは数分だった。信号待ちのあいだに、会館へ向かう方の道を見た。
自分で選んで違う道を歩いているだけなのに、知らない場所へ来たような気がした。
律には、今から家を出る、と送った。
すぐに、俺も、と返ってきた。
昨日なら、そんな連絡はしなかった。
少し面倒で、でもその面倒がありがたかった。
午後1時、駅前の喫茶店で律と会った。
僕が先に着いた。入口が見える席を選び、律がドアを押すまで、運ばれた水に手をつけなかった。
「お待たせ」
その声を聞いて、ようやく息を吐いた。
律は気づかなかったふりをして、向かいに座った。
コートの襟が片方だけ内側へ折れていた。
僕が指さすと、律は慌てて直した。
「走ってきた?」
「いや。電車、一本待った」
「急がなくてよかったのに」
「急いでへんって」
いつものやり取りだった。
律は椅子の背へ鞄を掛けようとして、やめた。机の下、自分の足に触れる場所へ置く。
スマホは鞄にしまわず、手元へ出していた。
「昨日の僕、何で電話つながらなかったんだろう」
声に出してから、昨日ではないと気づいた。
あちらで起きた、こちらではまだ起きていない今日。
言葉が追いつかなかった。
「向こうのことは、俺も分からん」
律は言って、自分のスマホを軽く持ち上げた。
「今日は出られるようにしとく」
僕は頷いた。
分からないことを無理に埋めず、今日のことだけ決める。
説明会で言われたことより、その動作の方がよく分かった。
「録音、残念やけど。また場所探そ」
「そうだね」
律がメニューを開く。
僕は両手が見える位置に自分のスマホを置いた。
「機材は?」
「返却、来週でええって。今日は取りに来てもらうのもやめた。敷地に入らん方がええやろし」
「点検の人は、大丈夫なのかな」
「それも研究室に聞いた。危険かもしれん場所と時間は伝えて、作業する側で対応考えてるって」
「僕も同じこと聞いた」
「そっか」
律はメニューを閉じた。
机の端で、爪が小さく鳴った。
「俺、最初に会館へ電話したとき、何て言うたらええか分からんかった」
「未来からメールが来た、って?」
「いきなりそれだけ言うても困るやろ。研究に参加してることと、日時のある火災の情報が届いたこと、順番に話した。途中で自分でも何言うてんねんってなった」
僕は初めて、朝の律も怖かったのだと具体的に想像した。
電話では必要なことばかり言っていたから、僕より落ち着いているのだと思った。
「受付の人、ちゃんと聞いてくれた?」
「最初は確認しますって。あとで研究室からも連絡行って、管理の人が代わってくれた。俺の予約番号も聞かれた」
「僕も聞かれた」
同じ番号を、2人が別々の部屋で読み上げていた。
律は番号を覚えていた。僕はメールを探した。
似たことをしていても、まったく同じ朝ではなかった。
「休館で、ほかの人にも迷惑かかったね」
「そうやな」
律は否定しなかった。
「予約してた人は困ると思う。でも、それで黙っといた方がよかったとは、俺は思わん」
謝らなくていい、と言われるより納得できた。
誰にも迷惑をかけずに危険だけを消す、そんな選び方はなかった。
僕は施設へ伝えたことを取り消さなくていいのだと、もう一度自分に言った。
律が、ようやく水を飲んだ。
喉が渇いていたのか、グラスの半分ほどが一度に減った。
僕は店員を呼びかけて、律が自分で水差しを取るのを見て手を下ろした。
小さなことだった。
でも今日は、律が自分でできることにまで、手を伸ばしそうになった。
律がコーヒーを頼み、僕は同じものを頼んだ。
店員が去ったあと、僕はようやく言った。
「見せて」
「何を?」
「律に来たメール」
律の指が、メニューの角で止まった。
「火事のところは、電話で言った通りやで」
「それ以外もあるんだ」
責めるつもりではなかった。
でも口から出たあとに聞いたら、そういう声だった。
「ある。先に、俺から話したいことがあって」
昨日、改札で聞いた言葉と同じだった。
僕は自分のスマホの画面を下へ向けた。
「僕にも見せろとは言わないんだね」
律は僕を見た。
「見せてくれるなら見る。でも、湊が先に話したいことあるんやったら、待つ」
その答えを優しいと思った。
同時に、自分はもう試されている気がした。
僕なら相手の画面を待てるだろうか。今、見せてと言ったばかりなのに。
コーヒーが届いた。
律はミルクを入れず、スプーンだけを一度動かした。考え事をしているときに、よくそうする。
「昨日の話、してええ?」
僕は頷いた。
外を救急車が通った。僕たちはどちらも窓を見た。
サイレンは交差点を曲がって、会館とは反対へ遠ざかった。




