もう律を嫌いになれ
翌朝の9時に、メールが届いた。
送り主の欄には、自分の名前があった。
送信日時は11月4日。スマホの上に表示された日付は11月3日だった。
僕はまだ朝食の皿を洗っていなかった。
テーブルには、ジャムを塗りそこねたパンの耳が残っていた。
〈今日17時すぎ、音楽室のある会館で火事になる。律は外にいる。絶対に戻るな。あいつのために右手を失うな。もう律を嫌いになれ。〉
最初は、意味より先に右手を見た。
親指の脇が少し乾燥していた。昨日、鍵盤の端にぶつけた小指も、もう痛くない。
5本とも動いた。
テーブルの上に指を置いた。
親指、人差し指、中指。小さく順番に叩く。
何度も練習した音型だった。音は鳴らない。机の固さだけが指先に返ってきた。
薬指を上げたところで、急に次が分からなくなった。
僕は手を膝へ戻した。
まだ、何も起きていない。
窓の外では隣の家の洗濯物が揺れていた。室外機の音がして、階段を誰かが下りていった。
同じ景色を見ながら、僕はもう、さっきまでの朝へ戻れなかった。
日付を確かめるために、カレンダーを開いた。
11月3日。録音、と書いた予定があった。
昨日の律の声が思い出された。録音が終わったら、話したいこと。
僕はそれを聞くより先に、そのあとで自分が大けがをすると知ってしまった。
手を失うとは、どういうことなのだろう。
文章には、病名も、治療の結果も書かれていなかった。怪我をしたばかりの僕が、怖くてそう表現しているのかもしれない。
そう考えても、安心できなかった。
ピアノの蓋を見るのが嫌で、僕は椅子を少し回した。
もう一度読んだ。
火事。律は外。戻るな。
最後の一文だけが、うまくほかとつながらなかった。
もう律を嫌いになれ。
実験の識別番号は一致していた。別のメールから開いたリンクではなく、自分で登録アプリを起動しても、同じ文章が記録されていた。
何かの間違いだと思いたかった。
けれど最後の言い方は、ひどく僕に似ていた。
律に腹を立てても本人には言えず、家に帰ってから、もういい、もうやめよう、と何度も考えるときの僕に。
偽物であってほしかった。
研究室から渡された控えを引き出しから出し、番号の末尾を比べた。紙を持つ右手が震えて、数字を見間違えた。一度机へ置き、端末も横に並べた。
同じ番号だった。
送信者の認証情報は、僕が登録したものに対応していると表示されていた。
だからといって、本文のすべてが正しいと証明されたわけではない。説明会でもそう聞いた。未来の自分にも勘違いや推測はある。
けれど火事のことを冗談だと決める勇気もなかった。
スクリーンショットを撮った。
撮ってから、受信記録が消えないことを思い出した。消えないと言われても、今はもうひとつ持っておきたかった。
写真の一覧に昨日の譜面が並んだ。その隣に、右手を失うなという文章が加わった。
僕は一覧をすぐ閉じた。
律のトーク画面を開き、メール来た、と打った。
最後の一文は書かなかった。
その短い下書きさえ、まだ送れずにいた。
スマホが震えた。
律だった。
「湊、今、連絡して大丈夫?」
僕は通話に応じた。
「メール?」
「うん。そっちも来たんやな」
「火事のやつ?」
「そう。今日の会館、行くのやめよう。俺、今から管理の人に連絡する」
声が急いでいた。
いつもの律の、録音が始まる直前の慎重な声とは違った。
「律にも来たんだ」
「来た。湊が俺を探しに戻って、大けがするって」
僕はテーブルの下で右手を握った。
「そっちは、何て?」
言える機会だった。
ここで全文を読めばよかった。
「17時すぎに火事が起きる。律は外にいるから、戻るなって」
「分かった。俺、今日は返却だけも行かん。機材は貸出延長できるか聞く」
隠した言葉は、声に出さなかった分だけ重くなった。
「俺の方からも研究室に連絡する。湊も、そっちに来た記録そのまま送って。緊急窓口、説明書にあったやろ」
「分かった」
通話を切ってから、僕は研究室の緊急連絡先を開いた。
受信記録の共有には同意した。火災予告として施設に連絡してほしいことも伝えた。
担当者は、具体的な日時と場所があるため、実験上の観測より人の安全を優先すると言った。
担当者は、僕にもう一度、会館の正式な名前と所在地を確認した。
「音楽室のある会館」だけでは場所が特定できないからだった。
未来の僕は自分なら分かるつもりで書いていた。でも、誰かに動いてもらうには、それだけでは足りなかった。
僕は予約確認のメールを開いて、住所を読み上げた。
「そちらへ向かっているところではありませんね」
「家です」
「施設への連絡はこちらでも行います。利用者としてのキャンセルはできますか」
「できます」
できることをひとつずつ聞かれると、言葉を返せた。
火事が起きるかどうか考え続けることより、予約番号を探す方が簡単だった。
「その文章、律にも見せないといけませんか」
思わず聞いた。
担当者は、安全に必要な情報を相手へ伝えてほしいが、受信文のすべてを友人へ開示することを研究参加の条件にはしていないと答えた。
僕が研究室へ共有した全文と、施設に伝える危険の情報は分けて扱うという。
ほっとした。
その直後に、後ろめたくなった。
律を傷つけないために隠しているのか、自分が責められないために隠しているのか、分からなかった。
会館へ電話をかけると、呼び出しが何度も鳴った。
ようやく出た人に予約を取り消すと伝えた。律からも連絡が来ていると聞き、同じ枠だと確認した。
電話口の人は、僕たちが貸室を間違えていないか、日付をもう一度確かめた。
僕は間違えていないと答えた。
今日は、行かない。
口に出すと、それが自分の予定になった。
今できることをしているうちに、右手の震えは少し収まった。
その手で、律へのトーク画面を開く。
〈今日は会館行かない〉
送ると、すぐに返事が来た。
〈俺も。あとで駅前で会える?〉
僕は「うん」と打った。
未来の僕が、どうして嫌えと言ったのか。
それを知りたいと思っていた。
律の無事を確認したいという気持ちと、区別できないくらい近いところで。




